4.
店の洗面所を借りて顔だけ洗い、心配と好奇心が半々の日勤スタッフに当たり障りのない説明をして、アパートに帰る。ジャケットのタグを見ると、洗濯は可能なようなので、Ｔシャツと一緒に洗濯機に放り込んでしまった。ゴウゴウと低い稼動音を聞きながらシャワーを浴びて、肌のべたつきとにおいを洗い流す。ボディーソープの強い香りの中からも、ふとどこからかコーヒーがかおってくるような錯覚に、いつもよりシャワーが長くなったと思う。
新しい服に着替えながら、散らかった部屋を見回す。
普段から散らかっているのだが、連日の家捜しのせいで、足の踏み場もないといった感じ。しばらく眺めていたのだが、ひらめきはなく、軽い頭痛がしてくるだけだった――諦めよう。
棚に戻せるものは戻し、戻せないものは適当に積み上げ、チェストからはみ出した服を押し込み…一時間ほどの作業で、見た目には片付いた印象になる。ひょっこり出てくるかもなんて期待、しなかったわけじゃないけど。やっぱり出てこないんだもの。
いい加減身体が疲労していた。寝不足続きのせいなのか、さっきの出来事のせいなのか…たぶん両方。慧斗は倒れるように、ベッドに潜り込んだ。毛布に鼻先をこすりつけ、嗅覚のどこかがコーヒーのにおいを憶えているかもしれない不安をごまかす。
少し遠くの車の音、ベッドの感触、消える寸前のボディーソープのにおいに身をゆだねるうちに、ブラックアウトしていた。
…ピンポーン。
何度目かに聞いてようやく、それがチャイムの音だと気づく。
ずいぶんしつこく鳴らされているようで、慧斗は低血圧にうめきながら、のろのろと起き上がった。カーテンを閉め忘れていたが、外も部屋も真っ暗だ。暗闇に浮かび上がる、コンポのデジタル時計はもう六時近い。ずいぶん寝ていたよう。
ピンポーン。また、チャイム。
合鍵が差し込まれる気配はなく、だとしたら、乾ではないのかもしれないと思う。
ベッドから降り、壁際のスイッチを押して電気を点けると、慧斗は怪訝にドアスコープに顔を近づける。手が触れて振動したドアに気づいたんだろう、慧斗がドアスコープから覗き見る前に、相手から声が掛かった。
｢ケイト｣
ドア越しのくぐもった声は――。
鍵を開け、ノブを捻る。
｢…先輩？｣
見上げた先には確かにその男の顔があり、
｢よぉ｣
信広は感情の読みづらい平坦なトーンで、短くそれだけ言った。
｢…何？｣
半分、ドアを盾にして用件を尋ねる。大きな手が強引に隙間に入り、へりを掴む。
｢何｣
｢ミト｣
聞き慣れない単語。
｢ミトに吐かせた。あいつ、お前にちょっかい出したって｣
簡潔だが、用件にはじゅうぶんだろう。慧斗はドアを開けて、中へ通すことにした。
｢誰だよ、ミト…別に知らなくていいけど。そっちはそっちだけでやってくんない｣
強い口調の慧斗にちらりと片眉を上げて見せて、信広は肩をすくめる。以前、彼がこの部屋を訪ねて来るたびにそうしたように、当たり前の顔で奥に進み、ベッドに腰掛けた。
｢片付いてんじゃん｣
｢片付けたんだよ…人来るから｣
慧斗は冷蔵庫を覗き込みながら、横目で信広を見る。
脱色を重ねた挙句のくすんだ銀髪、ツイストはやめたんだろう、ゆるくカーブしているだけの毛先。その毛束を指で捩りながら、彼は頷いた。
｢了解。じゃ、手短に｣
｢…ビールなら出すけど｣
｢いらねー、そんな寒々しいもん｣
即答が返ってきたので、ビールの横の、ゼリー飲料のパックを取り出して冷蔵庫を閉める。今日まだまともな食事をしていないことを、急に思い出したのだ…ゼリーがまともな食事かはともかく。キャップを外しながら部屋に入ると、宣言どおり早々に、信広は話し出した。
｢悪かったな。誰から聞いて、何でそんな誤解したんだか、俺にもわかんねぇんだよ…俺がお前をいつまでも忘れられないとか、あり得ないだろ｣
｢…ふうん｣
ゼリーを噛みながら返事をしたので、ぼやけた声になる。
｢なに、引きずっててほしかった？｣
｢キャラじゃないよ、先輩｣
吸い口を離して答えてやると、彼はにやりと笑った。
