Novel >  KEITO >  アンダースタンド2

2.

 階段を昇りきった時にはもう、ドアは中から開いていた。
「青いから」
「ん?」
「乾さんの車。青いからすぐ判る」
 真っ青なスポーツカーの、車種よりも色を強調する悪戯っぽい言い方。迎え入れてくれた家主の、濃紺とピンクのタンクトップの後ろ姿に向かって笑いかける。対比の強い配色も、デザインも、しなやかな体格によく似合っていた。
「それより、鍵は掛けといてくれなきゃ」
「え?」
「使えないじゃん、これ」
 尻ポケットから取り出した鍵束。キーケースは使っていないので、文字通り鍵束、という風情のキーホルダーの中から新入りの一本を摘んでジャラジャラと振る。考え込むような一瞬の間の後、慧斗は嬉しそうに頷いた。
 転勤族の性で荷物の少ない自分の部屋と違って、彼の部屋は物で溢れている。棚やクローゼットに収まりきらない洋服、文庫本、そしてCD。
「なんか聴いてた?」
 今日は特にCDの有り様が壮観で、ローテーブル、コンポと左右のスピーカーの上、ベッドの上にも数枚散らばっている。
「えっと、音楽」
「いやいや、そうじゃなくて」
 コンポーザーの中身を知りたいのだと笑って言うと、慧斗はよく雑誌メディアで文系ロックと表現されるフォーピースバンドのファーストアルバムの名前を挙げて、何故か弁解するように付け加えた。
「急に聴きたくなって…」
「いいね、俺もファーストが一番好き。特にデビュー曲」
「あ、それ。それ聴きたくて。高校ん時に友達からCD借りて落としたやつなんですけど……どこ探してもなくて」
 大捜索があったことを簡潔に説明して、
「ケース、なくしたみたい」
 ぽつりと呟くのが可笑しい。
 一時停止で点滅していたディスプレイが消えたのを確認して、リモコンを置いた慧斗に目配せをする。
「さて。どっか飯行く?」
「…家メシの気分。いい?」
「もちろん」
 手振りで示されるのに従って、床に腰を下ろす。整頓ついでにCDジャケットを一枚ずつ眺めながら電子レンジの稼働音を聴いていると、ローテーブルの空いたスペースに缶ビールとグラスが置かれた。
「乾さんも、呑むでしょ?」
「うん、呑む、けど」
 首を傾げる慧斗に、厚めのグラスを押し遣る。
「新ルールを設けようか。ビールは直呑みで、統一しよう」
 ひとり一本の計算のショート缶二本に対して、グラスはひとつ。ビールに限らず缶入りの飲料と一緒に必ずグラスを持ってくるのは、乾の嗜好に合わせたセッティングではない。持って来た本人は缶に直接口を付けて呑むので、今この空間にビールをグラスで呑む人間はいないのだ。
 あ、思い至ったようにグラスに目を落とす慧斗の額を、軽く押す。
「洗い物がひとつ減るでしょう」
「…うん」
 小さな返答にかぶさって、ピッ、ピッ、ピッ、タイムアップの合図がした。

 

「お、中華丼」
「廃棄だけど」
「なにを今さら」
 八宝菜の湯気の向こうで、コンビニ店員が破顔する。プシッ、プルトップを起こしてから手渡してやった缶ビールの、飲み口の位置を確認している慧斗に、思いついて言う。
「有給取れるようになったらさ、本格中華食いに行こう」
「有給?」
「朝から出て、横浜行こうよ。美味い店があるんだ」
「…俺の有給発生すんの、三月からですよ」
 八月一日からオーナー店の正式な社員となった彼には、それまでのバイト待遇と違って、有給休暇が発生するのだ。掘り当てたうずらの卵を半分に割ると、一際白い湯気が上がった。
「春先か。あったかくなってちょうどいいね」




