5.
「俊……」
腕を伸ばして、彼の背後を指す。志信からは、居間と縁側、その先の庭まで見える。俊恵は無言で、後ろ手に台所の引き戸を閉めた。はめ込まれたガラスが、カタカタと音を立てて震える。
唇を吸いながら、俊恵の襟元に手を入れる。しっかりと重ねられた法衣は撫でればはらりと落ちるようなものでなく、俊恵は喉の奥で笑い、慣れた手つきで紐を解いていく。黒い衣が落ち、真っ白な衣が現れ、さらにその下は素肌。温かく、既に少し汗ばんだ胸に手で触れ、それから、唇で触れる。心臓が激しく動いているのがわかる。
Tシャツをたくし上げられるのに、腕を上げて応える。遮るもののない姿になり、方位磁針のように互いを向いてもたげたものに触れ合うと、どちらともなくため息が出た。
もつれ合いながら、床に倒れ込む。背中を受け止めたのは、俊恵の腕と、脱ぎ捨てられた法衣の肌触り。
「俊、これ、汚れる」
「そうだね」
真剣に危惧したのだが取り合ってもらえず、先端を含まれた。
「んっ」
耐えられず身を捩っても、眼下で頭をうごめかせる彼は上目遣いに笑うだけで、音を立てて志信を啜る。
「ん……」
次第に湿り気を帯びる音と、血の集まる感覚に、恍惚の息が激しくなる。強かに肘を打ち付けた気がするが、身体はもう、都合の良い感覚しか受け入れなくなっている。身悶えながら、知らない痣のいくらかはこうやってできていたのかと思うと、堪らなくなる。痛みに近い快感が到来し、だめ、と、何度目だろう、制止したいのか求めているのかわからない声が漏れる。ぎゅっと目と太腿を閉じて高波をやり過ごし、志信は俊恵から逃れた。
彼を促して体勢を反転する。しなやかで太い俊恵に口付け、同じように限界を訴えるまで何度も含み、顎を動かす。身体を起こして俊恵に跨がると、天を向く勢いのそれが尾てい骨をなぞり、全身が痺れた。ごくり、と喉が鳴る。志信は腰を上げて、今度は意識して俊恵に沿わせる。さらに硬く、膨らんだのがわかった。
「しぃちゃん、俺、そんなこと」
「したくない?」
「したくないわけ……ないけど」
大きな手が、志信の腰に添えられる。止めさせたいのか、求めているのか。
「大事にしたい」
「もうじゅうぶんされてる」
潤んだ目が熱っぽく光り、俊恵はまた、泣き出しそうな顔で笑った。
「あ、でも……」
「なに?」
「着物、汚れるから」
「……しぃちゃん、怒るよ?」
「俺だって」
数秒の睨み合いの後、俊恵は不承不承、襦袢を羽織って台所を出て行った。戸締まりと布団の準備を終えた彼が呼びに戻ってくるまでに志信がしたのは、あとは焼くだけになっていた天板のクッキーをオーブンに入れることと、冷蔵庫からショートニングを探し出すこと。
塗った時、たぶん一番、具合が良いだろうなと思ったから。中で滑らかに動く指を追いかけながら、自分の選択があながち間違っていなかったことでもたらされている、蕩けそうな感覚に悶える。
時間をかけて中を溶かすと、俊恵は布団の上に丁寧に志信を横たえて、覆いかぶさった。ぐちゃぐちゃになった志信の髪を撫で、生理的に流れていた涙をてのひらで拭い、整えたことに満足したのか、うっとりと目を覗き込んでくる。
「きれいだね」
「そう? 食べちゃいたい?」
ほんの少し色違いの、この目のことだと思ったから、冗談交じりに返しただけ。
何故か驚いたように瞬いた俊恵が、次にへらりと笑い、志信の目尻を指先でくすぐった。
「きれいって、しぃちゃんのことだよ」
「なに言って」
「目はね……食べちゃいたいっていうか、どっちかっていうと、舐めたい」
「馬鹿」
いよいよ堪らなくなり俊恵の手を払うが、それを掴まれて、シーツに縫い付けられる。近づいてくる顔に思わず目を瞑ると、目蓋の上に唇が落ちた。
「舐めると思った?」
「……馬鹿」
じんじんと熱い場所に、もっと熱いものがあてがわれる。深く進むたびに、嗚咽混じりの嬌声が上がり、踵が宙を浮く。最奥まで繋がった喜びに息を呑んだ次の瞬間には大きく突き上げられて、あとは、夢中で腰を振る俊恵に縋りついて人語にならない息を交わすだけだった。
甘いクッキーの匂いと、情事の余韻が混じり合った部屋の中で、力の入らない身体をそれでも重ね合っている。刻まれたあらゆる感覚は、このまま眠ってしまったくらいではおぼろげになりようがないほど強烈で、思い出せばまた消えかけの火がくすぶり出すよう。
志信の背中をあやしていた俊恵が、ふと、呟く。
「そういえばさ、お見合いの話、誰から聞いたの?」
「アキさんは悪くないよ」
「わかってる、悪いのは俺です」
そうは言っていない――今は。責められたのが余程こたえたのだろうか。逞しい肩口に額を押し付けて、志信は笑った。
「てっきり俺も知ってると思ってたみたい。俊こそ、遠藤さんにまで話してたんだろ?」
「ああ、たぶん親父経由だろうけど……なんで、しぃちゃんがそれ知ってるの?」
「遠藤さんもいたから」
背中をあやす手が止まる。
「会ってたの?」
途端に剣呑な声になるから、呆れて顔を上げる。
「まさか、偶然。ねえ、前からやけに気にするよな、遠藤さんのこと」
覗き込もうとしても目を逸らされて、呆れるを通り越して少しむっとする。
「俺がどれだけ世話になったか、知ってるだろ?」
「そうだけど。もう関係ないじゃん」
「らしくない言い方」
「だって」
子供っぽく膨らませた頬をつねってもまだ強情にそっぽを向いていたが、やがて志信を抱えたままごろりと横になり、耳元でぼそりと言う。
「しぃちゃん、あの人の好みだよ」
「俺、男だぜ?」
「だから、だよ」
「……嘘」
「ほんと」
自分の気持ちと向き合うのに精一杯で、それさえ満足にいかなくて、他人のことなど何も気にしないでいた。俊恵の不機嫌の本当の理由も、もしかしたら示されていたのかもしれない遠藤からのシグナルも。
拗ねた唇を指でつつくと、少し綻んで、でもまた拗ねる。
「妬いてたの?」
蓼食う虫も好き好きというけれど。こんな、身勝手で独りよがりな人間、一人を除いてきっと寄りつかない。
答えない唇に、今度は唇を寄せると、ゆっくりと布団に押し付けられる。ほんのりと色めいた表情に見とれているうちに、間近に迫り、やがて影になる。柔らかくほぐすような長い口付けは、最後、名残惜しそうに小さな音を立てて離れた。
「……煩悩なんてほんと、一生消えないよ」
「僧侶の言うこと?」
「説得力あるでしょ」
悪戯っぽく笑うのは、幼馴染みの顔。目まぐるしく入れ替わる、妖艶な男と無邪気な子供に、代わる代わる心をかき乱される。背中に強く抱きつくと、抗わず圧し掛かってきて、なんとなく、くすくすと笑い合った。
ピーッ、ピーッ、ガラス戸の向こうから音がする。
「――ねえ、クッキーが焼けたよ」