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ピクニック

 季節の変わり目と表現すれば聞こえもいいだろう、ただただ曖昧な気候が永遠に続くようにさえ思えたのは、ほんの数日前まで。ニュースで「このところ一番の冷え込み」なんてフレーズを聞いた途端、世の中は冬になった。外灯の薄明かりの下に立つ身体が、夜風にしきりにさらわれる。ポケットの中で暖めていた手で頬に触れると、ひんやりと冷え切っていた。
 少し久し振りに、週末に休みを取った。突然言い出して取れるものではなく、つまり前もってこうなるようにシフトを組んだ結果の計画的休暇なのだが、さてその目的はと訊かれても答えられない。金曜日に休みを取ること、午後七時にアパートの前で待つこと、それから厚着をしておくこと。その三つの指示に従って、自分は今こうして集合ポストの脇に立っている。
 ぼんやりと、できる範囲で今夜の予定を想像してみる。夜のドライブは、自分達にとってむしろ定番に近い。行き先次第でじゅうぶん新鮮な気持ちになれる、なかなかにそつのないプランなのだ。まるで乾という人そのもののようだとも思う。慧斗自身、助手席に座るなら、ドライブは嫌いじゃない。
 ジーンズのポケットから、携帯電話を取り出す。あ…充電少なくなってる。まず気付いたのはそのことで、次に本来の目的である時刻を確認する。19:03。数分とはいえ、彼が待ち合わせに遅れるのは珍しかった。
 ふと、静かなタイヤの音が聞こえ、それから足元にヘッドライトが届く。気付いてはいたが、特に顔も上げずにさらに集合ポスト脇に隠れるようにしたのは、その車と自分は無関係だろうと思ったから。近づいて来るのは青いスポーツカーではなく、国産の黒いミニバン。通り過ぎるだろうという予測に反してしかし、ごつい車は慧斗の前で停止した。慧斗に一番近い、助手席側のウィンドウがまず下りて、滑らかなテノールが投げ掛けられる。
「慧斗くん」
 そして、後部座席のドアが内側から開き、
「待たせちゃったな」
 乾が顔を出した。
「寒かったろ」
「や、全然…」
 混乱に包まれたまま、反射的に、口癖に近い返事になる。
「取り敢えず乗ろうぜ」
「あ、うん」
 薄闇にオレンジのルームランプが灯る中から覗く、乾の笑顔に招かれて、慧斗は見知らぬ車の後部座席に乗り込んだ。
「この人に、箝口令敷かれててさ」
 乾が言うのを受けて、助手席から振り向くのは二見だ。緩くウェーブした明るい色の髪を、無造作に耳の後ろに掛けて笑う。
「たまには面白いかと思って。驚いてくれた?」
「人が悪いってのは、あんたのためにある言葉だよな」
「それを言うなら、俺達三人、共犯だけどね」
 三番目の発言者が穏やかな口調で状況を総括し、車を発進させた。
「ごめんね、摂のわがままに付き合わせてしまうけど」
 二見を下の名で呼ぶのは、この中では彼の恋人だけだ。要するに、慧斗以外の三人が示し合わせての、今夜だということか。堀込の犠牲的な謝罪もどこ吹く風で、二見は優雅に笑って言った。
「絶対楽しいって。こういうのは二人きりより、ね?」
「二見さん、二人っきりで楽しくなかった思い出があるわけだ」
「乾には訊いてません。ねー、慧斗くん?」
「あ、はぁ…」
 またしても我ながら間の抜けた返事。乾の手のひらが頭に触れ、軽く揺すられる。
「つーか、俺からもごめん、だな。ま、二見さんじゃないけど、たまには面白いかと思いまして。で、そろそろ驚きから覚めてきた?」
 最後軽く揶揄われて、ようやくつられて笑うことができた。
「…うん。なんか俺、乾さんの車ばっか探してたから余計、驚いて。これって、堀込さんの車ですか?」
 イエスの声は助手席から上がった。
「ノアがこっちまで出て来るのに、そもそも車移動だからね。ついでに俺達を順番に拾うのが、効率いいじゃない」
 そう言われればそんな気もするが、おそらくは詭弁というやつだろう。当の堀込が反駁しないのだから、慧斗が敢えて指摘する必要はないこととはいえ。
「それに、ノアの車が、これから行くとこに一番似合うし。慧斗くんもちゃんと、あったかい格好してきたね。可愛いダウンだ」
「―――あの」
「お。それ俺はじめて見る。新しく買った?」
