Novel >  KEITO >  コンビニの君2

2.

 パソコンから顔を上げて見やった窓ガラスには、雨が激しく打ち付けている。防音ガラスで音こそほとんど聞こえないものの、静かなオフィスは土砂降りの気配に包まれていた。
 腕時計と、なんとなく見比べた壁掛け時計は、両方とも八時を数分回った時刻を示している。仕事に一区切りつけるには、作業の進行具合も時刻も、悪くないタイミングではある。報告用データシート一枚分の計算式を、ちょうど入力し終えたところだ。
 元々そのための転勤ではあったのだが、現在の乾の仕事は営業関係半分、技術関係半分、といったところ。生産現場のある郊外の工場へ出向く回数も徐々に増え、研修という名目だが実際のところ即戦力とみなされているのを、今日持ち帰ったこのデータファイル一つとってもひしひしと感じる。専門学部卒で、営業との掛け持ちながら技術経験があり、本来後者志望の自分。人手不足と言わないまでも、慢性的に人材補給を必要としている技術開発部。自分にも、配属予定先にも不足はない移動は、早ければ来月にも正式なものとなるだろう。
 もう一度窓を振り返り、もう一度腕時計を見る。
 悪天候のせいか単なる偶然か、今夜の営業部は居残りの人数が少なく、居残り率の高い二見も今日は取引先からの直帰だった。帰るにはまだ少し早いだろうと考えるのは、この先弱まるのかもわからない雨脚を思いやってのことではない。どうせこの時間までオフィスにいるのなら、あと小一時間も潰せば九時になる、調整可能な時間帯であるという事実があるだけだ。
 ワイシャツの胸ポケットから、潰れた煙草のケースを取り出す。残り二本。
 取り合えず、煙草でも吸って来ようか。それからもうしばらく計算式と付き合って、新しい煙草を買い足しながら帰ればいいだろう。
 行動予定にそれを組み込むために、わざわざ何をやっているのか、と、思わなくはないのだが。

 

 外は想像以上の豪雨だった。
 差した傘も虚しく、少し歩いただけで膝下が濡れる。
 目的のコンビニまであと数メートルという位置から、一台のアメリカ車が道路の水を掻き分けるように、駐車場に滑り込むのが見える。観察していたわけではない、進行方向ほぼ正面の光景を見ないで歩くほうが難しかったというだけ。助手席側のドアから、傘も持たずに飛び出したほっそりとした人物が、どことなく慧斗を思わせるシルエットだとは感じたが、続いて出てきた人影や、土砂降りの雨に、視界ごとうやむやになる。
 寒いくらい冷えた店内に入ると、やはりこちらも顔馴染みになった店員が、屈託のない笑顔を乾に向けた。
「あ、いらっしゃいませー」
 慧斗はまだ、レジに出ていないようだ。濡れた手をスラックスの腿で拭きながら、笑い返す。
「ひどい雨だねえ」
「ですね、だいじょぶでしたかここまで」
 大丈夫と答えるには、足元は冷たく、靴下まで完全に濡れている。そう言おうと口を開いたところで、涼しげな声が割って入った。
「タイスケさん」
 レジの奥からのそりと歩いてくるのは慧斗だ。彼が二言三言発するのに、呼びかけられた店員が軽く頷くと、入れ替わるように慧斗が目の前に立つことになった。積極的な交代の意思が働いていたようにも見える、そのために自分からやって来たようで、ピッ、これこそ最優先とばかりに名札にバーコードチェッカーを当てるのだから。つい、気を引きたくなる。
「ひっどい雨だねえ」
 同じように天気の話題を振ると、そうっすね、と短く返事があるだけ。彼のユニホームの襟元からは、中に着たTシャツの濃いピンク色と、ペンダントのチェーンが覗いている。濃いピンクは、駐車場から小走りで店に入って行った人影が彼だと示す色だと思う。それとなく尋ねると、車で来たと、やはり短い答えがあった。ここまで歩いて来た自分は、膝から下が全部濡れたのだと告げると、酷いですね、感想は変わらず簡潔な一言だった。
「中村くんは、雨好き?」
「好き、な方かな…」
「やっぱりなあ、そんなかんじ。梅雨の雨より、真冬の雨とかが好きでしょ。冷たい雨」
 畳み掛けるように尋ねると、これには、答えあぐねたような長い沈黙。彼にはこんなふうに、考え込むことろが多分にある。なにげにS、確かにそうなんだろう、そうなるように仕向けておいて内心笑いを堪えながら、乾は煙草の陳列棚を指差した。
「えーとね、煙草。いつものちょうだい」
「あ、はい」
 代金を払い、ビニール袋は断ってテープで済ませる。この時期、一度開封したらすぐに湿気るだろうなどと慧斗にぼやいていると、その彼を、横合いから別の人物が呼んだ。
「ケイト」
 低く素っ気ない声の主の方へ、弾かれたように慧斗が首を巡らす。
「あ、なに…?」
「ちょっと来いよ」
 お互いの口ぶりからも、知り合いとわかる。乾は、さて帰ろうと一歩踏み出した姿勢から、半ば無意識にレジを出て行く慧斗を目で追った。出入り口から遠い側のレジ寄りの位置に、横目で見ただけでも迫力のある、自分と同じかそれ以上の長身、逞しい身体つきの、銀髪も眩しい男が立っている。
 直後の二人の行動は、キス、としか表現できないものだった。
 雷に打たれたよう、というよりは、目の前で落雷があったよう、というほうが、その光景に対する比喩と、自分の心理状態としては近かったかもしれない。
 重ねた唇が離れた瞬間、慧斗の平手打ちが相手の男を見舞う。
「――帰ってくんない」
「帰るよ、用済んだし」
 くるりと向きを変えてこちらに歩いてきた男は、乾の後ろに出入り口があるのだからそれ自体は当然なのだが、頭の片隅で予想していたとおり、すれ違う寸前で足を止めた。乾の腕を小突き、驚いたあとの表情を保留のままにしていた顔を、射抜くような光がひらめく目で覗き込む。乾の身長では、立った状態で覗き込まれるということ自体、滅多に経験できないものだった。
「今の、牽制だから」
 意味を理解し結論に至るより先に、先輩、と、慧斗の鋭い制止の声が飛ぶ。
「ね、マイセンライトってうまいの?」
 怒りを隠さない慧斗に構わず薄く笑って、乾の手元の煙草に言及し、もう一度制止されてようやく顔を上げる。
「帰るっての」
 肩をすくめて言うと、力強い足取りで彼は店を出て行った。
 駐車場のアメリカ車が、ゆっくりと発進する。黙ってそれを見送っていた慧斗が、のろのろと顔を上げる。深い色の瞳にまともに見上げられて、理解や思案や憶測を同時に処理していた表情を、上手く取り繕えなかった。
「…すいません、なんかもう」
 なんか、と、繰り返し呟き、そのうちにまたぴたりと黙り込む。やがて頭痛を堪えるように額に手を当てていた彼に気づき、そうさせるまで無反応でいた自分の失態に気づいた。
「…少しだけ、いいかな」

