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9.

 安いだけが取り得の居酒屋から、ラストオーダーを理由に追い出される。
 最低限しか金を使わない上に長居をする大学生という人種は歓迎されず、ラストオーダーというのは店側にとっての単なる口実だ。ここまであからさまなのはチェーン店の中でもこの駅前店だけだが、自分達にとっても安さには代えられず、聞こえよがしに文句を言いながらも店を出ることになる。
 ぞろぞろと歩きながら、仲間のうちの一人のアパートへ向かう。これから飲みなおそうというわけ。水兎自身も酔っていたので、集団がどの方向へ向かっているか気に留めていなかった。
「あ、あそこで買ってく?」
 一人がやや怪しい呂律で、前方のコンビニを指差す。
 ぼんやりその眩しいくらいの明かりに目を向けると、一人の店員が駐車場の脇に立っているのが見えた――あいつ。ほんの二、三日前初めて入った店、初めて顔を見た店員。勤務中に電話しているらしいその男から目を離さず、水兎は先頭の友人に声をかける。
「なー、ここが一番近い店?」
「や、うち、一階にコンビニ入ってる」
「じゃ、そっちのがいいじゃん。荷物持って歩くのヤだ」
「栄倉が持つとは限らねーけどな。つーか持たねーだろお前は」
「言えた」
 水兎の要望はあっさり受諾され、そのまま通り過ぎることになる。通りざま、ふと顔を上げた相手と目が合ってしまい、引っ込みがつかなくなって非友好的なジェスチャーを送りつける。暗いのと距離があるのとで表情はわからなかったが、ケイトはすぐに会話を再開したようだった。
 信広と会えない。
 理由はいくつかあって、でもどれも、自分の一人よがりに気づいてしまったからという結論に帰結する。実物のケイトに会って実感させられた、最初に言われたタイプじゃないって言葉の意味とか…ケイトと水兎では、似ていないどころか、水と油だ。そのケイトを探し出して会いに行くなんてことをした後ろめたさも、彼には知られたくない。
 周囲から伝わる可能性だってある。でも信広がどう反応するかは、想像したくない。歓迎はされないことくらいわかる。だけど同時に、もし知られてしまえば、水兎が彼に対してどれだけなりふり構わなくさせられているかを一番効果的に伝えることができるのにとも思っている。
 ジレンマはそのまま、ストレスになるばかりで。
 もらったリストバンドの金具を弄る手癖が、重症化している。仲間から数メートル遅れていることに気づき、水兎は足を速めた。

 

 夢を見た。
 どんな夢、と話せるほどストーリーもなく、色や光さえ漠然としていたけど。
 現実なのは、目覚めた時に、号泣に近いくらい泣けていたことだけ。身体を起こして、ぐしょぐしょの目元をこする。悲しい夢だったんだろうか。
 学校…と頭の片隅にちらついたが、すぐに、今日が土曜日だったことを思い出す。それから隣に知らない男が寝ているのに気づき、昨夜と今朝が繋がる。
 寂しかったから。
 信広に好きだと言ってから誰とも寝ていなかったことなんか、自分だけの都合だってわかっていた。彼は進行形で慎と寝てるし、他の女とも寝てる。願掛けじゃあるまいし、操立てて何になるんだ、と気持ちが萎んでしまえば…下心と同じ重量の他人の体重が、やっぱり優しいのだった。
「…帰んの」
 目覚めたらしい男が、わずかに身体を起こす。
「寝てるふりくらいできねーの…」
 水兎が言うと、眠そうに笑って、男はまたベッドに突っ伏した。
 恋人同士じゃないから、一晩明かした後の会話とか、無意味。セックス以上でも以下でもない行為に、新しい感情は生まれないもの。身体に残った感触と、前払いの一枚を既にもらっている事実、それだけでじゅうぶん。服を着て、散らかった部屋の散らかった床を、間を縫いながら出る。外は薄暗くて寒い、今日は曇りのよう。アパートの階段を下りながらここがどこだか一瞬途方に暮れたが、幸い、駅から近い場所だったらしい。電車に乗ってセントラル駅に出る。店が開く十時にはまだ少し時間があるが、休日とあって相当の混雑を予測させる人出だ。
 東口側に出たのは、無意識だった。
 アパートに帰るだけなら、東口でなくてもよかったのに。これが何かの采配ならと、有神論者にでもなったような気分になる。もう一度会わないと、脱することができないと思う。水兎はまた、あのコンビニに向かった。

 