 ようやく質問のタイミングが巡ってきたと思ったら、横合いの乾に阻まれる。出鼻をくじかれつつも、つい先に彼の問いかけに答えてしまったのは本能だ。だって、気づかれないかなと密かに期待していたのを否定できないし、気づかれて嬉しくなかったなんて言えないから。
「あ、うん、こないだ」
「いい色だね。似合ってんじゃん」
「ありがと…」
 ピンクに近い、マットな赤のダウン。先月買ったこれには、今日はじめて袖を通した。これからどんどん寒くなる、今年の冬ヘビーユースを予定している一着だった―――なんてことは、そうだ、今はよくて。
「じゃなくて。あの、今からどこに行くんですか?」
 言われなかったので訊かなかった。それはいつものことだし、聞かないままのどこか成り行き任せなドライブが、案外好きだったりもする。ただ、今夜のこの状況に身を任せきりにするのは、少しスリルがありすぎるだろう。
 助手席と運転席の人物が、顔を見合わせて笑う。
「取り敢えずー、この感じだと一時間くらい?走る?」
「そうだね…市内を抜ければ、あとは比較的スムーズだと思います」
「OK。あ、その前にどっかでコンビニ寄らなきゃ」
 はぐらかすような答えしかもらえず、慧斗は座り慣れないシートの上で、もぞもぞと尻を動かした。
 横目で乾を窺うと、口元を大きく緩めて、にやにやしている。ああ、そう言う乾だって、一番上に着てるジャケット、はじめて見る。そのごわごわの生地を引っ張って、慧斗は重ねて訊ねた。
「…どこ?行くんですか?」
 乾はいつもの取り澄ましたニヤリ笑いのまま、ついぞ彼の口から聞くことのなかった単語を発したのだった。
「ピクニック」

 

 二十分ほど走って、旧国沿いのコンビニに入る。慧斗の働く店と同列のチェーン店だが、たったそれだけの共通点を理由に入っておいて、何かを期待されても困る。
「どう、この店の感じは」
「どうって訊かれても…どこもこんなもんじゃないすか」
「確かに。それこそがコンビニのいいところだよな。でもレジの手際は、きみに軍配」
「…笑顔は向こうに軍配でしょ」
 むず痒そうに複雑な苦笑を浮かべるだけで、乾はそれを否定しなかった。彼の見遣ったガラスの向こうのレジでは、会計を済ませた二見が店員の笑顔に見送られながら、ビニール袋片手に戻ってくる。
「そこの二人、買い忘れた物ない?」
 一まとめに呼ばれて、慧斗はジーンズの尻ポケットを、乾はジャケットの胸ポケットを探る。喫煙者の性が取らせた反射的な行動は、やはり一まとめに、非喫煙者に失笑された。
「先戻ってるよー」
「―――中村くんは?ある?」
「ん。まだ半分以上残ってる」
「俺の少なくなってきてるんだけど…きみが持ってんなら、いいか」
 煙草とはこのように、得てして共有物になりがちだ。
 だからどうしたというわけではなくて、そういう、淡々とした事実があるというだけ。
 揶揄われるごとにいちいち狼狽していたらきりがないのにと思いながらも、二見の揶揄う意図がありありと見える意味深な視線を振り払うように、慧斗は灰皿に煙草をぐいと押し付けた。
 再び堀込の運転するミニバンに乗り込み、さらに三十分ほど走ったろうか。カーブの続く上り坂の車窓から見える風景がコンクリートの壁に遮られ、反対側の窓からはガードレールと林が見える。街がどんどん遠ざかっていく、と、漠然と感じながら後部座席に揺られているうちに、視界が少しずつ開け始めた。
 ヘッドライトに浮かび上がる白い駐車線を何本か無視して、一番奥に車は停まった。
「起きてる?」
 あまりに長い間黙っていたせいだろう、半笑いの乾に肘をつつかれる。
「降りるぜ」
「うん」
 頷きながらごそごそとシートベルトを外していると、カーオーディオからの音楽が途切れ、やがてエンジンが止まった。
 ドアを開いた瞬間に、暖かい車内に冷気が流れ込む。
 暖かい格好って、こういう意味か。山の中腹だけあって、地上より格段に寒い。
(寒…)
 口の中で呟いて、慧斗はアスファルトの地面に降り立った。
 公園というより、展望のために造られた場所なのだろう。特別なにか施設や遊具があるというわけでもなく、素っ気なく駐車場が設けられ、そのすぐ先には市内の夜景が広がっていた。
「うおー、ちょーさみー」
 優雅なテノールで半ば歌うような二見が、白い息を盛大に吐き出し、言葉とは裏腹に両手を大きく広げて歩き出す。その後ろを、こちらは無言で、広い肩幅を縮めた堀込が続く。
