4.
「こっち来た早々忙しくて、ちょっと無理してたのかな?」
キッチンから、やんわりと明るい声が届く。
遅れて現れた実体が、にこりと笑って背後を指差した。
「冷蔵庫に入れといたから、後で食べて」
「…優しすぎて気持ち悪いんですけど、二見さん」
「恩に着てくれていいんだよ?ま、良くなってるみたいで安心した」
「ん、もうほとんど治ってる」
三十八度前半台の高熱は二日間続き、三日目の朝になると、ほぼ平熱にまで下がっていた。二見の言葉ではないが、土日はまるまる寝込んだ格好。大事を取る形で、月曜の今日も有休を取った。
乾の有休を知って仕事帰りにやって来た二見は、いつものように軽口を叩きながらも、弱った胃に優しい食料を差し入れてくれたのだから感謝すべきだろう。非常食としてあった買い置きのレトルト食品は、どれも辛かったり味が濃かったりと、高熱に浮かされながら食べるにはあまり適していなかった。
壁を背もたれにしてベッドに座る乾を、床に腰を下ろした二見が胡坐をかきながら見上げてくる。
「明日は?出てくるの?」
「うん。現場直行だけどね、研修だから」
「あ、そうだっけ」
「ほんとは今日からシフトに入る予定だったんだけどさ。新しい試験始めるのに合わせて」
「ふうん。いつまで?」
「まだわかんないけど、今月一杯は向こうの仕事メインになると思う」
週明けから始まる試験で本格的に技術開発の仕事に携わる予定だったのが、自分でも、思わぬ病欠で出鼻を挫かれた感はある。
「それで、研修明けたら、完全向こう?」
「予定ではね」
「そっか。まあ病み上がりなんだからさ、無理しないで程々にやりなよ」
「んー…」
ため息と一緒にそれだけ答えて、乾はずるずると背中を壁に滑らせた。
「どうした?まだ具合悪い?」
「いや。そうじゃないんだけど…」
「なに、歯切れ悪いなあ」
明日から現場でシフト勤務、予定通りならば一ヶ月弱はそれが続く。胸の中で事実を復唱してみたところで変わらず、自分にとってある種の懸念を生む原因となっていることにも変わりない。なんとも間が悪い、というのが、仕事への意欲を差しい引いて残った私情が言わせる本音だ。
「二見さんさあ」
「なーに」
「ちょっと頼みがあるんだけど」
「ん?」
「俺、明日から当分夜勤なんだよ。都合つく時、時々でいいから、中村くんの様子見てくれない?」
脈絡のない乾の言葉に、二見は面食らったように目を瞬かせた。
「…そりゃ、乾の頼みなら聞いてあげるのは構わないけど。中村くんって、コンビニのだよね?何で?」
絶句したのは一瞬で、二見からの返答は早かった。彼にとってはしばらく名前も聞いていなかっただろう人物について、確かめるように尋ねられる。乾は壁からずり下がった姿勢を直しつつも、何故との問いに答えられるだけの理由を考えあぐねていた。
自分が顔を出せない間の、慧斗の様子が気に掛かる。もちろんそれが理由だ。何故なら、慧斗はおそらくあのキスを気に病んでいるだろうし、乾がもう来ないと思っているかもしれないから。しかし慧斗が気に病むであろう否定的な感情は自分にはなく、もう会わないつもりもないのだと、乾にはそれを証明するために行動する機会がすぐに得られない。何故なら、現場の夜勤シフトの時間は、ほとんど慧斗のそれと同じだから。
「あー…どうしよ」
いくらでも理由を重ねることはできても、全て表面的な論理だとわかっている。口をついたのはだから、次々浮かぶ言い訳ではなく、やはりため息混じりの呟きだった。
「だから、何」
二見の苦笑に促されて、膝に押し当てていた顔を上げる。
「好きかも」
「ん?」
「てか、好きだわ」
軽く息を吸い込み、
「中村くん」
誰に念を押す必要もないのに、そう付け加えて。
軽く見張られた目が、ちらりと斜め上に逸らされて、戻ってくる。
「ちょっと聞かないうちに、話飛んだなあ」
感心したように言った二見の顔はむしろ、呆れ半分、といった風情だった。
「どうしたの、なんかあった?」
「あったにはあったけど、それはいいんだ。問題なのはさ、あの子相手にどう出りゃいいのか…どう出てあげればいいのか、俺には全然わからんってことで」
「え、そこまで?話飛ぶの?」
「難しいよなあ。こういう時ってどうすんの?二見さんの経験談じゃなくてもいいけど」
「――いや、待てって。お前がその気でもさ、彼の気持ちはどうなの」
