10.
このアパートで暮らす小さな楽しみは、数えるたび増えていく。目分量で煎れるインスタントコーヒー、煙草のにおい、外置きの洗濯機の水音、階段下の猫、少し硬い洗面所のスイッチ、素足で触れる床板の冷たさ――幸せを数え上げる行為でもある。
休日の朝食の中にも、それはいくつも散りばめられている。
テーブルにおかずをいくつも並べるだけで、なんでこんなに嬉しいのだろう。一人の朝食ならコンビニのシュークリームでじゅうぶん、こんなふうに何品も用意したいなんて思わない。勝手にしていることだから、彼のためなんて言ったらあんまり傲慢だけど。そう思える相手がいること、それが丈であること、このアパートで今日も暮らしていること、全部が幸せで、まだふとした瞬間に全部が夢なんじゃないかって気持ちになる。
今朝の献立は、ほうれん草とベーコンの卵とじと、さつま揚げの煮物、根菜とこんにゃくは味噌汁ではなくけんちん汁風に醤油で仕立てた。けんちん汁に入れる大根の皮を厚めに剥いて千切りにし、ハムとマヨネーズで和えただけのついでのサラダが案外おいしかった。柄も大きさもばらばらの器にそれぞれよそって、二人で向かい合って食べる時間が、彼にとっても少しでいいから幸福なものであればいいと思う。手間をかけなくていいと店主の口癖で言う丈に、なんだかとんでもない我儘をぶつけてしまったような罪悪感もあるが、受け入れてもらえた嬉しさのほうがずっと大きかった。
湯沸かし器の小さな窓から覗く炎も好きだ。
スイッチを押すと、チチチチとさえずるように鳴ってから青白く灯る。つまみを回して少し温度を調整するうちにシンクの中が湯気で真っ白になって、手のひらで受けると温かいお湯に思わずほっと溜息が出る。
二人分の茶碗と汁椀と箸、煮物に使ったどんぶりと、二枚の中皿は縞模様と無地の白。洗い桶がないことに最初は戸惑ったが、今はすっかり慣れた。洗い場でひたすら皿を洗っていたのがずいぶん昔のように感じる。二人分の少ない食器はほんの数分で洗い終わってしまうから、時々はそれが物足りないくらいだった。
「なんだ、後でやるから置いとけと言ったろ」
戸が開く音にも、気配が近づいてくるのにも気づいていた。ただ、振り向こうとすると後ろ頭が分厚い胸板に受け止められて、丈がほとんど自分を抱き込むような姿勢で立っているとは思わなかったから、心臓が跳ねる。
「……あ。でも、そんなにないから」
「手際が良いのも考えものだよな」
顔の横をぬっと腕が伸び、灰皿を掴む。
「休みの日くらい怠けろ。俺みたいに」
くくく、喉の奥を鳴らす忍び笑いの息がかかる距離だ。痺れに似た感覚がじんわりと耳朶に広がり、日夏がたまらず肩を震わせるのに気づいたのだろうか、また愉快そうに喉の奥で笑う。灰皿を手にした丈は、コンロに火を付けると、咥え煙草のまま鼻先を近づけて危なげなく煙草に火を移す。すうっと吸って、ふーっと斜め上へ吐いた煙が、換気扇に吸い込まれていく。洗剤のにおいの混じったマルボロの重い煙が、肺まで届き、満たす感じ。
「お前は?」
「え?」
「コーヒー飲むか?」
「あ、うん」
やかんの中身を確認してそのまま火にかけると、また、ふーっと煙を吹き上げる。黙って煙草を吸う丈の隣りで、日夏は少しくすぐったい気分になっている。今は台所で吸いたい気分なんだろうか。それとも、もしかして、自分に付き合ってここにいてくれるのだろうか。なんて空想しながら。
最後の中皿をすすいで、湯沸かし器を止める。
タオルは昨日替えたっけと思いながら手を拭いていると、無言の丈にその手を掴まれた。
「あの」
ほかほかと湯気の立つ日夏の手を品定めするようにひっくり返して観察すると、
「ワセリン塗っとけよ」
指先をさすってくれる。
そう言う丈の手のほうがずっとかさついていて、思わず笑ってしまった。
「はい」
鷹揚に頷いた丈は調理台にマグカップを並べ、インスタントコーヒーの瓶に手を伸ばす。
「お前の気持ちがわかったよ」
蓋を開けながら不意に呟かれた言葉は、自分に向けられたものだったのだろうが、意味を捉えられずに戸惑って横顔を見返す。丈は瓶を傾けてざらざらと粉を落としながら、その片頬で笑った。
「このマグカップ」
「あ、うん」
