2.
電話越しのテノールは、笑い出す寸前のトーンで、何度もごめんと繰り返した。
碧が現在置かれている状況というのは、とりもなおさず彼によって作り出されたものだ。説明するまでもないと、頭ではわかっているのに。それでも、ドアを開けたら家具がなかったこと、部屋の中はまるで家捜しか泥棒に遭った後のようだったこと、それら全部が予想だにしない出来事だったことを、延々と訴えずにはいられなかった。
何度目かの定型的な謝罪の言葉を述べた彼が、一回切るね、と宣言する。数分して鳴り出したのはメールの着信音で、本文には見慣れない住所、それに一枚の写真が添付されていた。
大通りでタクシーを拾い、メール文書をそのまま運転手に告げる。カーナビの地図に線が浮かび上がるのをちらりと見て、碧はもう一度手元に目を落とした。
添付画像は、コンクリート造りのシンプルな建物だ。
ややくすんだ薄いグレーが造り出す、素っ気ない箱型。この写真を撮った人物が彼でなければ、単なる写メールで済むけど。普段、数十万は下らないカメラで写真を撮っているプロフェッショナルな男が、携帯電話に付いた小さなレンズを建物に向けている様子を想像すると…ちょっと、絶するものがある。そう、この建物が彼の新しい住居となるべきものでなければ、たとえ携帯電話でも、写真家のカメラが向けられることはなかっただろう、ごくひっそりとした佇まいだから。
都会的な道路から、いつか、タクシーは住宅地を走っていた。出発から二、三十分かかっただろうか、その住宅地の中でタクシーが停まる。カーナビを覗き見する限りでは、巨大な総合大学のほぼ真裏だ。初めて訪れる場所で、正直、その実感はない。料金を払い車を降りて、ここで、役に立つのが添付写真というわけだ。目の前の景色と、画面の中のそれとを照合しながら歩く。路地に入ってすぐの場所に、合致する建物があった。
古びたコンクリート壁を、長方形に切り取った入り口。奥寺永久の新しいアトリエは、無機質で、どこか廃屋のようでもある。集合ポストにプレートはひとつもなく、三階、という永久の言葉を信用するしかない。本当にいるんだろうか。硬い階段を確信を持てないまま上るが、ステップアップするごとに、そのなけなしの確信さえゆらいでいく。
階段が途切れた場所が三階で、ここが最上階らしい。
インターホンを前にして迷い、一度だけ軽く押すつもりが反応せず、もう一度、強く押す。チャイムの余韻も消えてしばらく経った後、大きなドアが開いた。へりを掴む痩せた指、痩せた腕、痩せた首。その先のファニーフェイスを見上げきる前に、胸に抱き込まれた。服に染みついた、煙草の匂いを嗅ぐ。
「…ごめん、怒ってる?」
ようやく聞いた肉声。牽制する疑問符が、愉快そうに揺れている気がする。碧は永久の薄い頬を両手で挟み、鼻先を突き合わせた。
「怒ってるように見える?」
黒目をくるりと回して、それから困惑気味にゆっくりと破顔するから。彼の唇に、唇の表面をすりつける。コントロールを意識するあまり、ひどく押し殺した声になった。
「…怒ってるよ、すごく」
言い終えたかどうか。示し合わせたようなタイミングで、触れるだけだった唇どうしが、きつく重なり合った。
砂漠の遭難者がオアシスに辿り着いたら、夢中で湧き水を飲むほかに、することなんてない。生命を繋ぎ止める手段みたい、貪るように吸いつく力は、どちらが強いだろうか。唾液で滑らかになったキスが、湿った音を立て始める。こくり、と、喉を鳴らして飲み下しても、まだ足りない。
下唇を噛まれ、開いた口の間からため息が漏れる。前歯の裏を舌先でなぞって、唇が離れていった。お互い息が上がっている。上下する彼の胸を押し返すと、永久は眉のピアスを弄りながら、伏せていた目を上げた。
「下にさ、トラックあった?」
「なかった…と思うけど」
「そう」
何のための質問なのかはわからなかったが、碧の答えに満足そうな表情で頷くと、彼の長い右腕が、すい、とバレエの振り付けのようなモーションで伸ばされる。
「どうぞ、入って。そのままで」