二見に手と声で遮られて、はじめて冷静でなかったことに気づかされたかもしれない。この三日間、時間だけはたっぷりあったから。寝ている間に自分自身ではすっかり納得していたいくつかの事について、彼は何も知らないのだ。いかに会話能力の高い二見でも、戸惑うのは無理もなかった。
「あの子はだって、俺のこと好きでしょ」
わかりきったことだが、思考を抜け出し音声になると、不思議な響きを帯びる気がする。
しばらく沈黙した後、胡坐を解いた二見は乾の隣に乗り上げて来た。片膝を曲げ、そこに頬杖をつくだけの彼の仕草に促す気配はなかったが、自然とそれが口をつく。
「彼氏、いるみたいだけどね」
「あ。へえ、そう」
「いるみたいだけど、付き合ってるっつーのか。別れたがってる…わけじゃなさそうだが、俺なんかから見れば、付き合っててもしょうがないように見えたよ。ま、こういうのは、他人にはわかんないもんだけどさ」
簡単な一言で相手の人格を評することができるくらいには、深い関係なのだろう。素っ気なく冷めた口調で、ああいう人、と評した。しかしそれと完全に同一の生命体が、じっと乾を見つめる一瞬に瞳に宿らせていたのは、低くとも存在する熱源だった。そしてあの、唇。
「正直、考えたことなかったから。全然わかんねーんだよ」
彼の気持ちは今や明白だが、彼が何を望むのかを照らすほどの光にはなっていない。自分の気持ちも今また明白だが、気持ちだけではやはり、取るべき行動を照らす光にはならない。
「俺にしときゃいいのに、と、思う」
独白に近い述懐をそう締め括ると、二見は小さく息を吐き出し、小さく笑った。
「あのさ、本気で…んーと、お前がそういうつもりなら、だけど」
「ん?」
「まず、よく考えるところからだと思うよ。ほんとに本気かどうかも、含めて」
大きく身を屈め、真下から見上げてくる彼の瞳の茶色は、優しすぎると茶化したくなる種類の色ではなかった。穏やかで真摯なその瞳から目を逸らし、乾は首を振る。
「もうずいぶん、よく考えてんだよ、そこんとこは。じゃなかったら、二見さんにこんなこと言わないって」
二見はもう一度嘆息し、もう一度小さく笑った。
「本気なのか、困ったな。前にさ、冗談で揶揄ったりもしたけど。俺は…ま、生まれつきこっち側だからね。だから、お前のこと考えたら、手放しで応援はできないよ」
共感でもあり慰めでもあり警告でもある、二見の言葉。彼の本心を聞くことになった軽い驚き、続いて、彼が言おうとしていることへの理解がやって来る。
難しい、と、一つ一つ思わされる。まるで慧斗そのもののようで、事実、この現実と感情は、自分にとって彼そのものでしかない。
俯いて髪をかき回すと、その手に手が重ねられる。軽く二、三度、頭を小突くように撫でて、やんわりと二見が言った。
「やめときなって。ね?」
引き返す口実に使うことを、乾に許す口調だった。
「…さんきゅ」
慣れない生活パターンに順応するまでの、最初の一週間。二見からは早々に、慧斗に関する情報が寄せられていた。
「レジにいたよー。俺の顔見てちょっと驚いてたかも。全然しゃべってくれなかったけど、そうゆうキャラなんだよね?手際良いのは高ポイント。」
「報告、今夜も確認。元気?ってきいたら、元気ですけど、とか答えてくれた。これはハマるかも。」
日勤ならば昼休みに当たる、零時過ぎの休憩で、大抵一度は携帯電話を開く。二見からのメールの短い文面は、親切と心配が半々、残る成分は楽しんでいるような雰囲気で、思わず乾を苦笑させたりもした。
又聞き的に慧斗の様子を知るのには、思ったよりすぐに限界を感じた。涼しげな喋り方、素っ気ない挙動。なんとかして笑顔を引き出したくなる、デフォルトのクールな表情。メールからでも想像できるそれらとは別に、彼が何をどう考えているのか、当たり前だが気持ちまではわからないから。
一方的に、待たせている、という気がどこかにあった。待たれているのに行けない、焦燥があったとすればそのことで、他の障害はないように感じていた。
店に姿が見えないという内容のメールが一度だけあり、続報のないまま梅雨が明け、季節が夏へと変わった。乾にとって、何日か置きに二見から届く不定期かつ公平さに欠けるメールだけが、慧斗の…大げさでなく消息を知るものだったのだと、今さら気づかされている。
もう一週間以上だ。休んでいるのだろうか。それともコンビニを辞めたのだろうかなどと、最悪の想定をしてみる。バイトだと言っていたから、案外そういうところはあっさりしているのかもしれない。この街は広い。慧斗がコンビニにいなければ、乾が彼に会うことは、偶然を除いてないに等しいだろう。