「取りに戻ったんだろ?」
丈のマグカップの横には、今、彼の見慣れないマグカップが置いてある。奥へしまった熊のマグカップではなく、持ち主のわからない他のマグカップでもない。でも、頓着のない性格の彼だから、そんな些細なことには気づいていないと思っていた。悠生と暮らしていたアパートから持ち帰ったマグカップを、今の自分が使っていることに。
「こういうのが好きなのか?」
「ううん。昔、コンビニのポイントでもらったやつ」
「ふうん」
「ずっと使ってたから、なんとなく」
「よっぽど熊が好きなのかと思ったよ」
「そんなことないけど……たぶん」
「たぶん、ねえ」
「これ、高校生の時から使ってて」
「そりゃ物持ちが良いな」
「全然割れないから」
マグカップに描かれているのは、大衆的な熊のキャラクターだ。別に嫌いではないけど特別な思い出もないキャラクターのマグカップを、割れないからという理由でずっと使い続けていた。
「新しいの買ってやる」
「え?」
「これじゃなくてもいいんだろ?」
「うん……けど、なんで?」
やはり不意の提案に、やはり戸惑って丈を見上げる。
こちらを見下ろす丈は口元をほろ苦く緩ませると、次に、ふっと破顔した。
「言ったろ、お前の気持ちがわかったって」
「あの」
「妬けるよ」
思いもよらない言葉だった。
「だから買ってやる」
子供っぽい嫉妬を見抜かれていた羞恥と、苦笑混じりの告白が、甘く響く。
「嬉しい……です」
「うん?」
「お揃いにしてもいい?」
「俺と?」
「うん」
「まあ、構わんが」
頬と、目頭のあたりがきりりと熱くなる。日夏はたまらず丈にしがみつき、焚き染めたような煙草のにおいをくすんと吸い込んだ。
「もっと早く言ってやればよかったな」
「ううん」
びくともせずに日夏を受け止めた丈が、腕を回して抱き寄せてくれる。逞しい腕の中で顔を上げ、見上げると、複雑な微笑を刻んだままの丈の顔が近づく。長い指が前髪を払い、鼻先が迫るから、日夏はうっとりと目蓋を閉じた。
シューシューと小さく吹いていたやかんの音が消える。
「ん」
温かい唇が触れ、少しずつ、ぴったりと重なっていく。
角度を変えて吸われるうちに、知らず開いた口の端から涎が伝ったかもしれない。両腕を伸ばして乞うと、丈は日夏の舌先を強く吸い、ぢゅ、と粘ついた音が立った。
身体じゅうが熱くなっていくのがわかる。合間から漏れる息、背中をゆっくり撫でる手のひらの硬さ、支えてくれる腕の力強さ。それから、腹の中で感じた怯むくらいの質量とか、ぶつかるたび肌に走るひりひりとした痛みとか、脳内でスパークした無数の生命の幻覚とか。こんなにも全部が夢みたいなのに、こんなにもはっきり憶えている。
ぼうっと頭が痺れ、力が抜ける。反り返った喉へ丈の唇が触れ、首筋を這い、耳元でちゅっと弾ける。
「思い出してるのか?」
「ううん……」
唆すような笑い含みの問いに、もどかしく頭を振る。
「忘れられないだけ……」
中毒になってしまったのかもしれない。頭の中から、身体の奥から、消えないのだ。四六時中考えては、持て余している。皮膚の下に無理やり押し込めているけど、気を抜けばきっとすぐに溢れだすのだと思う。
「たまんねーな、お前は」
「んっ……」
鼻声を上げて、日夏は丈にかじりついた。
腰がくねる。逞しい太腿に強張った前を擦りつけると、衣擦れの刺激だけで駆け上がりそうになる。
「丈さん」
「積極的だな」
「……気分じゃない?」
「いや。今なった」
身体が浮き、シンクの縁に座らされる。ほとんど同じ高さになった彼の目をじっと覗き込むと、熱っぽくぎらついているのがわかった。
鼻筋が交差し、再び深いキスになる。
ニットの裾をくぐった大きな手に脇腹を撫でられ、肌寒さだけでない感覚に何度目か喘いだ時、ピンポーン、玄関のチャイムが鳴る。
「……丈さん」
「構わねーよ」
「でも」
「でも?」
くすりと笑われ、揶揄うようにふくらはぎを二度叩かれる。聞き分けの良い人間を演じようとしたって、言葉と裏腹に丈の腰にきつく脚を絡めているのは自分だ。
ピンポーン。もう一度チャイムのあと、ドンドン、とドアを揺らすようなノック。
「郵便局でーす。お荷物のお届けでーす」