玄関と表現できるようなスペースはなく、フラットな床が広がっている。そのまま土足で踏み入れた部屋は、たくさんのダンボールとケース、シートや毛布に包まれた家財道具などで溢れかえっていた。
「ようこそ、新しい城へ」
今までの、アパートの一室とは比べ物にならない広さだ。正面の壁一面が大きなガラス戸で、その先にはベランダ。一部分には段差があり、ほんの二、三段だが階段もある。今でこそ惨状と言える散らかりようだが、レイアウトの可能性は無限に思える。頭の中には様々な感想とか関心が次々浮かび上がっているのに、口をついたのはまるで関係のないことだった。
「…土足って、変な気分」
「ははっ、他には?」
やはり別のコメントを求められたけど、突然開いたドアに驚いて、それに答えることはできなかった。見知らぬ軽装の男が、勝手知ったる態度で入ってくる。碧の肩に軽く手を置き、離し、永久は慌てることなくその人物に話しかけた。
「なんだ、トラックなかったって聞いたのに」
「いや、通りまで出たんだけどさ。そう言や鍵預かってないじゃんって話になって、引き返してきた」
「…ああ、そっか。うっかりしてんなあ、お互い」
「お互いね。彼、助っ人?」
永久の痩身に半分隠れていた男が、ひょっこりと首を伸ばし、碧に目を向ける。小さく会釈する碧をそれ以上は追及せず、彼は永久から鍵を受け取り、片手を挙げながらあっけなくドアの向こうに消えた。振り返った永久が、悪戯っぽく笑う。
「友達連中に、引っ越し手伝ってもらったんだ。2tトラックだけど、持ってるやつがいるからさ。向こうのアパートに入る時も世話になってんだけどね。業者いらずで済むには済むけど、やっぱ大変だよ。朝から何往復したか」
部屋をぐるりと見回し、腕組みをして、また笑う。
「向こうに荷物残ってたろ?あれ、全部譲る物。持ってってもらうために鍵開けっ放しだから、最後に閉めてもらわねえと」
状況は理解できたが、疑問は残る。碧はまだ目に焼き付いていると言っていいアパートの様子を思い浮かべながら、永久に尋ねた。
「ベッドあったけど、ベッドも譲るの?」
「うん。新しいのを買おうと思ってさ」
「思って、って…まだ買ってないって意味?」
信じられない気分で問い詰める。自分だったら、何を持って行かなくてもベッドだけは持って行くのに。
「ま、当分ソファーだね。ベッドは吟味して選ぼうぜ、せっかくだから」
何でもない口調で、当然のように、勧誘形をとるのだから。奇妙にリアルな言葉にほんのわずかに波打った内心を、インスピレーションの鋭い男は気づいたのかもしれない。顔を覗き込まれて、また、短いキスになった。
ちゅ、と音を鳴らして離すと、碧の肩を撫でて、ソファーに導く。ベッドは手放したけど、このソファーはアパートから運び込まれた馴染みの代物だ。その真ん中に、このアトリエの第二の住人が、堂々と身を埋めている。黒々光る身体は、じっとしていて動かないけど。
「アオ、寝てる?」
「さっきまで興奮しちゃって落ち着きなかったんだけどなあ」
永久が喉の奥で笑いながら、彼女を抱き上げる。でろん、と下半身が伸びるので、碧は慌てて手を差し出し、アオを受け止めた。温もりと柔軟性と、程よい重さを併せ持つ彼女を抱きながら、ソファーに腰掛ける。
荷解きしなけりゃコーヒーも淹れられない、と永久はぼやくが、喫茶店に来たつもりはないから構わない。隣に腰掛けた彼が煙草に火を点け、危なっかしく肘掛に置かれていた灰皿を、ひょいっと掴む。この灰皿も、いつもの欠けた片口だ。取捨選択の基準を思わず考えてしまったが、ふー、と吐き出された煙と一緒に、それも広がって消えた。
「驚かせちゃってごめんな。いや、実は驚かせようと思ってたんだけど…」
「…大丈夫、成功してる」
碧がアオの寝顔に目線を落としたまま答えると、情けなさそうな声を上げる。
「みどりー」
「あなたが、いつ、どこに引っ越そうと自由だって言いたいけど。そこまで理性的になれないんだと思う」
横目で見た永久は、まず煙を吐き、それから何度も頷いた。
「俺としては、元々仮住まいのつもりだったからね。だからって期限を定めてたわけじゃなくて、引っ越し先が決まるまではいつまでも居るつもりだった。ゆっくり検討すればいいか、って。まあ結局は、タイミングだったけど」