 レジの中が無人だったので、棚の前にしゃがみ込んで何か作業をしてる女性店員に話しかける。
「あの」
「はい?」
 ぱっと顔を上げ、にこっと微笑む。同じ店の店員とは思えない。
「ケイト…さん、いますか」
「あっ、ナカムラくん?」
 聞き返されても苗字なんて知らない。朝のコンビニにはそもそも男性店員の姿がなく、すでに深夜勤務は終わっているのだろう。返ってきたのは、そんな想像通りの答えだった。
「もう上がっちゃったけど。用事?」
「あのー…すぐ連絡取りたくて、店が一番早いと思ったんだけど。俺番号知らなくて、教えてもらえませんか」
 携帯電話を取り出す水兎に、つられるように彼女もユニフォームのポケットから携帯電話を出す。自分の個人情報には神経質だが、他人のそれは軽視する、お互いそんな世代の人間だろう。あっさり聞き出せると思ったのだが、彼女は顎先に手をやってしばらく考え、また顔を上げた。
「最初に私から連絡してみるねー。ちょっと待っててくれる?えーと、なに君?」
 そのまま名乗りそうになったが、たとえ正直に栄倉水兎ですと名乗っても意味がないことに気づく。相手は、その名前を知らないのだ。
「…ノブヒロさんの知り合いって言ってもらえれば、たぶん」
 キーとなる名前はたった一つしかなく、彼女はあっさりうなずくと電話をかけ始めた。一回で繋がったらしく、女性店員経由で水兎の来訪が伝わる。手短な会話を終えたあと、本人がここに来ると言われた。
「五分くらいだって」
「どーも」
 軽く頭を下げて、店を出る。
 外の自販機で缶コーヒーを買って、しばらく手のひらを温めながら道路を眺めていたが、どちらの方向から来るのかもわからないせいで無駄に神経を使っている気がしてやめた。
 キャップを開けてコーヒーを飲んだが、それも一口でやめる。
 腹痛い…。
 ゴムが合わなかったのかもしれない。
 最悪、やらなきゃよかった。それに寒いし、待つの嫌いだし。
 車止めにしゃがみ込んで、思わず腹を押さえる。
 フードを上げてうずくまっていると、少し遠くから高めの排気音が聞こえてきた。原付だろうと何となく顔を上げると、一台のバイクが駐車場に滑り込み、停まる。ヘルメットを外してこちらを見たのは、ケイトだった。ゆっくりした足取りで近づいてくる。水兎もフードを下ろし、立ち上がった。握っている缶コーヒーに気づいたのだろう、開口一番彼は、苦笑気味に言った。
「中で待ってたら」
「関係ないだろ」
「解ってんじゃん…何から何まで、俺には関係ないんだけど?」
 素っ気なく肩を竦め、言うだけ言って目を伏せる。何とかその視線を自分に向けようと、水兎は強い口調で切り出した。
「なんでノブヒロさんに言わねえの?」
「は?」
「俺のこと。言いつければ、守ってくれんじゃねえの」
 そうせめて、信広に伝わってしまえば楽になのに。一方的な願望から出た水兎の言葉に不審げに顔を上げたケイトが、次に、鬱陶しそうに眉をひそめる。
「…だから。切れたって言ってんだろ。それ、先輩から聞いたの」
 一番の弱みを指摘されて返事に詰まる水兎に、わかったようなアドバイスを送る。
「まず、本人に聞てみな」
「偉そうに言わないでくんない」
「とにかく俺は関係ないよ、一抜けたから。俺付き合ってる人いるし」
 水兎の口答えをさらりと流して、ケイトは言うけど。今現在のこの男のことなんて関係ない、聞きたくない。水兎の前に立ちはだかっているのは、彼の残像、残痕なのだ。過去と現在を完全に切り離しているケイトに、水兎は食い下がった。
「皆言ってんだよ。オナチュー、オナコーで、ずっとノブヒロさんのツレだったやつがいたって。ケイト手放したってことは、もう男は飽きたんじゃねーのって。ケイトってあんたのことだろ?違うのかよ」
 彼はあくまでスタンスを崩さなかった。
「違うかどうか、だから、本人に聞いてみな。お前…俺が先輩に言いつけたら、気を引けるとか思ってんなら間違い。俺の知ってる頃ならだけど…他人の噂で判断されるなんて、あの人許さねえよ」
 シンプルな言葉で的確に表現する男だ。だけど端々に感じないわけにいかない、信広のことを解っているのだと、こんなふうに強調されるのは我慢できなかった。その上ついでのように、最後にこう付け加えるから。
「――自分から嫌われるようなことして、どうすんの?」
 沸騰した感情は、大脳皮質を介さず直接手先に伝達された。
「何がわかんだよっ、あんたに」
 言い終えるより早かったかもしれない、手にした缶コーヒーの中身を、彼に向けてぶちまける。コーヒーの香りが二人の間に漂う。それだけでは治まらず、水兎は空き缶をケイトに投げつけた。制止の声が上がったかもしれないけど。
「最悪っ!」
 それら全部を振り切って、逃げ出した。

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