部屋とスウェットと僕
明るい朝の日差しの中を、ひとり逆走する。シューズボックスの上にキーケースを置いて、スニーカーを脱いで、ジャケットを放り、カーテンを開けて、尻ポケットを探りながらとりあえず一服しようかなんて考えるタイミングだ。ムー、ムー、押しつぶされた音と振動に、慌てて反対側のポケットに手を突っ込む。
「はい」
「おつかれ」
「……おはようございます」
いつものようにちぐはぐな挨拶に、電話の向こうの彼もまた、いつものように笑ったのだと思う。夜勤明けの自分とこれから出勤する彼が、ほんの少しの間交わる時間。メッセージでなく電話のある朝は、どうしたって嬉しい。慧斗はゆっくりと目を瞑って、微笑の息に耳を澄ました。
「今日、休みだな」
「うん」
「夜、そっち行っていい?」
「うん」
「なんか食いたいもんある?」
「……乾さんは?」
「オッケー、考えとく」
柔らかく心地の良い声を聞きながら、煙草のケースと財布をテーブルに投げて、キッチンに引き返して冷蔵庫に顔を突っ込む。このところ買い物にも行っていないから、中はからっぽだ。
「中村くん、最近なんかあった?」
食べかけのカロリーメイトと、休日を控えた朝に最適なやつを一本取り出して、プルタブを上げる。カシャ。
「お。何飲んでんの」
「ビール」
「いいなあ。で?」
冷たく弾ける液体を喉に流し込むのを優先して、それから少し考え込む。繰り返す平凡かそれ以下の毎日の中で、何か話せることなんて起きたっけ。
「えっと……こないだから口内炎ができてて」
「ちゃんと食ってんのか?」
「……わかんないけど」
「わかんないのか。それで?」
「昨日、その口内炎噛んじゃって、すげー痛かった。それだけ」
また、耳元で穏やかな失笑が弾けた。
「だけってことはないだろ、かわいそうに。あとそういう話が聞けるとは思わなかった。実は俺も口内炎できちゃってさあ」
「……ちゃんと食ってるんですか」
「だよな。今日は、なんかちゃんとしたもの食おう」
「うん」
「そのあと、きみとイチャイチャしたい」
「なに言って」
「あ、エッチなこと考えたろ」
「……考えてないです」
「残念。俺は考えてる」
「何言ってんの……乾さん、時間」
「やばい。じゃあ、夜に」
「うん。行ってらっしゃい」
「行ってきます」
何十回、何百回繰り返しても、きっと照れくさい気持ちになるんだろうと思う。顎の付け根がじんわり痺れるのを感じながら、慌ただしく通話の切れたあとの、素っ気ない画面に目を落とす。今夜会えるというのに、声なんて聞いてしまったから、待ち遠しい。
もう一口ビールを飲んで、慧斗は部屋を見回した。
良い天気だから、まずは溜まった洗濯物を片付けることにする。
部屋じゅうに脱ぎ散らした服を拾い集め、洗面所のバスケットの中をひっくり返す。いいかげんニットも溜まってきているから、今日は二回かな。ニット用の洗剤も、ボトルの底になんとか残っている。洗濯機の水音と低い稼働音を聞きながら、じっと回るのを見ているのが結構好きだ。他人に公言してもせいぜい苦笑いされるだけだろうなとわかるので、特に誰かに明かしたことはない。そうそう無駄にできる時間も、今日はないことだし。一回目の洗濯の間に掃除機をかけて、ついその間につい本をめくったりしつつ、二回目をスタートする。ついでに着ている服も放り込んで、そのままバスルームへ。
シャワーカーテンを引いたバスタブの中で頭からシャワーをかぶる、いつもの、最低限社会的な人間でいるための義務的行為。数日に一度は、それに、健康的な男子でいるためのやはり半ば義務的行為が伴う。覚えた頃からあまり熱中することがなく、後片付けが一番楽というだけの理由で、風呂場でするのが習慣になった。
