3.
真夜中だったのか、明け方だったのか。
空気中に上手く溶け広がることができず、遠くの、けれどはっきり音が聞こえる程度にしか離れていない線路の上を電車が通るたび、車のクラクションが響くたび、バイクのマフラー音がするたび、ふっと浮かび上がる。意識はあるのだが思考力はなく、身体は疲労していてソファーにめり込んでしまいそうなほど重い。身心がこれだけ訴えているというのに、環境が変わるとほとんど眠れないなんて手に負えない体質のせいで、知らない毛布とソファーの感触には眠気らしい眠気を感じられずにいた。
カタンカタンッ…また、電車。
浅く息を吐きながら目を開ける。目蓋を下ろしていた時の真っ暗闇に比べて、部屋の中は思ったより明るい。
ふと、ブルーがかったモノクロの部屋に気配を感じて目線をさ迷わせると、窓際に誰かが立っていた。男か女か、大人か子供か、瞬間に見ただけでは曖昧な影のラインが、却ってこの部屋の主人ではないことを碧に確信させる。けれど永久ではないとしたら、誰なのだろう。驚くよりただ散漫にそう考えながら目を凝らすと、その人影が、今はシェードに遮られた窓をじっと見つめてるのが判る。隙間から漏れ入る光で、横顔を見たのかもしれない。脳に直接訴えるような、デジャビュにも似た何かのイメージ。会ったことがあるのかもしれない、もしかして、前に。
碧の視線になど気付いていないのだろう、その人は、何も見えない窓に心を囚われているよう。
そしてそのまま、すい、と静かに窓に向かって歩き出し――通り抜けてしまった。
ピリリッ、ピリリッ、ピリリッ、ピリリッ、ピリリッ…。
電話の着信音に、心臓のあたりがぎゅっと圧されて、意識が戻る。
忘れてたけど、舛添にモーニング・コールを頼んでいたんだろう。どうしても寝坊できない日だからなんていうのはまだましな理由で、今日みたいにただ単に自力で起きる自信がないなんていう日も、碧は敏腕マネージャーを目覚し時計代わりに使っている。なかなか起きられない碧に慣れている彼女のコールは、天才的に辛抱強い。
持久戦に負けた最低な気分で受信ボタンを押せば、いつものアルトがクールに告げるのだ。
「おはよう碧。目を覚ましなさい」
ピリリッ、ピリリッ、ピリリッ、ピリリッ、ピリ―――
「うるせーな」
不機嫌なトーンのハスキーヴォイスと、
「ニャー」
滑らかな鳴き声。
「はい――アロ?グザヴィエ?」
湧き出すように部屋を満たし始めた音声はどれも馴染みのないもので、今度こそ、目が覚める。
舛添からのモーニング・コールなんかないし、そもそも携帯電話の電源はオフにしたままだ。ベッドの上では永久が、こちらに向けた背中をだるそうに丸めて、ひどくブロークンな英語で話していた。時差を考えろ、朝からあんたのひでぇフランス訛を聞くなんてついてない、と文句をつけているように聞こえる。寝ている碧に配慮することを思い出したのか、喧嘩腰のくせに、途中から段々小声になっていくのが可笑しかった。
永久の英語は教科書を嫌々読み上げているようなまるみのない発音だが、構文はクリアで淀みがない。そのアンバランスさは生活感そのもので、必要があって修得した人の独特のリズムだと思う。学生の頃は、とても吹き替えになんかならないマイナーな外国映画ばかり観ていたから、碧も耳はそう悪くない。ただ彼と違うのは、喋ることが全くできないのだった。
ニャー。
「アオ、しー…」
無遠慮に喉を鳴らすアオを叱ろうと、永久が振り向く。その光景を目にした瞬間、彼は思いきり破顔した。受話器のスピーカーを手で塞ぎ、これ以上ないくらい口元を綻ばせる。