 トレイと缶を洗うだけの後片付けを終えて、ジーンズの尻で濡れた手を拭きながら戻ると、自分と同じく夜勤明けの恋人が気だるそうにベッドから身を起こす。
「ん?寝てていいよ」
「…や、寝たらたぶん、起きないから」
「いい、いい。俺もその間寝てるから」
「……じゃあ、ここ使う?」
「俺そっち行ったら、中村くん寝るとこなくなっちゃうじゃん」
「そんなこと、ないですよ…」
「あー、げっぷ、出そう」
 食の細い慧斗の分も引き受けた胃袋を上からさすりながら、ぼやく。次の瞬間―――
「乾さん」
 呼ばれると同時に、手加減なしで枕を投げつけられた。
「んっ?」
 ボスッ、反射でそれを受け止めて、戸惑って見返す。
「俺のなにがやですか?」
 立ち上がった慧斗は、伸びた前髪の隙間から、きっ、とこちらを睨みつけた。
「俺、ノブヒロさんの女だったんですずっと…だから俺としてくれないんですか?する気になれない?」
 助けを求めるような鋭い声にヒステリーの理由を悟り、自分の応対がまずかったことを理解する。
「言ってください、なにが、なにを、直せばいい?」
 泣き出しそうに言い募る慧斗に向かって、乾は、ゆっくり口を開いた。
「ビールひとつがね、気に入らない」
「…ビールって、さっきの」
「うん」
「やっぱり俺が…」
 その先を復唱するのは、彼にとって耐えられない行為だろう。泣き出すのを堪える慧斗の黒目は、どんどん深い色になってまるで底なし沼みたいな風情だと、関係のない感想が浮かぶ。臨界間近と見て判る瞳に向かって、泣くな、と念じながら、一歩ずつ近づいた。
「それは誤解です。ただ俺は、きみの些細な行動にとても神経質になってる」
「どういう意味ですか…?」
「意味を訊きますか、きみは…きみが好きってことだろ?」
 びく、傷ついたように肩を縮める慧斗に、言い方が荒かったのだと知らされる。
「ああ、ごめん、怒ってるわけじゃないんだ…」
 いつもなら言葉足らずなのは慧斗のほうで、自分がこんなふうに狼狽えることは少ない。恋人が口下手な理由も、今の自分と同じように、相手への感情が言語能力を超えるせいなんだろうか。
「俺はね、彼…きみの先輩に関わる、関わってたこととかものとか全部、きみから取り上げてしまいたい」
 ささやかな意地で先輩と表して、持ったままの枕をベッドにリリースする。
「子供っぽい嫉妬を、いろんなものに感じてる。こんなんじゃだめでしょう…きみの本体だけに、100%の感情を注ぎたいのに。ビールひとつが気に入らない俺はまだ、きみに足りていないんじゃないかって」
 思う、まで言わせてもらえずに、慧斗に抱きつかれる。縋る両腕は震えていて、うまくやれなかった自分を呪いながら、乾は緩く癖づいた髪を撫でた。
「……ごめん」
 くすん、鼻声が上がり、Tシャツの肩口に強く顔が擦りつけられる。
「鍵を渡しても…全然、そぶりがなくて。伝わんなかったかなって思ってて」
「伝わってる、だいじょぶ」
「ほんとに?」
「うん、ごめんな」
 心から言うと、ぐい、強引にベッドに倒された。
「おっと」
 スプリングで弾む乾の身体に馬乗りになって、慧斗が熱っぽく言う。
「好き、大好き。俺、初めてあなたに腹が立ってる」
「はは、どっちですか」
「…足りてないなんて、言わせないから」
 目蓋の際を薄っすら赤く染めて、慧斗が下唇に口付けてくる。何度も丁寧に吸われ、次に上唇を同じように愛撫され、舌先に誘われて口付けに応える。自己申告は虚偽に違いない軽い身体を乗せたまま、ごろり、上下を入れ替えた。
「んふ」