 

 本社にいた頃、二見と彼の同性の恋人との諍いに立ち会ってしまったのも、前触れなんてものは何もない突然の出来事だった。「その場」に居合わせてしまう体質なのか、今度は、慧斗と恋人が揉める一幕に立ち会うことになった。
 銀髪の男を恋人と断定できるのは、それを尋ねた時の慧斗の答えが、口ごもるような謝罪に形を変えたイエスだったから。
 店の外、灰皿の横を陣取って、ひさしの下に並んで立っている。フィルムを開けたばかりの煙草を吸いながら、乾は土砂降りを眺める慧斗のつむじに話しかけた。
「不穏な雰囲気だったから、だいじょぶかなあと思いまして。俺があんまり馴れ馴れしかったからだよね、やっぱり」
 慧斗が先輩とだけ呼んだ男が、乾を牽制する理由があるなら、また乾に牽制される道理があるなら、つまりそういうことだと思う。
「違います、全然、そんなの…乾さんのせいじゃないです、ああいう人だから」
 前方の土砂降りから視線を動かさず、慧斗は低く呟いた。
 乾も含めた三人の中で、心を傷つけられたのはおそらく、今何かを堪えるようにきゅっと眉根を寄せている慧斗だけだろう。どうやら自分は、口で言うほど自省の念には駆られていないらしいと、彼の横顔を見ながらどこか他人事のように考えている。
「ああいう人、とか言うんだね…きみがさ、そんなふうに険しい顔するキャラだとは思わなかった」
 憂いや諦めが混じり合ったような冷めた呟きは、同時に恋人を弁護するものでもある。その恋人を示した言葉尻だけを捕えて評すると、慧斗がさっと顔を上げた。「あ」の形に口を開き、しかし何も言えないのだろう、無言のまま閉じる。
「眉間にほら、縦皺。美人が台無し」
 言いながら撫でているのは自分の眉間だが、慧斗の眉間からもつられるように縦皺が薄れ、つられるように、ほんのわずかだが唇に微苦笑が宿った。
「なに言ってんすか…」
 前髪から覗く眼差しが揺れて、アスファルトに落ちる。冗談ではあるが嘘ではない、俯いた彼の横顔は、青白い影にきれいに映えている。
「がんばんな、なんて、言っていいかわからんけど。難しいよね――難しいわ」
 繰り返しひとりごちて、煙草を咥えなおす。
 難しい、と思う。
 複雑に沈んだ慧斗の表情は、とても恋愛に満足している人間のものではないと、少なくとも自分の恋愛で相手にこんな顔をさせたことはない、と思う。自分が経験してきた一般的な男女の関係と違うことは色々あるのだろうが、最も根本的な部分では変わらないはずだと、これも経験からだが思う。厄介な恋愛に身を置いている印象のある彼が、しかし彼の意思でそうしている以上、頑張れ以外に言いようもない。ましてや、果たしてこの関係がきみのためになるのか、などと個人的見解から言葉をかけるのは、あまりに無配慮だろう。
 しばらく吸っていた煙草を、思考が途切れるのに合わせ、灰皿に押し付けて捨てる。
 警戒心の強い動物のよう、慧斗に横目で窺われ、宥める気分で笑いかける。
「仕事、抜けさせちゃってごめんな」
「あ、いえ…」
「怒られたら、俺のせいにしなよ?じゃあ、また」
 軽く叩いた慧斗の肩は、見た目以上にほっそりと華奢だった。
 傘を忘れてひさしを出ようとし、踏み出しかけた一歩を止めて、傘立てから取っ手を引っ張り出す。
 何気なく、というほど恣意的な行動ではなかったが、ちらりと肩越しに慧斗を振り返ると、乾の触れた後の肩に手をやって、彼は何を言うでもなくこちらを見ていた。
 土砂降りの道路に歩き出しながら、視界の端で、慧斗がそっと手を下ろし、自動ドアの向こうに消えていく気配を感じた。

 難しい。
 錯覚だろうと思うのが自然だった。
 修正するだけの根拠を得て、今それは、確信のほうへやや針を振っている。
 経験から、ではあるが。深い色の瞳の奥に時折感じる、かすかなひたむきさは、やはり。
 あいにく目線の意味に気づかないほど、自分は鈍感な人間ではないのだ。

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