「きっかけがあったってこと?」
「夢を見たんだ」
即答なのに、はぐらかされたような気分を味わう。怪訝な気持ちで彼の横顔を窺うと、永久は頬を緩めて、煙草を挟んだ指先で空中を指した。
「俺は空港のイミグレーションにいて、出国審査を待ってた。同行者がいて、何故かそれが、さっき顔出したやつを含めて…俺が帰国した時、向こうのアパートへの引っ越しを手伝ってくれたやつらでさ。で、俺だけ金属探知機に何かが引っかかるんだよ。ピアスもバックルも外して、ジーンズとTシャツだけなのに。ああそう言えばポケットに鍵入ってた、って思い出して探すんだけど、それがコインロッカーの鍵なんだ。預けっぱなしの荷物があることに気づいて、どこともつかないコインロッカーに行く。ロッカーを開けると、中に、今度は普通の鍵が一本入ってた…ダイジェストで説明すると、そんな感じ」
そこで言葉を区切り、顎先を撫でながら少し考えるような仕草をして、また口を開く。
「ストーリー立ててみると、大した内容じゃないんだけどな。登場人物と、まず使わねえコインロッカーが出てきたのが、妙に気になった」
茶色と金色のメッシュ頭を振って、髪をかき上げる。不意に露になった額のラインをそのままに、永久は首を傾げるようにしてこちらを見た。
「偶然、雑談の中でぽろっとその話をして…今一緒に仕事してる編集者となんだけどさ。そしたら彼女が夢辞典を持ってて、俺の夢を診断してくれた」
「夢辞典…」
「はは、呆れる?まあ、「胡蝶の夢」じゃないけど…人間ってさ、起きてる時のほとんどを意識に支配されてるだろ。だから無意識の領域を神聖視する。寝ている時の自分はその領域にいるはずだけど、もしかしたら、それすら意識が作り出したものかもしれないっていう…パラドックスっつったらいいのか、ジレンマなのか。つまり納得できないんだよな、潜在意識みたいなものを証明したがるし、テレパシックなメッセージを求める」
「それ、あなたの実感?」
「うーん…興味深いとは思うけどね。でも話の種に聞いてみたら、空港のイミグレーションも、ジーンズも、Tシャツも、あと空のポケットも、それにコインロッカーの中身も、全部が運勢の転換とか未来の変化を占うモチーフだったんだ。だとしたら、コインロッカーの中の、憶えのない鍵は、ここの鍵を象徴してるべきだろうと思った」
煙草を挟んだ指先で、今度は、足元を指して、ここ。ぱらりと灰が零れ落ちたが、そ知らぬ顔でまた吸い口を咥える。
「要は、意を得たって言うのかな。ちょっと前からここには目をつけてたんだけど、重い腰を上げなかったのも事実だったからね。そんなことしてたらいつまでも引っ越せねーなと思っていた矢先だった…ので急遽引っ越しました。以上」
饒舌な話を締め括り、失笑の余韻だけが残る。この人らしいと言えば、あまりに、らしい理由。現実に起きる出来事程度では、彼を動かせないってことだ。そう思うとなんだか、この部屋でこうしてソファーに座っていることさえ、彼の夢のワンシーンのような気がしてくるけど。
膝の上の黒猫を撫でながら、碧はぽつりと呟いた。
「じゃあ、俺の夢は?」
「うん?」
聞き取れずに発したpardon?の意味だったかもしれないけど、それを無視して彼を見上げる。
「今朝、あなたとキスする夢を見た」
「お、正夢じゃん」
ピアスが揺れて、最高にファニーな笑みが弾ける。無邪気な反応に、碧は少し意地悪く、そうでもないよと首を振った。
「キスの最中に突然、あなたは俺の首に噛み付いてきたんだけど?」
「それも正夢にしよう」
腰を屈めて灰皿を床に置き、スニーカーのつま先で蹴る。両肩に置かれた永久の手が、碧を後ろに倒そうとするので、エスコートに従う。覆いかぶさる格好の彼が、何度か碧の唇を吸ってから、首筋に軽く歯を立てた。
「こう?」
微笑交じりの、くぐもった声。
思わず目を瞑り、Tシャツの背中を抱き返す。
「――もっと強く、執拗に」
もう一度、かすかな鼻息がかかる。きり、と、熱いくらいの刺激。二人の間でばたついたアオが、碧の腿を蹴り遣って、床に飛び下りる気配がした。