 

 タンクトップの裾をたくし上げて、脇腹を撫でる。その手に手を重ねた慧斗が、口付けの合間に小さな吐息を漏らした。重ねられた手のひらは静止の意図を持つものではないと理解して、そのままゆっくり撫で上げ、親指の腹で胸の突起を掠める。
「…ふっ」
 もう一度、さっきよりは強くて短い吐息に、その場所への作用が有効だと知る。留守になっていた方の乳首に口付けると、熱い鼻息が上がった。
「ふ…ぅふ」
 唇、鼻先、頬、胸、腹、膝頭、内腿、足の指、全身を駆使してもつれ合うように愛撫する。
 両方の乳首が露わになるまで上がってしまったタンクトップを強引に脱がせると、慧斗の手が乾のTシャツを引っ張る。一息にTシャツを脱いだ乾の胸に、慧斗が手のひらをぴったりとあてがう。それは、心音を確認する動作にも少し似ていた。
「…着痩せすると思ってたけど」
「けど?」
「…あ、けど、じゃなくて。ほんとに着痩せするタイプだったんだなって」
「きみは想像よりずっと、そうだな……きれい」
 んふふふっ。片手で髪を掻き上げながら、慧斗が身を捩る。
「あ、笑いますか」
「だって、言われたことない」
「言わなかったやつはアホだな―――きれいだよ」
「あは」
「きれいだ、ケート」
「あぁ…」
 感じ入ったように反らされた細い首に浮き上がる喉仏に、吸いつく。顎先、頬、そしてまた口付け合いながら、お互いのベルトの金具に手をかける。濃淡の違う二種類のジーンズがベッドの端からだらりと落ちて、カツ、ベルトの端が床で跳ね返る音がした。
「感じてる?」
「感じてる…」
「よかった」
「うん」
「…あ、いい」
 堅くなり始めているペニスを指で撫でたり、爪を立てたり、少し強く揉んだりして、確かめ合う。慧斗のペニスは手のひらで包むのにちょうどいいサイズで、反対に乾のペニスは慧斗の手のひらだとほんの数センチ、スライドが必要だ。
 先端をつまむと、一寸身体を縮めた慧斗が、そこからさらさらの液体を出す。その次まで出してやろうと力を入れると、
「だめ、だめ乾さん」
 逃げられて、
「ちゃんと、して」
 懇願された。
「…いいの?」
「あなたが、やじゃないなら…」
「やなわけない」
 心細そうに伏せられた目蓋に口付けて、汗ばんだ尻の間に中指を侵入させる。一際柔らかい感触を確かめて、押し入ると、慧斗が小さく喘ぐ。
「…だいじょぶ?」
「ん、だいじょぶ、いれて」
 ぐぐぐ、指一本でも窮屈な内壁に、気がかりなってまた訊く。
「平気?」
「ね、へいき、だから」
 腰を揺らす慧斗に急かされて、人差し指を挿入する。入り口を少し強引にくぐって、くい、二本を同時に動かした。
「あっ……」
 両肩を押し返す手のひらと、跳ね上がる腰。少しずつ場所を変えながら中をかき回すと、指で感じる確かな粘性と、それに伴う音が立つ。
 くち、くち、くち、くちゅう。
「あ…あ…あ……あぁ…」
 控えめに喘いでいた慧斗がやがて、乾の右手首を掴んだ。
「もう…」
「ん?」
「…乾さんのが、ほしい」
 今度は手探りという訳にはいかない。弱々しく痙攣する両膝を開いて、少し手前に押す。ぎらりと粘液に光りながら収縮する括約筋は、悩殺的な眺めだった。反りかえって裏を見せる慧斗の先端に一度、ちょこんと挨拶をして、その下の赤い入り口に先端を押し当てる。
「あっ……」
 柔らかな土壌に埋め込むように、とはいかない。確かに筋肉であるそこは、乾の形の分だけ拡張するのだ。内壁を割り広げながら、最奥に辿りつく。首に両腕を巻きつけた慧斗が、うっとりと言った。
「あ…入ってる」
「…動いてもいい?」
「いいよ…っあ」
 一突きと同時に、苦痛の声が上がる。
「ごめんね……」
 スタートを切ってしまった運動をストップすることはできない。辛そうに寄せられる眉根に口付けて、許しを乞う。
「…んぁっ、あっ」
 初めて知った場所は、乾を自失させるのにじゅうぶんな居心地だった。覆い被さった男に揺さ振られ続ける慧斗の息遣いが次第に、苦痛から快感のそれへと変わっていく。
「あっ、はぁっ、あんっ、あんっ」
 突き上げられる腰に、連結が深まり、背筋に電流が走る。
「んっ」
「あ、んっ…」
 ゴォォッ――。
 空気を切るような轟音が、遠くに聞こえる。慧斗に浮かされながら、ぼんやりとジェット機の音だろうと思う。大学生まで過ごした郷里では、日常茶飯事だった音だ。軍用ジェットなのか、それとも旅客機なのか、思考は散漫でまとまらない。ぐい、いきなり強い力で頭を引き寄せられて、耳の穴に息が吹き込まれる。
「ごめ、なさい」
「んっ、なに…?」
「窓…カーテンも、閉めてない、から」
 同じように鋭い轟音を聞いて慧斗が思ったのは、自分よりずっと現実的なことだったらしい。視界の端には確かに揺れるカーテンの裾が見え、目を上げれば近隣のマンションや電波塔がはっきりと見える。済まなそうに恥じ入る慧斗の頬を撫でて、乾は柔らかい耳の骨を噛んだ。
「いいよ、それより……もっと、声聴かせて?」
「――ふぁっ」
 幸福そうな悲鳴に、全身が勃起する錯覚に見舞われる。
「ケート、ケート、ケート…」
 それ以外の言葉は全て奪われて、唯一残った恋人の名前をうわ言のように繰り返す。リズミカルだったピストン運動が、次第に速度を増していく。
「ケート、ケートっ」
 限界に達した運動が止まり、
「んふっ…」
 どくり、慧斗の中で射精を果たす。
「あっ、あっ、ユーヒさん……」
 乾に合わせて動いていた慧斗の腰が慣性を持ってしばらく運動し、それから、腹の下で彼が弾けた。
 折り重なったお互いの、はあ、はあ、はあ、荒い呼吸だけが部屋を満たしている。