それなのに、今夜触れてもらえるかもしれないと思うのに……いや、思うから、かな。妙にじんと疼いてしまって、内心笑いながらタイルの壁に寄りかかる。シャワーの温度を下げて、身体の熱を冷ましてから、バスルームを出た。
「あ」
と、思わず声が出る。
着替えを出し忘れてシャワーを浴びるのは、時々やらかすけど。そんな時はだいたい、この間抜けな気分を味わうことになる。
ざっと身体を拭いてから、ぺたぺたとフローリングを歩く。チェストの引き出しを開けて無意識に取り出した紺の下着に、どきりとする。それはやっと冷ました熱をまた灯すような種類のもので、慧斗は恋人の下着を押し戻して、自分の下着を手に取って――もう一度紺の下着を掴むと、脚を通した。その下の引き出しからスウェットを出して、被る。
ああ、なにやってんだろ。
自分のスウェットは今洗濯機の中だし、洗い替えのトレーナーはオリーブ色ではなくクリーム色だ。出来心の肌触りは、少しだけぞくりとするものだった。
この部屋にも、ずいぶん彼の物が増えたと思う。
下着やスウェットだけでなく、クローゼットにはここから出勤する時のためのワイシャツも掛かっている。洗面所には歯ブラシ、キッチンにはマグカップもあるし、出張の時にキヨスクで買ったというベストセラー小説の文庫本とか、時々持って来る雑誌は地味にバックナンバーを増やしている。全部が最初からこの部屋にあったみたいな顔をしているのが、恋人の人となりそのもののような気がして、にやついてしまった。
ガラス戸の向こうに、色とりどりの洗濯物がぶら下がっている。ささやかな達成感と、すっかり昇った太陽に目を眇め、その光をカーテンで遮る。
音を絞ったテレビを見るわけでもなくつけたまま、ベッドに乗り上げる。
吸いそびれていた煙草に火をつけて、ゆっくり吹かしながら、読みかけの本を開く。アラームを夕方にセットして、このまま眠くなるまで過ごそう。
そう思ってめくっていたページの文字が、つるつると滑り落ちて、頭に入らない。
煙草は三本目がそろそろ終わる。
短くなったそれを灰皿に押しつけて、慧斗はベッドに倒れ込んだ。
ベランダの外から、車の音が近づいて、通り過ぎていく。カーテンの隙間から入るわずかな日光が、部屋の空気をぼんやりと淡いグレーに濁らせる。
スウェットの袖口を、そっと鼻先に寄せて嗅ぐ。
かすかに洗剤のにおいがするだけなのに、やっぱり、彼のにおいを感じる。乾には揶揄われたけど、たぶん、今夜、抱かれるのだと思うから。それまで待っていたいのに、むずむずと動かした脚の間で、熱くなっている。
(変だな……)
途方に暮れたい気持ちで寝返りを打って、慧斗はそろそろと、下着の前に指を這わせた。
ふ、と、鼻から細く息が抜ける。
彼の下着の中で膨らんだ自分が、生地を押し上げてくる。輪郭を確かめるようになぞって、ごくり、喉を鳴らしてゴムを下げる。ゆるく飛び出してきたそれを握ると、
「ん」
それだけのことに声が漏れて、慧斗はきつく布団に顔を押しつけた。
ゆっくりと上下に動かし、指先で先端を擦ると、じゅわ、と痛いような染みるような感覚が走る。
(へん、だ……)
慣れきったはずのことなのに、恥ずかしくて、気持ちいい。
スウェットの胸元を鼻先まで引っ張って深く吸い込みながら、想像するのは、横抱きにされて愛される自分のこと。きっと優しい声で、いい?なんて聞いてくるんだけど、手つきは全然優しくなくて、我慢するうちにひっくり返った声が出てしまう。
「んっ……」
こんなふうに。
手のひらが湿り気を帯びはじめ、すーはーと喘ぐ自分の息と、必死な衣擦れの音が部屋に満ちる。そのうちに脚を開いて、もっと、と乞うている。施すのも施されるのも自分なのに、欲しい分だけ与えられないことにもどかしがっている。