「碧。おはよ」
「…おはよ」
ソファーに身体を埋めたままそう返し、碧は腹の上で丸くなっているアオを指先でつついた。心臓のあたりの圧迫感は、彼女のせいってわけ。お嬢様は、けっこう重い。
「おはよう、アオ」
ニャー、彼女はアーモンド型の目を優雅に細めて朝の挨拶をすると、身軽な動作で床にダイブした。それを見送りながら、碧もソファーに身を起こす。床に落ちないように無意識に緊張させていたらしい、背中や肩がガチガチに凝っていた。
手短な挨拶で電話を切り、永久が受話器をベッドに放り投げる。
「眠れた?」
「ちょっと」
「そっか。もっと寝てたら」
「平気…今の、あなたの先生?」
電話に向かって呼びかけていた名前、グザヴィエはフランスの人名のはず。彼の師匠はフランス人と言っていたし、会話にはスパイスのように時折簡単なフランス語が混ざっていた。碧の臆測を、永久はあっさり首肯した。
「聞いてたのか。第一声が、僕の可愛い小鳥ちゃん、だぜ?」
「はは、永久が?」
「くちばしが黄色いひよっこって言いたいんだろ…腐りたくもなる。ほんと朝っぱらから迷惑なジジイ。起こしちゃってごめんな」
落ち込むような言い方ではなく、むしろ楽しんでいるようだ。金茶の髪を掻き回しながら、永久が煙草に火を付ける。トップノートはきつい刺激臭だが、その後を甘い匂いが追いかけてくるのだと、何度か嗅ぐ内に気付いていた。
「…夢、見たみたい」
煙草を吸う仕草を目で追いながら、汗ばんでいた首筋を手の甲で拭うと、ひんやり冷たい。
「どんな?」
「誰かが、そこ、窓のところに立ってて…そのまま、通り抜ける夢」
「見たの?」
「うん…影ばっかりではっきりしない夢だったけど」
自分で上手く説明できないくせに、話始めてしまったことを悔やむ。大した話題じゃなかったと肩を竦める碧に、永久はにやりと笑って見せた。ベッドから降りて、窓を覆うシェードを上げる。空は曇っていたが、それでも部屋は明るくなった。コン、拳でガラスを叩き、碧を振り返る。
「通り道みたいなんだ。そっとしておくこと、それが一番簡単な共存の仕方」
「どういう意味?」
「言葉通りの意味」
それって。
「――幽霊?」
「どうかな。でも、俺もアオもそうやってここに住んでる」
いたって軽い口調でそう言われれば、これが日常なのだと言われてしまえば、居候に発言権はないのだった。
「腹減ったな。碧、得意料理は?」
「…かたゆで卵」
「おけ。今日のシェフは俺ね」
キッチンから漂う香りに身を委ねながら、所在無く床に座り込んでいる。アオも同じように座り込んでいるが、彼女の場合もしかして、碧を一人にしないために居てくれているのかもしれない。
空間と比較して、小さな窓。いかにも都会的な閉塞感のある造りの部屋だ。
この部屋は少し風変わりで、壁や棚に、都会の空とビルの写真がたくさん貼ってある。窓がいくつもあるようにも感じられるし、本来以上に部屋が窮屈になっているようにも感じられるのだけれど。何のために、と問うのはきっとナンセンスなのだ。
元々は納戸だったのだろう、ドアが取り去られていて床続きになっているスペースは彼のアトリエのようで、大きな作業台があり、道具がぎっしりと並んでいる。写真家以外の部屋だとは思えなかった。
テーブルの上には、ダイレクトメールを中心に郵便物が広げっぱなしになっている。宛名のあるいくつかの封筒から、奥寺永久(おくでら とわ)の文字列を読み取り、碧は一方的に彼の苗字を知った。
「碧、それどかして」
頭上から命令が下されて、慌ててそれらの郵便物をまとめる。
