Novel >  KEITO >  飛べない魚2

2.

 それまで六年間小学生をやっていた自分が、どれだけ自然で予定通りのステップでも、中学に入学した時。感じたのは不安とか期待よりもっと不確かでぼんやりしたイメージで、まるで知らない作家の聞いたこともないタイトルの本をふと手にとって読み始めた時のような、別世界に身体の一部だけ投じているような気分だった。
 自分自身の感覚なんて一番あてにならなくて、世界そのものにあがっていた。だからなのかもしれない、最初に信広と会った時の事を、慧斗は憶えていなかった。
 体験入部の時、大勢の、顔立ちも体格も未熟で似通っている新入生の中の一人を彼は見つけていたのだという。正確に言うと憶えていたのは慧斗ではなく慧斗の手首で、入学祝に両親に貰った少し高価な腕時計が、彼の目に止まっていたのだが。
「お前。水色のGショック」
 小学校でミニバスケをやっていたこともあって、結局はバスケ部への入部を決めた。二、三年生との初顔合わせになるオリエンテーリングで、二年生代表は慧斗を指差してそう言ったのだ。
「いいよな、それ」
 当時もうブームとは無縁だったが、密かにお気に入りだったアイテムを認められて、その一瞬、見ず知らずの上級生と何かを共有した…それが慧斗にとっての彼との初対面だった。
 センスが似ていると思われたのだろうか、名指しで呼ばれる事が多くなって、なんとなく近しくなった。そうしてみると次第に周りが見え始め、部内での信広のスタンスも判ってくる。
 彼は、誰からもリーダーになって欲しい、先頭に立って欲しいと思われているのに、その期待に応えない人物だった。中心人物なのに、中心のポストには絶対に納まらない。失望させられることも多かったが、その傲慢さが魅力でもあった。慧斗は単なる取り巻きの一人だが、信広に集まる色々な種類の注目は、そんな取り巻きの一人の気分だって左右していたのだ。
 地元の中学バスケ界でそこそこの有力選手だった彼がバスケ推薦で私立校へは行かず、一般受験で公立高校を選んだ理由は「疲れるから」。最後の最後でまた周囲の期待を裏切って、信広はさっさと軽薄な高校生に転身した。
「ケイト。お前も来いよ」
 卒業前、にやりと笑って言った、その程度の誘い文句を真に受けて。
 結局は同じ高校に進学してしまったんだ。

 

