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7.

 客のほとんどが会社勤めであるため、なかば自然と「呑み処東雲」も彼らに合わせて休むようになった。日曜日はまずやらない。土曜にやったら月曜は休み、土曜に休めば月曜は「振替営業」となる。変則的ではあるが、いわゆる週休二日制というやつだ。土、日、月のうちシャッターが下りている日は休みだということを、客も心得ている。
 もっとも、店は休んでも家で仕事をしていれば、真の休日とはいえないかもしれない。引き受けた依頼が至急の翻訳だったため、そちらを優先して、今週の土曜は店を休むことにしたのだ。初出勤と初休日を連続で経験することになった日夏にとっては、拍子抜けだったろう。
「日夏」
 その彼は、台所に姿がない。ついさっき洗濯機を使っていいかと聞かれ、ついでに溜まっていた分の洗濯も頼んだのだが、確か一度玄関を出てから、作業を終えて戻って来たはずだ。それから丈のいる部屋までは戻らなかったということは、台所に留まっていると思ったのだが。一応ドアを開けてみたが、やはり運転中の洗濯機があるだけだ。
 台所から引き返し、部屋に戻る。手前は居間、隣は寝室のような感覚で使っているものの、元々は二間続きの和室を洋風に作り変えたという物件なので、壁ではなく戸で部屋が仕切られている。大抵はその仕切り戸を開け放してあり、さらに居間の入口も開けてあることが多いので、生活動線のかなりの割合がこの間に集中している。
 寝室を覗くと、一番奥の端、まさに片隅に小さくなって日夏は座っていた。
 居間ではなく、丈でさえ滅多に開けない寝室側の戸を、またずいぶんと静かに開けて入ったようだ。
「おい、何畳あると思ってんだ」
「え?」
「そこまでわかりやすく隅っこにいられると、俺がいじめてるみたいじゃねーか」
「や、そんな」
 良くいえば素直、馬鹿正直な傾向のある反応を、そろそろ楽しみはじめている自覚はある。焦ったように腰を浮かせた日夏に、堪えきれず笑ってしまった。
「冗談だ。ちょっとこっちに来てくれ」

 

「とかく日本人は……というより、お前さんのような性格だと、金の話は切り出しにくいだろうからな」
 丈はそう前置きし、一枚の紙を日夏へ差し出した。
「今日じゃなくて構わない。店を続けられそうなら、サインして俺に渡してくれ」
「これ」
「まあ、急ごしらえだが、契約書みたいなもんだ」
 契約に基づく関係に慣れてすぎていたせいか、書類にサインするというたった一つの手順を省くことができない。恩着せがましい言い方をしたが、こういうことを日本人らしくやんわりと取り交わせないのは、決して褒められたことではないだろう。
「……てゆうか」
「ん?」
「雇ってもらえるんですか?」
「ただのバイトだ。時給もそれくらいが限度だぞ」
「そんなの……」
 言いながら、そこでようやく書面に目を落とした彼は、やはり焦ったように顔を上げた。
「てか、こんなにもらえませんよ」
「普通、値上げは要求しても、値下げは要求しないもんだろ」
「だって、一日しか働いてないし、あの、店だけじゃなくてここでも世話になってるし」
「なんだ、契約不成立か」
 薄っぺらいコピー用紙を取り上げようとすると、日夏が両手でぴしゃりとそれを阻止する。完全なる愉快犯だったわけだが、彼がそれに気づくよりも、どうしても自分が吹き出してしまうほうが早い。
 必死な表情を解き、一瞬恥じらった後、少しむっとしたらしい。
「笑ってますね……」
「うん」
 なかなか笑いがおさまらない。
「丈さん」
「なんだ?」
「ペン貸してください」
 さて、こんな反応まで想像通りとは。
 丈から無言でボールペンを受け取った日夏は、大きく息を吐くと、コピー用紙の下の方にゆっくりと相沢日夏と記した。形良く、丁寧に揃った文字だ。
「……日付も書いてくれ」
「あ、はい」
「ずいぶん、きれいな字を書くんだな」
「ずっと習字やってたから。普段は汚いけど」
「普段もなにも、俺は悪筆でね」
 自慢にならないことを呟きながら、その下に東雲丈と走り書きする。
「ちゃんと読んだか?」
「はい」
「あんな店だぞ?」
「いい店ですよ……お客さんもいい人達ばっかりだし」
「そうか」
「うん。ほんとに、俺なんかがいていいのかなあって……」
 彼は時折、遠くを見るように静かに微笑む。
 そうでない人間のほうがはるかに希少とはいえ、わけありな人間に自分は縁があるのだな、と思う。わけの種類は違えど、昔からそうだった。もちろん良い思い出だけではないが、不思議と懐かしいものだ。
 丈は契約書を折りたたみ、壁際の本棚にそれを差し込んだ。
「一つ、お前さんの自由意思ではあるが」
「あ、はい」
「さっきも言ったように、なにもあんな隅っこで丸まってることはない。趣味なら止めないがな。覚えといてくれ」
「……はい」
 はにかんで笑うと、年相応どころか幼くさえ見えるというのに。
 ガタン、と、何かが落ちるような音に続いて、電子音が鳴る。
「あ。洗濯物……」
 どこか動物的な仕草で首を伸ばし、日夏が立ち上がる。
「干してきます」
「ああ、頼むわ」
 丈は煙草に火を付けながら、痩せた背中を見送った。