 四人が何となく低い階段を上りきると、こんなに寒い夜だ、広場には一組の先客もいなかった。
 切り立った崖が半円を描いて突き出し、木彫の手すりがぐるりと設置されている。
 冷たい手すりに両手を突くと、覗くまでもなく、その下には夜景が広がっている。
 高層ビルの白っぽい光、電波棟の赤、オレンジや青や、白っぽく列をなす県道の車、さまざまな光がミックスされた地上から少しずつ顎を上げると、宇宙へつながる黒い空へ移っていく。長年暮らしている街だから。宝石みたいとか、魔法みたいとか、そこまでロマンティックな形容は似合わないような気はするけど。
「きれいだな」
 いつの間にか横に立っていた乾が、ごく当たり前の、特に感動的でもない口調で一言こぼす。なんというか、それがすごく、この夜景に似合うトーンであるなと感じた。
「………うん」
 賛同の意を短く示し、ふと視線を落とした瞬間に、自分自身の左手に気づく。がさつな性格上、空いていることも多い薬指に、今日は指輪がはまっているのだ。隣の乾を盗み見ると、腕組みをした彼の左手にもやはり、鈍い色のシルバーリングが見える。今日のため、出かける前にわざわざした指輪でなければ、そしてここにいるのが乾と自分の二人だけであれば、こんなにも恥ずかしくならなかったと思う。
 どうしよう、外そうかな。
 急に過剰になった自意識に振り回されて、とりあえず左手をダウンのポケットへ隠した。
「慧斗くん何飲む?」
 がさがさと音を立てて突き出されたビニール袋の中には、缶入りの各種アルコール飲料が入っている。片手にそのビニール袋を提げながらも、もう片方の手に持った缶チューハイを既に口に付けている二見だった。
「あ、すいません…じゃあ」
 中身をよく見もしないまま引き当てたのは、グレープフルーツ味の缶チューハイ。
「あ、ひょーけつ。俺それのレモンだよー」
 にっこりと笑った二見の視線に促され、できるだけ不自然に見えないようポケットから左手を出して、プルタブを開ける。
「はい乾杯」
「…っす」
 一口飲み下した液体は、きつめの炭酸と、濃いグレープフルーツの香りがした。
「ね。山まで登って、こういうのってピクニックって感じじゃない?」
「そうっすね」
 イエスしか求められていない質問というのが、世の中にはあるのだ。苦笑しながら頷いた慧斗に頷き返して、二見は数歩移動する。
「乾は?」
「俺はいいよ」
「ノリ悪いなあ。何で?」
「いやいや、そしたら帰り、誰が運転すんだよ。帰りは俺が運転するから、堀込さんに勧めたら?」
 乾ののらりくらりとした声を聞きながらも、飲み下した何口めかのチューハイにむせそうになる。断然助手席派の慧斗にとっては念頭になかったが、たぶん、かなり、重要な配慮だと思う。一応自分も、免許所持者という点では頭数に入るわけだし。
 間に乾と二見を挟んでいても顔が見える、一際背の高い男が破顔して首を振る。
「乾くん、だって飲みたいでしょう?」
「んー、否定はしませんけど」
「だったら飲んで。俺は、大して酒好きじゃないんだよね」
「わーお、幻聴みたいなせりふだよねえ」
「あんたからしたら、耳を疑うだろうな―――同情します、ほんと」
「はは、ありがとう。摂はああだけど。俺は本当に、アルコールに惹かれないらしくて。帰りの運転も任せてくれていいよ」
 言いながら既に手にしている缶コーヒーを堀込が少し持ち上げ、四つの缶が輪になって、カコン、音を立ててぶつかった。
「乾杯」
 意識していたわりに無防備だったのだが、缶を持ち上げた手が左手で、一瞬動揺したのだが。薄明かりの下でそれは何も不自然でなく、小さな迷いは溶けて消えてしまった。
「あそこ、俺らの会社だね。うわー、まだ電気点いてるとこばっか」
「二見さんだって、日頃あっち側でしょ。えーと、ってことは、中村くんの店はあのへんの点のどれかか」
「ノアん家は?あっち方面?」
「どこ指さしてるの。もう酔ってる?」
 地図帳を開いた時と似たような感覚だ。男子はこういうのに、結構喜ぶ生き物であったりする。道路の名前を挙げていったり、あそこの交差点は混むとか。それがその内に近況報告のような雑談に変化し、笑い声も段々と大きくなる。
