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4.
 子供時代の夏休みが、いまだ幻のように頭のどこかに住んでいるように思うことがある。ノスタルジーと呼ぶのかもしれないそれは、暑さで弱った自己を時折じわりと蝕むことがある。ああ、どうしてこんな未来になったんだろう、という漠然とした、虚しいでも悲しいでもない感慨。大人になるとはこういうことなのかもしれない。ずっと続くように思えた八月も、三十二日めで九月になった。カレンダーを一枚めくったところで急に夏が終わるわけもなく、残暑と呼んではみても温度計の示す数値は変わらない暑さが続いている。
 日差しを避けるために、庭仕事は日が暮れ始めてからしている。
 祖父の手入れしていた庭にはバラだけで何種類も植えられていて、他にも名前もわからない様々な花が咲いている。まさに花園といった趣の庭に、最初は本当に途方に暮れた。物の本やネット検索を頼りに、恐る恐る鋏を入れたり薬を与えたりしているうちに、そもそも自分の不勉強が原因とはいえ弱っていた花が元気になり、ほんの少しの成果があると、庭仕事は嫌いではないと思えるようになった。虫が苦手なのは相変わらずだったが、それだって滑稽なほど腰が引けていた頃に比べれば、多少はましになったと思う。無造作に投げ入れるだけで絵になる花々のおかげで、いつもサロンの花瓶に摘みたての花を活けることもできる。
 雑草の根元にシャベルを突き立てた手元に、影が落ちる。
「そんなに頑張ってると、倒れちゃうよ?」
「――お帰りなさい」
 顔を上げると、濃いオレンジ色の空気の中、逆光で暗い色をまとった牛飼が立っていた。
「ただいま」
 芝生を踏む足音には気付いていたし、もう少し前、静かなバイクの音が入口で止んだのも、それからエンジンを切ったバイクを裏の軒下まで押す音にも、気付いていた。
「まだかかるの?」
「もう終わります」
 今しゃがみ込んでいる辺りの雑草を抜いて、今日の作業は終わりにしようと思っていた。無言で近瀬の隣りにしゃがみ込んだ彼と、ほんの一瞬肘が触れる。
「なんですか?」
「見学」
「それはありがたいですね。兼崎くんは手伝ってくれましたよ」
「だって、もう終わるんだろ?」
 ふふっと笑った息遣いが伝わってくる。
「ちゃんと水飲んでる?」
「こんな所で倒れませんよ」
「空耳かな」
「あの時は……」
 彼との初対面を忘れたわけではないが、あれは悪い偶然みたいなもの。揶揄われているとわかるから、むきになるのも変だろうと口ごもったせいで、言い訳のタイミングを失ってしまう。やはり愉快そうに笑った牛飼は、さて本格的に見学を決め込むつもりだろうか、片手に持ったペットボトルのキャップを開け、ごくごくと喉を鳴らした。それから、近瀬の鼻先にそれをずいと差し出す。
「飲む?」
 見学と言った矢先の妨害行為に、思わず笑ってしまった。
 頬に触れたペットボトルの表面はまだ冷たく、そそられたのも事実。軍手を外して受け取り、一口だけと喉に流し込んだはずが、二口、三口、と止まらなくなる。ふう、とやっと息を吐けたのは、半分ほど減っていたミネラルウォーターをさらに半分まで減らしてからで、膝に頬杖をついてじっとこちらを見ていた牛飼に気付き、近瀬は恥じ入って唇を押さえた。
「喉、乾いてたのかも……」
「全部飲んじゃいなよ」
 ふっと和らいだ顔と、笑い含みの穏やかな声。
 日に焼けた肌に濃い影が落ちて、透き通った白目が強烈なくらいだなんて、的外れなことが頭をよぎる。
 一瞬の陶酔を醒ましたのは、不意に聞こえた虫の声だった。文字で書けばカナカナとなる、ヒグラシの声。ずいぶん大きいから、生垣あたりにいるのかもしれない。
「そろそろ、秋ですね……」
 ぽつりと呟くと、
「そうだな」
 ぽつりと返ってくる。
「日が暮れるのも、早くなってきたしな」
 彼の仰いだ空の色は、オレンジから青がかった灰色へ変わり始めている。やがてすっかり日が暮れるだろう。

