1.
髪の色を変えた。
真っ黒い髪には飽きていた、から。
完全に色素が抜けた髪は光に透けて溶けてしまいそうな白で、まるでリアリティがない。鏡の中の、ドールみたいな自分と目が合って、笑う。
目的地よりも手前の駅で、電車を降りた。
東京タワーに上ってみたくなった、から。
衝動的なんて言うほど何かに突き動かされた感覚はなく、ただ、二十三年の人生で一度も上ったことがないのだなあと思ったら、開いた電車のドアから降りる方が自然だった。
きつい太陽、照り返しの強いコンクリート、辟易するような蒸し暑さの中、顎先から汗を垂らしながら歩く。夏休みシーズンだからだろうか、それとも普段からこんなふうなのだろうか、想像より館内は混雑していた。特別展望台までのチケットを買って、エレベーターに乗り込んだ。
ガラスの向こうは、360°のパーフェクト・ビューだ。
お台場、汐留、森タワー、渋谷駅まで真っ直ぐ伸びる六本木246。
どこにいてもこの赤い鉄塔が見えるのだから、相対的にここからも、ほとんどの場所を見渡すことができて不思議はないんだろうけれど。眼下に広がっているのは良く知っているはずの街なのに、全然、実感が湧かない。景色も、それを見ている自分も、どこかパラレルワールド的でフィクションの世界のようだった。
ふいに、リュックの中で鳴り出した携帯電話の着信音だけが現実味を帯びて、聴覚を刺激する。
ジッパーを開けて携帯電話を取り出し、通話ボタンを押す。こちらの返事を待たずに、相手は強い口調で切り出した。
『ミドリ?今どこ?』
姉さん風の、さばさばした声。この単純な質問に、少し考えてみたのだけれど、はっきりと答えることができない。
「――さぁ」
『ちょっと、ふざけないで』
「わかんない…どこだろ、ここ」
『ふーん、道に迷ったってわけ?それ、遅刻の言い訳としては0点』
呆れたような非難に、思わず口元がほころぶ。言い訳なんかじゃない。だって、ほんとに、知らない街みたいなんだ。
黙っていると、相手は怪訝そうに声を潜める。
『…ねえ、大丈夫?気分悪いの?』
「悪くないよ、全然…良いくらい」
『しっかりしてよ。迎えに行くから…いや、タクシー拾ってすぐ来なさい、その方がいい。わかった?』
性格も見た目も、このテキパキした喋り方の印象を裏切らないキャリア・ウーマンだ。エンタテインメントとビジネスが、至近距離で混沌と同居する場所に彼女はいる。彼女からの当然の命令に対して、けれど、イエスと従うことはできそうにない。
「ごめん、舛添(ますぞえ)さん。そっちには行けそうにないです」
碧(みどり)はそれだけ答えると、一方的に電話を切った。
スイッチをオフにすれば、携帯電話はただの鉄の塊になる。それは、予定調和の今日をぷつりと途切れさせるスイッチでもあった。
目深に落ちすぎたニットキャップを両手で直しながら、他人事のように感じる。
公園の緑、果てまで続くビル郡の灰色が、パレットの上で絵の具を混ぜるように色彩を滲ませ、ぼんやりと広がり始める―――。
「落っこちるよ」
突然、ざわめきの中からその響きだけが、ひとつのフレーズとして意味を持つ。誰かと誰かの会話を偶然に拾ってしまったわけではなく、自分に向けられた言葉なのだと、もう一度繰り返されることで理解した。
「落っこちるよ、魅入られたら」
日焼け気味の腕が伸ばされて、見知らぬ男がすぐ横の手すりに肘を付く。茶色と金色が大雑把に混色した髪が碧の視界の端で揺れ、眉尻、小鼻、両耳をずらり、顔面をピアスで飾った男は気安く笑った。
「驚かせてごめん。すげえ、きれいな紫色だったからさ」
一瞬の混乱の後、碧は反射的にキャップの縁を握り締める。
「ああ。これ…」
最近はよく、このインド風のつばのないニットキャップを被っている。鮮やかに染め上げられた紫色が、特にお気に入りの理由だけど。それ以上何と答えたら良いか判らずに戸惑って見返すと、彼はどこか眩しそうに目を細める。ほんの数秒だが、落ち着かない気分にさせられるにはじゅうぶんな、間。
あなたのテレパシーは伝わらないよ、と、テレパシーで伝えてみる。
年上だろう。学生特有の甘い雰囲気はないけど、まともな社会人だとしたらこの髪色やピアスはあり得ない。かと言って、ふだん自分が付き合いのある人種のような浮ついたオーラも感じない。正体不明の男は沈黙をやめ、マイペースな様子で口を開いた。
「悪ぃんだけど、そこ、ちょっとだけ立たせてもらえる?」
立てた人差し指で、碧の足元を示す。
「あ。どうぞ」
思いがけない要請に、碧は銃口を向けられたような気分で一歩飛び退いた。
「ありがと」
空いた場所に、銀色の三脚が置かれる。彼は慣れた手つきでネジを締めたり角度を変えたりすると、その上に、いかつい一眼レフカメラを設置した。大きなバッグを漁り、レンズを嵌めて、アダブターを調整する。彼が近づいて来た目的は、ここから写真を撮るためだったのだ。
「俺もさ、この場所から見るのが一番好き」
視線はレンズを通して街に向けられているのだろうけれど、言葉は碧に向けられたものだった。そのペースに巻き込まれるように、自然と言葉が零れる。
「――俺は今日、初めて登ったから」
「そっか。登ってみて、どうだった?」
「こんな街に住んでたんだって…思うけど、全然、実感ない」
ガラスに移る彼に肩を竦めて見せると、