 

 メールの添付ファイルを開き、プリントアウトする。A4サイズのコピー用紙八枚分、手頃な仕事といえるだろう。実物をスキャンした物なので多少画像は荒いが、読む分には問題なさそうだ。時々、スキャンやFAXを何度も経由したせいで、すっかり印刷が潰れた原文が送られてくることもある。
 一旦パソコンを離れ、ペンを片手に腰を据えて文章を読みはじめる。夢にさえ日本語が出てこない時期もあったが、日本語に翻訳するにはむしろ現在のコンディションのほうが適しているだろう。
「あの」
「なんだ?」
「洗濯かごって、ありますか?」
「……必要か?」
「ううん」
 頭上で、日夏は失笑したようだ。
「あの」
「なんだ?」
 今度は顔を上げて答えると、急にすまなそうに身体を縮める。
「あ、邪魔してすいません」
「構わねーよ。なんだ?」
「……それ、何ですか?」
「ああ。仕事だ」
「あ、酒の」
「いや、こっちは内職だな」
「内職?」
 丈は一ページ目を摘み上げ、ひらひらと振ってみせた。
「こういうのを、翻訳する内職」
 紙の動きに合わせて目をきょろきょろさせるのがおかしい。彼ならば、俗な催眠術にさえ引っかかるかもしれない。
「悪くない報酬なんでね」
「……それって、何語ですか?」
「フランス語」
「すごい……そっか、喋れるって」
「まあ、芸は身を助くっつーか、なんつーか。それより日夏、手」
「え?」
「手、冷たくないか?」
 直に洗濯物を抱えた手が赤くなっており、本人はともかく見ているほうが冷たい。顔の痣や傷もそうだが、色が白いせいで余計に目につくのだ。
「あ、すいません」
 ――注意したつもりではなかったのだが。既に隣の部屋へ消えてしまった日夏に対しては、弁解のしようがなかった。
 長くなった灰を落とし、煙草を咥えなおす。
 単語をチェックしながら半分ほど読み進んだあたりで、ひたひたと足音が近づいてくる。
「ありがとう、助かった」
「……俺の分もたくさんあったから」
 直接見てはいないが、ちょうど部屋の境い目くらいでもじもじしているのがわかる。おそらく無意識に、態度や視線だけで何かを訴えようとするところが、崇に少し似ている。
「座ったらどうだ?」
 苦笑を噛み殺しながら、丈はページをめくった。
 一度ペンを置き、テレビをつける。ボリュームをいくつか上げ、リモコンを日夏に手渡す。
「チャンネル変えていいぞ」
 ここまでやれば、座ってテレビを見ないわけにはいかないだろう。また所在なさそうに部屋の隅にいられるより、目の届く範囲に姿があるほうがよほど気にならないというものだ。
「ああ……煙いか?」
「ううん、全然……」
 吐き出した煙の向こうの曖昧な微笑は、その言葉が本心かどうか、よりぼんやりとさせるものだった。

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