スクランブルエッグ、ハム、焼きパイナップルのプレート。トースト、アイスコーヒーのボトル、そしてキャットフード。全てを運び終わると、彼は揶揄うように言った。
「ゲスト扱いはここまでだからな?」
「皿洗いなら得意…たぶん」
自信なく碧が頷くと、ピアスを引っ掛けたほうの眉が、くい、と持ち上がる。
「きみは王子様?」
「…おまけに金もない」
「期待してねぇよ」
ふふ、と鼻で笑って、永久はトーストに齧りついた。いただきます、と口の中で呟いて、碧もトーストの耳に歯を立てる。しっかり焼かれていて、バリバリの触感だ。
「…この写真って全部、永久が撮ったもの?」
「悪癖だって言われるけど。気に入ったのは、飾っておきたいんだ」
彼のシンプルすぎる欲求には、大人のナルシシズムよりも、宝物を自慢する子供の無邪気さみたいなものを感じる。
「何枚に一枚くらい?」
「算数じゃねえんだから。何千枚も撮って一枚もない時だってあるし、たった一回シャッター切っただけで撮れる時もある。やっぱりさ、窮極その、たった一回で撮れる物に出会うためにカメラぶら下げてんだろうね」
奇跡は奇跡でしかないから、数式では導けないってこと。それを求めている彼の世界観では確かに、自分をとりまく全ての出来事に因果関係を求めずにはいられないのかもしれない。東京タワーで言った、碧に会うためにここに来た、なんて。
「運命論者にもなるかも」
呆れ半分に碧が言うと、
「だろ?」
永久はしれっと頷いた。
「人間は撮らないの?」
ビルの持つ潔癖なまでに整った角度やラインが、一瞬の空模様、彼の生む光度や彩度によって、色々な表情を見せていると思う。たくさん飾ってある写真に人間が映ったものがひとつもないというのは、碧にとっては同じ、写真に関する何気ない疑問だったのだけれど。写真家は、苦笑がちに目を伏せた。
「必ず訊かれる」
少し困ったような顔をするので、なんだか悪いことをしたようで、碧もまごつく。
「ごめん。人間も、きっとすごくきれいに撮るんじゃないかって…思っただけ」
「ん?ああ…もともと建築写真撮る勉強してたから、俺にはそっちのアプローチのほうがやりやすいんだけど。テーマは人間なんだ。でも難しいな、俺、人間好きだから」
最後のほうは、硬いトーストを頬張りながらの不明瞭な発音だ。
「あぁ」
「わかる?」
「共感できるって意味じゃないけど。わかるよ」
そう、共感ではなく、理解を込めて言う。
「いいなぁ、碧って。」
この、取り澄ましていると一種の近寄り難さがある顔は、ファニーに歪めると抜群に愛嬌がある。
「なんか音、欲しい?」
トーストを咥えたままの永久が、少し腰を浮かせてテレビのスイッチに手を伸ばした。
「点けないでっ…」
反射だった。思わず強い口調で永久を制止し、そのことに、自分自身戸惑う。
「んっ?」
「…ごめん、テレビ苦手」
「俺も」
碧の言い訳に、永久が機嫌良く手を引っ込める。彼のTシャツの裾でも掴むつもりだったのだろうか、やはり反射的に出しかけた手を握り締めて、テーブルの下に戻した。
東京タワーで舛添からの電話を受けた時、ほんとうなら、撮影スタジオにいなければならなかった。昨日の今日でどれくらい騒ぎになっているのか、それともまるで騒ぎになっていないのかはわからない。だいたいドラマのクランク・インを出演者の一人がすっぽかしたくらいで、次の朝のワイドショーを賑わすとは思えないし。
それでも、本来自分の居るべき世界の端を覗く気分には、とてもなれない。
フォークにパイナップルを突き立てて、口に放り込む。さっきよりずっと酸っぱいのは、たぶん、錯覚だろう。