腹をさすって宥めたくらいでは、この奥が足りない感覚は消えない。
セックスの快感を知ってからも、自分ではほとんど触ったことがなかった。
触る時は大抵、どうしようもなく寂しくて虚しくて堪らない時で、彼と付き合ってからそんな気持ちになったことは一度もない。
平凡かそれ以下の、口内炎を噛んだことくらいしか報告できることのない毎日。夜には恋人と会える、たったそれだけの、よくあることを、こんなに期待して辛抱できなくなっている。
(どうしちゃったんだろ……)
舐めた指を、尻の隙間にゆっくりと押し込む。
噛んだスウェットに、じわりと涎が滲んだ。
重さの違ういくつかの物音が重なり、目蓋の裏が痺れる。天井の蛍光灯がついたのだとわかるが、すぐには目が開かず、低血圧にうめきながらもぞもぞと布団を手繰り寄せると、横合いが大きく沈む。
頭を撫でて、それから頬を撫でてくれる大きな手。
ゆっくり目を開けると、こちらを覗き込む恋人の顔があった。
「おはよ」
「…………おはよ、ございます」
寝起きの声はからからに擦れている。夢を見る暇もない、深い眠りだったみたいだ。
「あ、おかえり、なさい」
「うん、ただいま。なあ、中村くん」
「……なに?」
「もしかして俺がいない時、いつも、そのかっこで寝てる?」
柔らかい声の、はっきりした発音が、しかしすぐには脳に届かない。
状況を理解した瞬間に自分がしたのは、布団に潜り込んで、彼の目から逃れることだった。下着は履いている。スウェットも着ている。ただし、どちらも、彼の物だから。
くつくつと忍び笑いが降ってきて、布団ごと抱きしめられる。
「すげー、やらしい」
耳元に吹き込まれた声に鳥肌が立ったのが、触れた部分から伝わってしまったかもしれない。
「俺が来るまで、待てなかったんだ?」
ああ、全部お見通しだ。
確かにセットしたはずのアラームは、鳴らなかったのではなくて、気づかなかっただけなのだろう。恨んでも仕方ないけれど、恨みがましい気持ちを向ける相手が他にない。この恰好も、ゴミ箱の中のティッシュも、もう見られてしまった。
「…………今日、天気よかったから」
「うん、そうだな」
「…………パジャマ、洗ってて」
「うん」
あてのない言い訳なんて、すぐに萎む。
「…………ごめ、んなさい」
「なんで謝るの」
「…………てか、すごい、恥ずかしくて」
おそるおそる目を上げると、思ったとおりのにやり笑いがあった。
「食いたいもん、色々考えてきたんだけどさ」
「……ん」
唇が頬に当たる。
煙草や汗のにおいの混じった、待ちわびた本物の彼のにおい。
「あ……待って、乾さん」
「しょーもないこと言うけど、やっぱ、今すぐきみを食べたいわけだ」
「……ん、ね、まって」
唇どうしが重なって、音を立てて吸われて、頭がくらくらする。
「……いい?」
このまま抱きついて、目を閉じてしまいたいけど。
「待って、あの、洗濯物、干しっぱなしだから」
思い出してしまったことがどうしても気がかりで腕を突っ張ると、乾は拍子抜けしたように眉を下げ、そんな自分に照れたのだろう、苦笑がちに笑った。口元を撫でながら、ギシ、縁をまた大きく沈ませてベッドを下りる。
「わかりました。じゃあ、風呂借りてるね」
「……うん」
ふっと流れた沈黙がなんだか空々しくて、やはりとても恥ずかしかった。
さんざん抱き合って、深夜になって、国道沿いのラーメン屋に行った。
看板の醤油ラーメンに、乾はチャーシューを、自分は味玉を追加して。思っていたよりずっと空腹だったらしく、一言も喋らずに啜った。濃い味のスープは、口内炎によく染みた。