9.
ガチ。
ドアノブは回りきらず、鈍い音を立てて止まる。
中から施錠した人間が居ることを疑わないタイミングで、チャイムが鳴らされる。その余韻を聞かずに、重ねてもう一度。
呼び掛ける意味を持つ鳴らし方だ。
二度重なったチャイムが徐々に空気に拡散し、無音の気配が濃厚になるにつれて、猜疑心が高まる。あなたは、誰?碧は息を殺して、じっと、ドアを見つめた。
「――碧?いねぇの?」
ドアの向こうでぼんやり反響するテノール。弾かれるように立ち上がり、鍵を開けた。
「なんだ…永久」
「わざわざ鍵閉めといて、そりゃないだろ」
笑いながらドアを開けた永久が、部屋を見てどこか失望したような顔になる。
「また寝てたのかよ」
真っ暗な部屋は窓から入る街明かりを際立たせていて、きらきらしている。当然永久が壁際のスイッチに手を伸ばすのだが、反射的に、いや生理的に、碧はそれを制止した。
「電気、点けないでほしい」
シルバーのブレスレットごと手首を掴み、剥がす。
「なんで」
手の中で永久の手首が角度を変え、手首を握り返される。長い指に、血管を探すような動きで内側を撫でられて、碧は思わず手を引っ込めた。
「なんで?」
「…ごめん」
「答えになってないけどな」
うん、と口篭もる碧の頭を小突いて、永久は作業台のライトを点ける。
「じゃ、間接照明」
深夜になると彼はよく、この作業台のライトだけで過ごしている。最初から窓から見える夜景を計算に入れているのかもしれない、冷たいくらいに青白いライトは外と内のボーダーを曖昧にして、この部屋さえ夜景の一部に変えてしまうようだと思う。
この数学的な美術を、今は楽しむことができない。碧はブラインドを下ろして、外の世界をシャットアウトした。永久のファニーフェイスがくるくるといくつかの表情に切り替わり、最後、ちらりと笑う。
「背中の毛、逆立ってるね」
「そう、かも」
「鍵閉めて、電気点けないで。昼寝してたわけでもないみたいだな。俺がきみを心配するには、じゅうぶんな材料だけど?」
その通りだ。永久が椅子を引き、彼自身は作業台に直接腰掛ける。空けられた席は碧のためのもので、そこに大人しく座るということは、自分の様子がおかしい理由を話さなければならないということだ。逡巡したが、碧は浅く椅子に腰掛けることで、それを受け入れた。
「…昼間」
「うん」
「昼間、記者に会った。記者っていうのは、週刊誌とかの、記者なんだけど」
記者という単語だけでは想像し難いかと言葉を足したのだが、すぐに、片手を挙げた永久に遮られる。
「ストップ。会ったって、どこで?」
「ここの、下、あの、洗濯物が一枚落ちてしまって。それを拾いに行ったら偶然…そんな偶然いらないよね」
「偶然なの?」
「…俺にとってはだけど。向こうは俺のこと、探し回ってたみたい」
「それは何故?」
「俺が…仕事をすっぽかして、行方眩ませたから」
「仕事ってゆうのは」
「ドラマ。次クール…十月からの。初日に、行くはずだった電車から降りて、そのまま。それで、あなたに会った」
「そっか…で、えーと?記者が、きみに何か?」
いくつかの質問を終えると、ようやく、最初に戻ることが許される。何度も言い直しを要求されて、碧は教師に叱られた生徒の気分で、永久を上目遣いに覗った。
「――俺、話す順番、変かな」
ピアスを揺らして、永久が首を傾げる。
「変じゃないけど、下手。きみと俺、そのへんの事情は何一つ共有してねーんだよ。だから俺には、話が見えてこない。理路以前の問題だな」
永久はやっぱり、教師の口調で言った。
そう、そうだった。俺は彼に、自分が俳優だってこと以外、何も話してないのに。自分に比べて彼はずいぶん落ち着いていて、そのことを理解すると、少し気が鎮まる。碧は再構築のために、大きく深呼吸をした。息は、自分でも可笑しいくらいふるえてたけど。
「俺は…ゲーノー人で。仕事をさぼって行方不明になっています。イン…クランク・インには報道陣がたくさん取材に来るから…俺が姿を現さなかったことはきっと隠しようがなくて。ドラマ降板の噂はネットでもう流れているって、記者に言われた。降板の原因が失踪とはっきりすれば、それだけ記事は派手になるから、俺の行方を探してたみたい。製作側から正式に降板が発表されるのに合わせて、記事にするって、彼が言ったのはたぶんそういうことだと思う」
「探したって、見つかるもんなのか…」
感心したように言う。ほんとうに、こういうことに縁がない人なんだ。もちろんそれが、普通。
「フライング・ソーサーズのライブにいたのが、見られてたみたい」
「俺のせいか」
「せいって言うなら、俺のせい。俺と一緒にいたせいで、あなたの素性、たぶん、調べられたから」
奥寺永久という写真家のアトリエを探すのは簡単だったと、記者は言っていたから。永久が写真家であることも、ここが彼のアトリエであることも、知られている。最低だ。けれど碧の自己嫌悪は、軽やかなトーンで払われてしまった。
「隠してねーもん、別に。で、ネットの噂って…見たんだろ?」
「あ。勝手に触って、ごめん」
「いや。部屋にあるもんは好きにいじっていいって、言ったろ」
普段自分以外の人間が使うことのないノートパソコンだから、少しの、碧には気付けないような少しの変化が判るのだろうか。驚く碧に、永久は手のひらでノートパソコンを撫でながら、目を細める。
「まだあったかい」