 彼らの会話を聞きながら、嫌煙家と非喫煙者のカップルから少し距離を取る。そろそろニコチン摂取が必要だ。柵の上に缶を一時避難させ、ジーンズのポケットから煙草を取り出し―――たのは、持ち主の慧斗ではなく乾で。無断で抜き取った煙草を一本咥えながら、
「ちょっと痩せたか?」
 思いも寄らないことを言う。
「え…なんで?」
「ジーンズのさ、ケツんとこが、いつもより余計に余ってる気がする」
 下ネタのジョークに対し、膝裏を軽く蹴って抗議すると、彼は何故か嬉しそうに笑うのだった。交代で煙草に火を点け、吸い込み、吐く。冷たい空気と冷たい液体が通るばかりだった器官に、吸い込んだ煙が奇妙に温かく染みる錯覚。
 ふー、という息遣いが、何度目かで重なる。
 それに加えて、右手に煙草、左手に缶のポーズもシンクロしていて、さっき堪えた笑いがこのタイミングで弾けてしまった。今度の乾は、不思議そうに目瞬きをしている。
「慧斗くん、次、何か開ける?」
 背後から堀込に声をかけられ、反射的に笑いを引っ込めかけたひきつった唇は、果たして彼に見られたろうか。
「あ、じゃ、ビールで」
 左手の缶が空になっていたの、いつ気づいたのだろう。もうとっくに二十歳を越えているし、相手に勧められて応えているにも関わらず、昔から「先生」の苦手な体質がなんとなく背筋をこそばゆくさせるのも本音。堀込の缶コーヒーと缶ビールの縁を合わせて、慧斗はぐびりとまた一口新しいアルコールを流し込んだ。
 横では、乾が堀込に車の話題を振っている。そのホイールがどうとか、よくわからない品番とか、車検の時にどうとか。二見も詳しいらしく、既に少し怪しいろれつでそれに加わる。慧斗はしばらくの間、アルコール嚥下装置として黙って作動することにした。ザルとか枠とかよく言われる、缶二本くらいでは特に何も変わらない。
 それからも雑談が続き、クロストークが飛び交ったりもしていたが、つまみ代わりのスナック菓子が二袋空きそうな頃には、その場に響く言語が二つに分かれていた。
 ほとんど聞き取れない流暢な英語。誰と誰の密談かは、言うまでもない。
 袋の底に残った、砕けたポテトチップスをまとめて口に放り込み、噛み砕く。慧斗は缶底のビールでそれを流し込んだ。横目でつい、鼻先がくっつきそうな二人を見ていたら、頭蓋骨ごと大きな手で掴まれて、視線を強制移動させられる。
「きみが見んのは、こっち」
「ふ」
「何で笑うよ」
「や、べつに…」
 少し酔ってるかな。いつもの、眠そうに落ちた目蓋の下から覗く黒目が、少しだけ潤んだ光を帯びている。意外と響いてしまった今の台詞は、さて、酔っ払いの気まぐれが言わせたものだろうか?
「ね…」
 ごわごわのジャケットを引っ張り、離す。
「んー?」
「…なんか、こんなかんじの場所って、二人で来るのもいいかなって…思うかも」
 白い息に混ぜてぼそぼそと、呟きながらも後悔している。少し酔った人にそれを聞き逃されても、よかったのだけど。
「結局向こうもそう思ってると思うぜ?つーか、なんでそれを不本意そうに言うかな」
「…今こういうこと言うの、嫌じゃん、なんか」
「また。きみの言葉の定義が時々わからん」
 くしゃくしゃと、今度は大きな手で髪の毛をかき回された。
「二見さーん」
「なーに?」
「寒ぃし、そろそろ帰ろうぜ?」
「えー?もう」
「摂は、もうじゅうぶん楽しんだでしょう」
「ノアは、そうでもないってことかな?」
「いえいえ、じゅうぶん楽しみました」
 わざとらしくごねてみせる二見の仕草が、全く嫌味にならなくて、何だか今日は彼に感心してばかりいるなあと思う。
 そんなことに気を取られていたら、指先に指先が絡まり、うそぶくような含み笑いの爆弾が落とされた。
「帰ってからのお楽しみがあるだろ?あったかいとこでさ、きみん家ででも、俺ん家ででも」
 スマートな切り替えしなんか、俺にはできない。
 慧斗はゆるく繋がれた指を振り払い、ダウンのフードを目深に被った。
「………うん」
 聞こえたろうか。聞こえなくてもいいや。
 ふと見上げた夜空。快晴とは言えない夜だけど、それでも鈍く、星がきらめいていた。
 家までたどり着いたら、今日は楽しかったです、この一言だけは忘れないよう彼らに言わなきゃ。

END
 
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