「街は、変わらないけど」
ジ、レンズが数ミリ動く。
「本質を問うレベルじゃなくて、もっとプリミティブな意味で。地図で見た時の、場所、はさ。地殻変動でもなきゃ、北緯東経なんてそう簡単には変わらないから。自分の立ってる位置が違えば、見える角度とか大きさは違ってくるし、見えない部分だってある。その度に違って感じるほうが、健康的だろ」
ジジ、また、レンズが動く。
「と、俺は思うけどな」
外見からは想像しにくい、インテリジェンスを感じさせる言い方。彼の言葉を胸の中で反芻して、ぽつりと呟く。
「だとしたら俺は、病気だったみたい」
レンズを覗き込むために丸まっていた背中が、すっと、戻る。
「わかってよかったじゃん」
「はは」
暗いせりふに、軽やかにそう返されて、碧は思わず笑ってしまった。
「変な人」
「どのへんが?」
「その耳とか、やばい」
耳たぶを指でなぞり、ルーズリーフのようになった彼の左耳を表現する。映画なんかではよく、coolのことを「やばい」って訳しているけど。男は破顔して、ピアスを指先で弾いた。
「俺のビョーキ、ピアッシング――きみの髪も、相当イカれてるけど」
「ま、ね…」
碧が色素を失った髪の毛先を払ってみせると、彼の両眉が、くい、と持ち上がった。主張のあるパーツが、絶妙の加減でハンサムをかすってファニーに配置された顔立ちだ。
「似合ってんじゃん。そこで恥ずかしがったら、ニューヨーカーにはなれない」
「何?」
「俺、こないだまで向こうで師匠の仕事手伝っててさ。感覚麻痺するぜ、ほんと」
「師匠って」
「写真家」
「じゃあ。写真家の、アシスタント?」
「元、ね」
彼はもう一度笑顔を弾けさせると、設置したばかりのカメラを仕舞い始めた。動作は乱雑だが、手つきはとても丁寧だと思う。手際良く全ての道具を仕舞うと、ひょい、とバッグを担ぐ。
「あの…撮らないの?」
「れ。カメラ詳しい?」
不思議に思って問いかけたのだが、反対に不思議そうに目瞬かれて、首を振ってそれを否定する。
「シャッター、一度も切ってなかったから」
「音も光もしないから、大抵の奴は、撮ってんのか撮ってないのか判んないって言うぜ」
「そうかな…」
何故か言い訳がましい気分になって口篭もると、彼は、顎先を摘んで頷いた。
「通り過ぎても良かったんだ。なのに俺が、今日ここに来た理由は…たぶん写真撮るためじゃないからさ。直感だけど」
「うん」
「きみに会うため、だな」
東京タワーを出て、駅までの同じ道をまた、歩く。
違うのは、自分の前を歩く人物との距離を保つよう意識していることだ。重そうなバッグを左肩にかけ、折りたたんだ三脚を右手で持っている。
ジワジワとうるさい蝉の声と、車の排気音。それから、息を詰めて歩いている自分の気配。
Tシャツの襟を引っ張って汗を拭いながら、注意深く彼の背中を窺う。
ぴた。
彼の歩みが止まり、一歩遅れて、碧も止まる。
白いTシャツの背中がくるりと振り返り、びく、背筋が無意識に伸びた。
「なー」
推測二十メートル前方から、少し引っかかるような声を張り上げて。
「隣、来ないの?」
碧は答える変わりに、歩くのを再開した。
「猫みたいなやつ」
碧が追いつくのを待って、男が歩き出す。
「俺の言いたかったのはさ。東京タワーに急に登りたくなったことに理由をつけるなら、きみに会うためだったかもしれないっていう、結果論」
TOPをわきまえない、という表現は、ふつうこういう時には使わないだろうけど。あまりにロマンティックな言い種に、眉をしかめる。
「全部のことに因果関係があるなんて、俺は嫌…あなたは運命論者?」
「ん。わりと、ね」
簡単に肯定することで、彼は碧の非難を封じることに成功した。
「きみ、名前は?」
「…碧(みどり)」
「ミドリって、グリーン?」
「や、ブルー。紺碧(こんぺき)の、碧(へき)」
碧という字は、発音はグリーンだけど、色はブルーなのだ。
「へえ。俺のハニーも、アオって名前なんだ」
理解したのかしていないのか、彼はピントはずれなことを言うだけだった。
お互いがお互いの歩調に合わせようとし、測りかねて、妙にゆったりとしたペースになる。そうやって歩いても駅までは五分程度で、券売機で隣同士になった時ようやく、碧にもその質問を口にする決心がついた。
「あなたの。名前は…?」
恐る恐る尋ねると、何故か笑われる。
「もうほとんど、言い当ててる」
「え?」
「俺の師匠、フランス人でさ。よく揶揄われた。トワって、フランス語で恋人を呼ぶ時の、特別な”あなた”って意味なんだって」
「…toi(トワ)?」
「Oui(ウィ).永久(えいきゅう)、って、書くんだ」
「へぇ…」
狐につままれたような気分で、碧は気の抜けた相槌を打った。
ジャラジャラ。お釣りのコインが吐き出される音。
永久が切符を買い終えた事を知って、現実を思い出す。
行く場所…帰る場所が、ない。
五千円札を入れて、考える。とりあえず一番遠くまでの切符を買ってみようか?
ベタな小説みたいな展開だと、やはり他人事のようにしか思えない。
「――いいよ、おいで」
耳元で永久の声を聞いた。
背後から伸びた手が、迷いなくひとつのボタンを押す。ジャラジャラジャラ、大量の硬貨と、紙幣。そして、飛び出した一枚の切符。
「もう一匹猫が増えたくらいで、手狭になるような部屋じゃないさ」