理由は結構、原始的だった
碧が検索のために取った方法はごく簡単なもので、検索エンジンに「小田島碧」と「降板」を半角スペースで繋いで入力し、ボタンを押しただけだ。自分の名前をネットで調べるなんて、高校生の頃はよくやってたけど。その時は、専属誌のウェブサイトで名前が引っかかる程度だった。
「きみがダメージを受けているのは、その噂に?それとも、雑誌に載ることに?」
「そんなにやわじゃないよ」
碧を気遣う永久のほうがずっと繊細だ。あることないことっていうほどの記事はなかったし、書かれたって、そんなにダメージにはならないだろう。クランク・インからまだ一週間経っていない。ドラマの存在自体、一般にはほとんど認知されていないのだし。それにそういうことに対して、ずいぶん鈍感になった。けど。
「いや、やっぱり、やわかな。単純に、見つかってしまったことが堪えてるんだと思う。俺は逃げてたから。って…いうか」
ぼんやりと感じている気持ちを言葉にする作業って、難しいし、残酷だ。実際の感覚以上にコントラストがはっきりしてしまい、自分で戸惑う。
「あの…電車に乗りながら、さぼってやろうなんて全然考えてなかった。ただ、ほんとうに衝動で。衝動で髪を染めて、あなたに会ってしまって、引き返せなくなって」
「やっぱり俺のせいかぁ」
途方に暮れたように永久が言うから、思わず、笑ってしまった。首を振ってそれを否定し、碧は話し続けた。
「憶えてますか、昨日、広場の横歩きながら。間違ってたとは思わないって、あなたが言ったのが…とても」
言葉を切る。相応しい表現を探すための、思案の一瞬だ。食うために写真を撮ることを知っている、けれど高潔でいられるすべをも知っている写真家に、相応しい表現を。
「とても、響いて。俺にはずっと、どっかで間違ったかもしれないっていう迷いがあったから。なのに台本を、ずっとかばんの中に持っていて…捨てようとしたんですさっき。でも、捨てられなかった」
「だとしたらそれが、運命だ」
何気ない口振りで、さらりと、運命論を唱えて。彼はその大きな脈流に身を任せることのできる人で、脈流の一部に碧を触れさせては、どこか心得たように笑うのだ。それが、とても――。
「あなたは何も訊かなかったけど…」
「うん」
「ごめん。今のなし」
額の前に、人差し指で数字の一を立てて見せて。ワンモアテイク、プリーズ。
「あなたが何も訊かなかったから。この部屋はとても居心地が良くて、もっと俺に優しくなれなんて、身勝手なことを考えてた」
「きみは冷静だよ」
「どこが」
「浮かれてただけだ、俺はね」
薄い両肩を竦めてみせて、けれどそのシニカルな仕草には似合わない生真面目な顔で、永久は言った。
「居ればいい」
碧の息を止めておいて、沈黙を嫌うように、少し早口で続ける。
「なんて、無責任なことは言ってやれない。そりゃそうだろ?それがすげー、もどかしいよ。どうにかなりそうだ、歯痒くて」
短く息継ぎをして、
「碧。俺に、できることは?」
彼は自分の意思を碧に委ねた。目を瞑り、開いて、答える。
「ここに居させてほしい、です。明日まで」
「明日?」
「明日の朝、出てくよ」
「勢い任せに言ってんなら、問題だぜ」
「…どうかな。案外いつも、勢い任せなんだけど」
「茶化すよ、そこで。今はさ、きみはもっと自分を守るべきだ」
「これ以上できないよ。だって俺がリミットを決めない限り、あなたは俺に、出て行けって言わないだろ?」
「…情けねぇな。きみの力になってやれない」
責めたいわけではなかったのに、永久をがっかりさせてしまった。だけど、自分を守るべきだと永久は言ったが、今碧を守っているのは永久で、必要なのは彼の言葉通り自分で自分を守ることなんだと思う。だって彼は否定しないもの。こちらから出て行くと言わない限り、彼は碧を追い出さないって。
「言ったよね…俺の身勝手だけが膨れ上がってくの、わかる、から」
碧はそれだけ告白して、椅子を降りた。
薄明かりの中で動く碧を、永久の視線が追っている。
リュックの中から目当ての固さを探り当てると、碧は何日かぶりに携帯電話の電源を入れた。ディスプレイの白い光に目が眩むが、画面表示を見て笑ってしまう。
「はは。すげー数、不在着信」
一度、ディスプレイの不在着信件数を永久に向けて見せてから、碧はその番号に電話を掛けた。プッシュ音に耳を澄ませ、繋がるのを待つ。コールは一回したかどうか、すぐに、応答がある。
『碧?』
「俺」
『どこにいるの?生きてる?』
慌てふためいているようで、冗談を言っているようでもある。舛添の、落ち着いたアルトだ。なんだかとても、懐かしく感じてしまった。ふらつきそうになるトーンを抑えて、碧も彼女を真似るように、落ち着き払って言う。
「生きてる。居場所、あの記者から聞いてないんだ」
『記者?…ああ、言うわけないじゃない。事態を最悪まで悪化させるのが、あいつらの商売なんだから。今ここで私達があなたを見つけたら、面白くもなんともないもの』
「そっか…」
『そうよ。居場所を教えなさい、碧』
話は単刀直入に。まず、結論から、ですよね。
「東京タワー」
『え?』
「明日、朝。東京タワーの特別展望台にいます」
返事は聞かず、通話をオフにする。
目をまん丸にして碧を見つめている永久よりも、たぶん自分自身が驚いている。
「…言ってしまった」
碧は呆然と呟いた。