 ―――グラスに小粒のグミを落としたような、キーボードの弾む音色が身体じゅうを巡る。あまり趣味ではないけど、奇跡的に上書きされずプレイリストに残っていたエレクトロニカ・ポップは、今日の自分に結構似合っていると思う。
 三月上旬の寒い日、でも晴天。こんな天気にはパッヘルベルのカノンなんかより、もっとあっさりした音楽が聴きたいから。
 実験棟の焼却炉も、卒業式には稼働していない。澄み切った空気に気後れしているわけではないが、煙草を吸うのは後でもいい気がする。
「♪」
 メロディーとリズムの中間くらいの音に合わせて、小さく鼻歌を歌う。
 いつ終わるかも知らない卒業式。時間潰しにできることはあまりに少なかった。ぼんやりと昔のことを思い出しながら、信広の後にくっついて進むのもここまでだなあと思う。
 この学校はせいぜい上の下か中の上、その程度のレベルで、派手な生徒が多いからあまり評判も良くないし、多少勉強すれば自分にだって入れる高校だ。でも。信広は夏休みからずっと予備校に通っていたらしいが、もし慧斗が三年の夏休み…いや今から予備校に通い出したとして、彼と同じ大学になんて合格できないだろう。地元の国立大は、準トップと言って良い難関大学だった。
 不意に、ヘッドホンが外されて、内圧と外圧のバランスが崩れたと感じた瞬間。
「ケーイト」
 鳥肌の立った耳に、予想もしない近さで息と声が吹き込まれた。
「わっ、なに…」
 思わずその耳を押さえながら肩越しに振り返っても、頬を押し返され、顔を確認することは許されない。大きな手のひらで髪の毛を掻き回されながら、いつものように、覚えのない非難を受けることになった。
「たまにはさぁ、予想もしなかったような場所で見つけたいんだけど」
「…どんな場所。先輩、抜けて来ちゃっていいの?」
 乱された髪に指を通して直し、信広を見上げる。左右に首を傾けて鳴らすと、彼はオーヴァーなまでに唇を歪めて言った。
「まじで。しっかりしろつうのお前、もう終わったんだよ」
「あ…そっか」
 ここから、卒業式の行われていた体育館を望むことはできない。屋上の向きがその方向へ造られていないのだ。校舎からの死角になるということはつまり、校舎を挟んで更に反対側にある体育館も、死角になるということ。
「しょうがねえな」
 信広は呆れた顔で笑い、肩を竦める。それから、くあ、と生あくびを噛み締めて、もう一度笑った。
「――たりいよ、卒業式。あったかいから余計、眠い」
 冷たい空気に気持ち良さそうに目を細めている信広の顔は、ネコ科の猛獣風で、慧斗は思わずふっと笑ってしまった。すぐに、胡乱げに一瞥される。
「なんだよ」
「べつに」
「笑ってんじゃん」
「なんでもないって」
「だったら笑ってんじゃねえよ」
 否定するほど笑いが込み上げる慧斗に、最後は信広もつられて笑い出す。卒業証書の筒で頭を叩かれて、ポコ、空っぽな音がした。
 この男なりのバランス感覚なのか、アジテーターとなりうる自分の資質を理解しているのか、信広は昔から行事や式典を「積極的にサボる」ことはしない。だから、開始から終了まで彼が大人しくパイプ椅子に座っていた姿を想像すると、可笑しいのだ。反対に自分は面倒だと思ったらその気持ちに従う性格で、今日だってこうしてサボっていたというわけだけれど。
 習い性になっているよう、スボンのポケットを探った信広が、すぐに気付いて顔をしかめる。
「ケイト、持ってる?」
 目的語は、省略されても何の問題もない。慧斗は尻ポケットから潰れたケースを取り出す。軽く頷いて見せて信広は、ケースの中から煙草とライターを引き抜いた。
「寒ぃ。お前よく、平気でここにいたな」
「…どっちだよ」
「あー、くそ」
 風に流されて上手く着火できず、苛ついた声で呟きながら、ライターをカチカチと鳴らす。やがて嗅ぎ慣れたセブンスターの匂いが漂い始め、次に、ぶわっと盛大に煙が広がった。
「なんで出なかったの、式」
 大きく煙を吐いた信広の口からは、まだ細く煙が伸びている。横目でそれを追いながら、手の中で煙草のケースを弄ぶ。
「…俺が卒業するわけじゃないし」
「俺が卒業すんだろ。いろよな」
 この場合、彼の言い分の方が正しい。もちろんどれだけ自分勝手な言い分でも、迷いなく言うことで正論に変える男だけれど。はぁ、無意味な相槌は、風に乗って流されてしまった。
「なんで、ここにいたの?」
 少しだけニュアンスの違う質問は、さっきより核心的で、慧斗を口篭もらせる。
「なんで?」
 重ねて問われて、慧斗は弁解気味に口を開いた。
「なんでってわけでもないけど…ここ使えるのも、今日が最後だから」
「俺がいなくなるからって、使えなくなるわけじゃないぜ?開けといてやるよ、このまま。誰もここに興味なんてないし」
「いいよ…」
「うん?」
「俺、地学部じゃないし」
「バーカ。俺だって地学部だったとは言い切れないじゃん」
 信広の学年、つまり慧斗の一学年上までは、部活動への参加が強制だったのだ。参加自由に変わってからも、屋上を使えるからという理由で部を辞めないでいた信広は、鼻で笑って慧斗の意見を一蹴した。
「そうじゃなくて…」
「違うの?」
「…違わないけど」
 言葉足らずの自覚はあるが、信広相手だと特に途中で遮られることが多いので、いつも以上にもどかしさがある。頭の中で色々なフレーズのイメージが浮かんでは消えても、実際の言語にまでは成長しない。
「…なんか。先輩と関係なくなったら、来る理由もなくなる。と、思ったから」
 継ぎ足し継ぎ足し、なんとか言い終えたせりふは、酷い出来だった。要領を得ない言葉を吟味するような顔つきで、信広は切れ上がった二重目蓋の下の黒目を、くるり、回す。
「お前さあ、つまんねぇことばっか、考えんのな」
「だって…」
 仕方のないやつ、と笑われて、やはり口篭もるほかなかった。
「――ケイト、これやる」
 俯いて膝頭を見ていたせいで、場面展開に置いていかれたらしい。慌てて顔を上げると、目の前に見覚えのあるピアスがあった。見覚えというより、慧斗にとっては風景の一部のようなデザイン。
「…え、なんで?」
 そう。どれだけ目を凝らしても、信広の右耳には左耳とお揃いのはずのピアスがない。
「どれかやるって、約束したじゃん。それ、見た目ごつくないけど、結構模様凝っててさ。気に入ってんだ」
「あ、うん」
 知ってる。フープ型の、厚めだけど太くなくて、近くで見れば見るほど惹かれる巧妙な細工のピアスは、彼だけでなく慧斗のお気に入りでもある。慧斗の左耳に付いているのはチタンの安物だが、信広のピアスは本物のシルバーだってことも知ってる。夏休みにドラッグストアで機械とアイスノンを買って、自分で開けた安上がりなピアスホールに果たして相応しい品だろうか。降って涌いた幸運を、拒む理由はないのだけれど。
「やるよ」
 信広は、ピアスのなくなった右の耳たぶを引っ張って、笑った。
「消毒して使いな?」
「はは、汚いの?」
「そりゃ他人のもんだし」
 妙なとろこで潔癖症。冗談ではなく真剣なアドバイスで、慧斗を笑わせる。
「絶対お前に似合うから」
 ダメ押しの言葉と一緒に、手のひらに小さなピアスが乗せたられた。
 ポケットに捻じ込んで、生地の上から存在感を確かめる。
「…ありがと」
「どうたしまして。お前があんまり物欲しそうに見てるから―――バカ、嘘だよ。すぐ真に受ける」
 顔も見ずに、当然のように決めつける。ただし決めつけられても反論できない慧斗は、意味もなく両膝を抱えてそれに甘んじた。左の膝頭に顎を乗せ、ふと、コンクリートに向かって呟く。
「あ、先輩」
「なに」
「卒業オメデトウゴザイマス」
 ―――ふん。返事は小さな失笑。また盛大に、煙が吹き上げられた。

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