 

 カチッ…小さな火花が散ったあと、紫煙が上がる。
 乾はライト級だが、ヘビー級のスモーカーが、この恋人だ。血中ヘモグロビンと酸素が結合するのを、どうしても防ごうというのだろうか。収まらない息遣いのまま、美味そうに煙草を吸う。
 寝煙草の慧斗の、うつ伏せで露わになった背中の曲線を撫でてやると、気持ち良さそうに目を細める。こういう仕草は少し、動物的だと思う。
「…俺あなたに会うまで、マイセンなんて一回も吸ったことなかったんだ」
「何、吸ってた?」
「セッター。高校ん時からずっと」
 上昇する煙を目で追いながら、笑う。
「妬けるな」
「…もう吸わないよ」
「うん?」
「もう吸わない…」
 重ねて言った慧斗が、濃い水色のケースを指で弾いた。
 その色は、快晴の空、今日の空によく似た色だ。

END
お待たせしました!!乾さん視点での作品です。乾さんから見た慧斗というのをどうしても書きたくて、このスタイルになりました。ベタ惚れなのに、伝わってない、と。本編では説明できなった乾さんと二見さんの関係(笑)も、一端をお見せすることができてよかったです。
初えっちは、それ程どったんばったんとはいきませんでした。お楽しみいただけたらと、祈っています。
(2005.9.8)
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