盛大なため息に、前髪が吹き上がる。
丈は胸まで上げた日夏のニットを引っ張り下ろし、
「はいはい……」
のそりと玄関へ降りた。
よく洗って皮つきのまま茹でたじゃがいもをザルに上げると、それだけでほくほくのじゃがいものいいにおいがする。固く絞った布巾を使うとつるりと皮が剥けるから、熱いのを堪えて一息に作業する。これにバターと塩だけでも一品になるとは思うのだが、せっかくだからもう少し手を加えるつもりだ。木べらで潰して塩こしょうを振り、炒めておいた玉ねぎと挽肉を入れ、滑らかになるように牛乳を加えて混ぜる。
「ばんわー」
「こんばんはー」
ガラリ、勢いよく戸が開き、コンバットブーツと革靴の足元が見える。
「いらっしゃい」
暖簾をくぐって入ってきたのはエディと朝倉で、コートを脱いで壁際にかける朝倉を置き去りに、エディがカウンターの中へ身を乗り出してくる。
「ひなっちゃん、それなに?なにができるの?」
「えと、コロッケです」
「丈さん!コロッケだって」
「知ってるよ」
「コロッケって手作りできるんだね、すごい!」
「いやエディ、俺たちには無理だと思うよ」
「そりゃね。あと丈さんにも無理だよね」
「そうだよ。ほら座れ、とりあえず酒を注文しろ」
いつの間にか朝倉もこちらを覗き込んでおり、なんとなく気恥ずかしくなって手元を隠す。
「あの、普通のコロッケですよ」
「普通のコロッケなんて、むしろ食べる機会ない気がするな」
「うんうん、そうだよ」
熱燗を準備し始める丈の横で、てんぷら鍋に新しい油を注ぐ。溶き卵、小麦粉、パン粉の皿と、空のバットを用意して、衣をつけていく。その作業をやはりじっと見守られているのがわかり、やはり言い訳がましいせりふが口をつくのだ。
「このじゃがいも、浩輔さんが送ってくれたんです」
「あ、今、農場でバイトしてるんだっけ。浩輔さんが丹精込めて育てたじゃがいもかあ」
「一ヶ月でじゃがいもって収穫できる?」
「あっちゃん……なんで今マジレスしたの?」
「あ、ごめん、ちょっと信じてた」
「まあ、送ってくれるのはいいんだが、どうせならアパートじゃなく店に送ってほしかったよ。どのみちこっちに運ぶんだ」
「じゃあ、家で食べてほしかったんじゃない?」
「だとしたら十キロ送ってくるか?」
「浩輔さんにそんな繊細な気遣いないかぁ」
「ないだろうな」
本人のいないところでずいぶんな言われようだ。いや、送り状の電話番号に電話をかけた丈は本人相手にも同じようなことを言っていたっけ。そこには少しの八つ当たりもあったかもしれないと、汗だくのまま収まらない呼吸を毛布の中で整えながら、背中越しに会話の片方を聞いていた。
具には全て火が通っているので、衣にきれいに色がつけば成功だ。最初の二つはそれぞれ小爆発を起こし、火加減を調整しながら本番スタート。今度はきれいに揚がったコロッケには、そのままでも程々に塩気があるが、せっかくならウスターソースをかけてほしいところ。
大根をつまみに熱燗を減らしていた二人と、カウンターの隅から片手で合図を寄越した崇にそれぞれ揚げたてのコロッケを提供すると、皆揃って感嘆してくれた。
「あっつい、さくさく、おいしい」
「食うか喋るかにしろ」
「くう、くう」
「ソースが染みたところもおいしいよ」
「ありがとうございます……ほんと、簡単ですけど」
「ひなっちゃんの簡単と、俺たちの簡単は、たぶん次元が違うんだろうね」
「ねー。他は?今日は何があるの?」
「サイコロステーキならすぐ出せるぞ」
「なんか、今日は懐かしい名前が出てくるなあ。久しく食べてない」
「食うか?」
「くう、くう」
「俺も。食います」
丈が気まぐれに買った合成肉だが、子供の頃、日夏もそれが好物だった。フライパンで焦げすぎ寸前の絶妙な焦げ目をつけるのは、丈のほうが上手い。嫌味だろうと笑われたが、本心からそう思う。もうもうと煙が立ち始めたところに醤油をかけると、じゅわっといい音が立ち、醤油の焦げるにおいという他に例えようのない芳香が広がる。
「やばい、うまそう」
ひとかけ味見役を仰せつかった、無造作に焼いて醤油をかけたサイコロステーキ。常連客からの批判は多いが、店主の手料理はやはり、最高にうまいのだった。