7.
螺旋階段を上りきったところで、ばったりと出会う。
「三森くん、お出掛け?」
「ううん、暇すぎるからサロン物色しにいくとこ。たまの休みにやることが何にもないとか、地味につらい。あ、ゆっきーだったら部屋にいたよって、あれ、それ何?」
「祖父から届いたんです。今からお裾分けに行こうと思って」
「二皿ってことは、俺のも?」
「もちろん。ただし剥いたのは僕なので、ご覧のとおりですよ」
「剥いてくれただけで嬉しいー。こうゆうのって、養川さんとか上手いのかな」
「でしょうねえ」
「そういえば、ジョンって日本の梨食べたことあるのかな。外国の梨って、やっぱ洋梨?」
「帰ってきたら訊いてみましょうね」
「うん――あ、うまい。俺、サロンで食べてくる。ごちそうさまです」
「いいえ」
やや早生の幸水を頬張りながら、皿を受け取った三森が軽快な足取りで階段を下りて行く。美容師の卵だった彼も、今はアシスタントだけでなく客を受け持てるようになってきたと聞く。ころころと豊かに表情と話題が変わるところは、昔のままだ。
階段を上って右手奥の部屋を軽くノックすると、ややあって内側からドアが開き、クーラーの冷気がすっと頬を撫でる。
「ちーちゃん」
幸貴はにぱっと満面の笑みを弾けさせ、近瀬を中へ通した。
「梨、剥いてきてくれたんだ。ちーちゃん大好き」
偶然空いたこの部屋に入った幸貴は、春に大学を卒業し、イラストレーターとして活動している。四年経ったのだ。あの時からこのアパートに住み続けているのは、三森と兼崎だけになった。兼崎は大学を無事卒業し、大手企業に就職したものの、今はバーで働いている。学生時代ずっと小料理屋でバイトをしていたから、もしかしたらその方が合っていたのかもしれない。彼の人生には、一方的にシンパシーを感じていたりもする。リアムはALTとしての任期が終わり、日本の一般企業に就職が決まってアパートを出た。彼のフェイスブックによると、今も東京で暮らしている。猿渡は恋人と本格的に同棲を始めるにあたり、二人には手狭な部屋を離れた。律儀な性格の彼らしく、年賀状が毎年届く。今年の年賀状には、ウェディング姿の新郎新婦が刷られていた。そして、彼は――
「ちーちゃん、最近元気ないね。体調悪い?」
「ううん、平気、ありがと」
「無理してるでしょ。ハグする? それとも、ぎゅってする?」
近瀬を笑わせながらも両手を広げるので、遠慮なく、その中に納まる。幸貴曰く、ハグにはストレス軽減、健康増進、加えて幸せになる効果があるらしい。言葉通り近瀬を「ぎゅっ」として、放す。
「ありがと」
「どーいたしまして。ねえ、あのさ、こないだの手紙のせい?」
「え?」
「うっしーさん。みもりんから聞いたよ、俺の前に、ここに住んでた人」
「言ったことなかった?」
「ちーちゃんから直接は、聞いたことなかったもん。何か大変なこと、書いてあったの?」
「……どうかな」
「嘘」
「うん、ごめん」
「いいけど」
大学用封筒の中には、同じように大学ロゴの入った便箋が入っており、そこには彼の悪筆で、近々一時的に東京に戻る旨が理路整然と綴られていた。手紙を送ると言っていたけれど、これまでに一度も受け取ったことはなく、初めての手紙だった。
手紙の代わりに、彼からは毎年七月の中旬に、花が届いた。会って間もない時の会話を憶えていてくれたのだろう。先週誕生日だったと言って、おめでとうと祝われ、それがツボに入って笑ってしまった。最初に届いた花束の中に、少し季節外れの紫陽花が入っていたことを、彼は知っているだろうか。それを出来心で挿し木にしてから四年、今では剪定に苦労するほど増えて、梅雨の時期には庭の一角に咲き誇るようになった。
「あ、うまい」
幸水を一口齧った幸貴が、嬉しそうに笑う。
「ちーちゃんも食べよ」
「うん」
食欲がないとは言えなかった。
近瀬を木製のソファに座らせ、幸貴は窓際のベッドに腰掛ける。当たり前だが、家具の配置も雰囲気も、何もかも違う。シャリ、と音を立てて咀嚼しながら、幸貴がなんとはなしに窓の外を見るのを、やはりなんとはなしに眺めていた。
「あれ」
「どうしたの?」
「誰だろ。お客さんかな、こっちに回って来るんだけど」
正面玄関ではなく庭に回って来るのなら、来客ではないかもしれない。門扉に鍵はないので、敷地には誰でも入ることができる。防犯の点でも、少々時代錯誤なアパートだ。近瀬もベッドに乗り上げて、窓の外を見下ろす。気付いたわけではないだろう、偶然、ふとこちらを見上げた人物と目が合う。
身体が勝手に動いていた。
「ちーちゃん?」
幸貴の声を背中に聞きながら、よろめくように部屋を飛び出す。螺旋階段を駆け下り、玄関ホールを抜けて、扉を開ける。
立っていたのは、長身で逞しい体躯の、タンクトップから出た腕や顔もよく日に焼けた、穏やかな雰囲気の男だった。
「ただいま」
一番心地よいところを鳴らすような、中低域の声。
「四年、経ちましたよ」
あの手紙を読んでから、ずっと考えてたはずなのに。第一声、なじっている自分がいる。
「ごめん。どうしてもって言われて、あと一年って」
「五年目です」
「いや、うん、ごめんな。今は引き継ぎの最中でさ、早ければ九月には、正式にこっちの所属になるよ」
「手紙で読みました」
「そっか、読んでくれたんだ」
「すごく、迷いました」
「……そっか、うん、そうだよな」
「それで、今さら、僕のことどうしたいんですか?」
「どうって。俺はずっと、きみの恋人だよ。言ったろ、待つって」
「そんなの」
「うん、そんなの? なに?」
「……そんなの、僕だって、ずっと、待っ」
待っていた、と、最後まで言うことはできなかった。
痛いくらい強く背中を引き寄せられ、逞しい胸の中に抱かれたから。
猛暑のせいではない、彼の身体も、自分の身体も熱い。
「ごめんな、泣くなよ」
初めて零した涙が、彼に見えなかったわけはない。愁嘆場にしたくなかったから、別れる時も泣かなかった。
「好きだ」
「……僕も」
顔を上げると、彼の鼻先が近づいてくる。すっかり伸びた髪を、オールバックでお団子にして、おまけに髭なんか生やして。うっとりと見つめると、うっとりと見つめ返されて、まばたきもできない。
「きみは、ずっときれいだな」
「もうおじさんですよ」
「俺はもっとおじさんだ」
親指の腹が、下唇に触れる。
「……おかえりなさい」
「うん、ただいま」
幸貴が追いかけて来るかもしれないし、物音で三森が顔を出すかもしれない。
「名前、呼んで?」
「……東吾、さん」
「うん。近瀬」
唇と唇が触れる。忘れられなかった、ずっと待っていた味。二人は何にもはばからず、気の済むまで口付けを交わした。離れる時、つうっと引いた糸を、短い口付けで切って。牛飼はひそめるように笑った。
「――相談なんだけど。俺、今夜泊まる所がないんだ」
2016年10月2日発行の同人誌「メゾン・ド・ネージュ」収録作品の再掲です。(2020/10/4)