｢ま。そうゆうことにしとくけど、とにかく根も葉もねーよ。あいつ、ミト、ちょっと何すっかわかんねえとこあってさ｣
｢付き合ってんの？｣
｢いや。めんどくせえんだあいつ。好きなら何やっても許されると思ってるし、平気で自分を押し付けてくるし、付き合ってもないのに嫉妬深い｣
相変わらず言葉を飾らないというか、選ばないというか。慧斗にさえ、ミトとかいうやつの必死さだけは伝わってきたんだけど…信広にかかれば、めんどくせえの一言で済まされるというわけ。言葉どおり面倒くさそうに頬をゆがめる男に、つい、そっちはそっちだけでやれなんて言っておきながら、口を出してしまう。
｢…てゆうか、付き合ってあげれば｣
｢バーカ。好きって言ってくるやつ片っ端から相手にするほど節操なしじゃねえの、俺だって。お前は反論ありそうな顔だけど｣
この男の浮気性に、何度嫌な思いをさせられたか判らないけど。鈍い記憶が刺激されることはあっても、新しい感情は生まれない。こういうことなんだろう、乾の言った、記憶や体験の一部って感覚。
｢付き合わないの？｣
｢…情が沸いてんのは確か。自分でもはっきりしねえし、ミトもそれ気づいてて、調子乗ってんだろうな。俺が悪い、今回のことは一連全部｣
慧斗の問いに、わずかにうなだれて髪を掻き回した信広は、けれどきっぱりそう言い切って、勢いよく立ち上がった。
｢もう手出しさせねえから｣
ゼリーを飲んでいる慧斗の頭を小突いて、入って来た時と同じように当たり前の足取りで出て行く。靴を履く背中を離れたところから眺めていたのだが、玄関のドアを開けた彼がちらりと振り返るので、空になったパックをゴミ箱に捨てて、近寄る。外から流れ込んでくる空気は、凍えそうなくらい冷たかった。朝から曇天だし、夜中、降るかも。
｢またミトがちょっかいかけるようならさ、言いな｣
聞かれたら、またコーヒーでもかけられるんじゃないかというようなせりふ。失笑を堪えて、慧斗は首を振った。
｢平気｣
｢…ま、そうだよな｣
守備範囲外だと、信広も気づいたんだろう。唇だけで笑って見せて、また、慧斗の頭を小突く。
｢ケイト、お前｣
次の瞬間のハスキーボイスは、
｢相変わらずほんと、隙ばっかだね｣
耳元で聞くことになった。反射的に後ずさる慧斗の肩を押さえて、薄笑いの息を吹き込む。
｢そんなガード緩くて、だいじょぶなの？｣
だけど、思わず笑ってしまったのは自分も同じだった。
｢そう言う先輩も、昔ならここでアクションしてるし｣
ジャケットの背中を叩いて、離れるように促す。前ならきっと、既にキスのひとつもされてるだろう。それをしないのは単純に、そんなことする意味がないってことだ。お互いに。
｢…もう行きなよ｣
慧斗は柔らかいビニール地の胸を押し返した。
カツン、と、硬い靴底が鳴る音が響く。一度ではなく、階段を上るリズムで、何度も。階段から一足先に影が伸び、遅れてコンクリートを踏みしめた靴も影の色だった。黒い革靴、黒いスラックス、ダウンの色だけは、茶色。
目を上げた瞬間の彼の顔に、特別表情はなかった。その穏やかな無表情が面食らったようになり、最後、複雑にひそめられる。
｢カレシ登場｣
頭の上から、揶揄うような声。
見上げる間もなく信広は慧斗を離れ、無言で乾とすれ違い、階段を下りていった。一歩一歩確かなスニーカーの音は、すぐに聞こえなくなる。
無人の階段を振り返っていた乾が、こちらに顔を向けた。
｢見逃さないほうがよかったか？｣
茶化すようだけど、楽しそうではない声色だ。
ダウンの裾から除くのは、礼服の黒だと思う。結婚式からそのまま正装で？一旦帰ったとしても、着替えてはいないんだろう…声に出して聞けばいいのに、言葉にならない。安心とか、混乱とか、色々で。
｢…あの｣
慧斗は手を伸ばして、彼のダウンの腕を握った。
冷たい手が重ねられて、あやすように撫でてくれる。優しい手つきのまま、乾は慧斗の手をそっと引き剥がす。
｢釈明を聞きましょうか｣
もしかして笑ったのかもしれないと感じるくらいに、小さく笑った。