彼は待ってなどいなかったのだろうか。急に置き去りにされたような気持ちで思い出す、触れた唇はしっとりと冷たく、夢の一部のようでありながら、生々しいほどリアルだというのに。
夜勤で残業があったおかげで、朝より昼に近い時刻になってようやく帰宅が叶う。
データ抽出が報告期限に間に合いそうになく、強行的な残業による長時間勤務だったが、結果無事に終わったとなると、むしろ気分は楽なくらい。明日は変則的に午後勤シフトに入ることになっていて、半休が与えられたのと同じ状況にあるのも救いだった。
郊外にある工場の、広大な駐車場を出る。市街地へと車を走らせ、自宅に戻る前に会社へ寄る。件の報告書に関して、タイムスケジュールのある配送業者を通すより、誰かが直接持って行った方が早いという結論になったのだ。誰かというのが、つまり、自分。
ほぼ二週間ぶりでは感慨も沸きにくい、見慣れた高層ビルだ。
大判の封筒を届け、長居は無用とエレベーターに乗り込もうとした時。ジーンズの尻ポケットで携帯電話が鳴る。相手は二見だった。
「もしもし?」
『あ、ごめん、もう寝てた?』
「いや、残業帰りで、今ビルのほうにいるんだけど」
『あ、ほんと?俺もうビルに入るから、ちょっと待ってて…じゃなくて、お前が降りて来たほうがいいかな。下で待ってるよ』
乾に口を挟ませず流暢に命じ、それでいて乾が返事に窮していると、非難がましい口調になる。
『聞いてる?』
「はいはい、聞いてる聞いてる。今行く」
飯でも奢りたいのか、と考えながら携帯電話を切り、乾は下りのエレベーターに乗り込んだ。
一階に降りると、エントランスホールの観葉植物に寄り添うように、優雅なプロポーションの男が立っている。
「乾」
「お疲れ。何?」
尋ねられるのを待っていたように、二見は勢い込んで言った。
「中村くん。慧斗くんね、店にいた。今会ったよ」
「あ、まじ?」
「うん。なんかね、臨時で昼間に働いてるんだって、最近」
「あー、なんだ、なるほど」
間の抜けた言い方になったのは、安堵のせいだと思う。事実を知って安堵する程度には、心配だったから。思わず膝に手をついて、それからわずかに、笑いが込み上げる。
「どーすんの、乾」
「まだいるんだよな?中村くん」
「そのはず」
「じゃあ、会いに行くだけでしょう、俺は」
自分にとっては、決まりきったことだったのだ。二見に妙な顔で見られ、どうしたのだと見返すと、彼はゆっくり口元で笑った。
「どうしたらいいかわかんないって、言ってたよね」
「…ああ、うん」
歩き出しかけた身体を、引き止められる。
「あの時答えてあげなかったけど。普通でいいんだよ、今までどおり、普通でさ。そんなの、男だから女だからって理由で、変わるものじゃないだろ?」
「うん。俺もそう思うよ」
反射的に出た言葉だった。意味は後から追いついてくる。
弾けるように失笑した二見に背中を叩かれ、乾は地下駐車場へ向かった。
薄暗い地下から出ると、真昼の明るい日差しが車内に満ちる。
歩いてでも数分で着く距離だ、大通りをまっすぐ走ると、すぐにコンビニの駐車場が見える。
数メートル前から既に、フロントガラスの向こうに慧斗を認めていた。店の脇、原付バイクの陰に隠れるようにして、いかにもぼんやりと煙草を吹かしていた彼は、来客に気づき店内に引き返そうとしている。
エンジンを止め、ドアを開けると、また着信。しかもまた、二見から。
そのロックチューンが、慧斗を立ち止まらせたよう。華奢な体がくるりと回り、ぴたりと固まる。
「はい」
『ごーめん、書類ありがと。で、どこに置いてくれたって?』
大きく見開かれた目が、じっと、こちらを見ている。
「えーと、二見さんのノーパソの上にないかな。俺置いてったんだけど」
『最初に探したって、そこは…え?あ、課長が持ってる?俺まだ見てないのに』
「あった?」
『…お邪魔しました。じゃね、切るね』
「はいはい、お疲れ――タイミング悪いなあ。ね」
笑いながら同意を求めると、底の見えない沼のような、小宇宙のような、暗く深い色の瞳がゆらりと揺らぐ。
「なんで」
久しぶりに聞く声は、やはり涼やかな響きで。
「なんで、私服なんですか」
久しぶりの彼のペースには、ただ、笑うしかなかった。
(2008.8.30)