 一階の一番奥、裏口から最も近い部屋に、数か月前まで祖父が、今は自分が暮らしている。トイレやキッチンの場所、窓の位置、床や壁の質感など、住む場所が変われば単純に戸惑うことも多かったが、そう思いながらもいつの間にか慣れるものだ。あらかた祖父が譲ってくれたので、引っ越しに当たって近瀬が持ち込んだ家具は少ない。自分の使っていた安価な家具と違って、祖父の使っていた物はどれも上等だった。中でも古い書斎机は、小さな傷こそ多かったが滑らかな手触りと艶のある深い色合いのアンティークな代物で、分不相応という気持ちもあるが近瀬はこの机に向かうのが好きだった。
 もう一つのお気に入りは、やはりずいぶんアンティークなソファだ。飴色の革張りで、押し返してくるような弾力がある。これに寝そべって、映画を流しながら寛ぐのが、ささやかな余暇の過ごし方だった。
 夕方頃から、少し涼しい風が吹いていたからかもしれない。扇風機を止めて、時折吹き込むその風に当たっているうちに、眠りこけていたらしい。目が覚めた時には部屋は真っ暗で、テレビだけが青白く光っていた。
「何時……」
 ぼんやりとひとりごちながら見た時計は、もうすぐ十一時になろうとしていた。ずいぶんぐっすり寝ていたものだ。玄関の鍵をまだ閉めていないし、そうだ、裏口も閉めないと。サロンの窓も開けっ放しだ。夕食を摂り損ねたのはいいとして、風呂には入っておきたい。あと一時間も遅いと、深夜帰宅組が風呂を使うので、その前に済ませよう。
 あたふたとサンダルを突っかけ、戸締りをして回る。玄関の常夜灯を点け、ホールの照明を落とし、一旦部屋に戻って着替えを用意して風呂場に向かう。と言っても、自室の隣りをノックするだけ。共同という性格上、一般家庭よりは広いが、ごく普通の風呂だ。脱衣所に備え付けてられた洗濯機も共同で、各人が時間を見計らいながら使っている。普通のアパートであれば苦情の原因になりそうな深夜の使用も、隣接するのは自室だけ、他の一階の住人も帰宅が遅いので、気兼ねしないで済む。
 脱衣所の電気が点いていたこと、むっとした湿気を感じたことを、不思議に思う間もなかった。正面から先客の姿を捉え、絶句したまま立ち尽くした自分に気付くまでどれくらいかかったろうか。そこにいたのは、風呂上がりの牛飼だった。
「すみません」
 ようやく顔を背け、なんとかそれだけ言う。
「いや、こっちこそごめんな」
「その、ノック、したんですけど」
「うん、ごめん、気付かなかった」
 一度見てしまったら、焼き付いて離れない。濡れた黒髪、日に焼けた素肌、自然に鍛えられた胸や腹、その下の秘する部分――馬鹿みたいに走る鼓動が、身体を突き破りそうだ。
「近瀬くん」
 見ないでくれ、と願う。みっともなく上気した顔を隠す術が、今ない。
「すみません……」
「いや、謝るのは俺のほうかもしれない」
 湯上がりの蒸気を間近に感じる。顔を伏せた近瀬の頬をしっとりした大きな手が包み、強引な角度で唇が塞がれた。
 ゆっくりと口付けを解いた牛飼は、近瀬をじっと見つめている。
「ごめん、って言ったほうがいいかな」
「……いえ」
 離れていこうとする牛飼の頬に触れ、その唇に唇を寄せた。
 毛先を伝って目蓋に落ちた水滴に構わず、強く吸い付く。応える唇はもっと力強かった。洗濯機の縁に押し付けられながら、夢中でその逞しい背中を抱く。どちらともなく絡めた舌から、湿った音が立ち始めた。
 いつか、姿を探していた。声を聴いていたくて、つまらない話の相手をさせた。熱くなっていく身体だけでなく、蕩けていく心だけでなく。もう経験することはないと思っていた感覚は、常に戸惑いとか困惑とか恐れを伴いながら容積を増していて、今、溢れてしまったのだと思う。
 息を奪い合うような口付けが、乱暴に打ち切られる。理由はわかりきっている。触れ合ったお互いの下肢が、緩やかに、しかし確かに強張っているから。はぁ、と苦しそうに息を吐いて、牛飼はまた近瀬の頬を撫でた。
「あとで部屋に――いや、きみが決めてくれ」
「……ずるいですね」
「そうさ」
 微苦笑の形の唇をもう一度近瀬の唇に重ね、牛飼は手早く服をまとって脱衣所を出て行った。

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