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3.
 メゾン・ド・ネージュの住人は多様で、生活サイクルもそれぞれだ。ひょんな瞬間にお国訛りの出る大学生の兼崎(かねざき)は、朝から授業に出てそのままバイト、帰宅はほぼ毎日零時を過ぎる。美容師の卵の三森(みもり)も、閉店後に自主練習をしているそうで、帰宅は遅い。ホテルマンの猿渡(さわたり)は交代制勤務のため、最も不規則だろうか。近隣の高校でALTとして働くカナダ人のリアムが、週休二日で残業なしの一番理想的な生活かもしれない。
 牛飼はといえば、声の掛かるままにあちこち行く生活というのは大げさではないようだった。一ヶ月以上留守にすることも珍しくはないらしく、一週間部屋を空けるくらいはざらだった。失業状態と茶化していたのはほんの数日で、すぐに新しい現場が決まったらしい。彼の移動手段は400ccのバイクで、初めて早朝にその低く静かな排気音を聞いた時は少し驚いたが、いつの間にかそれは彼の出発と帰還を告げる音となっていた。それに、在室を知らせる、風鈴の音。
 マンションでの一人暮らしの時には何も感じなかったし、感じたとしても煩わしいものだったように思う。実家に戻ってからはほとんど臥せっていて、五感にまつわる記憶はあまりない。床板が軋む音、風呂場の水音や庭木のさざめく音、誰かの吹かす煙草のにおい、手料理の芳香、吹き抜けの大きな窓に映る空模様、時に恐る恐る昆虫と対峙する雑草の感触。子供の頃のあの心躍る冒険はもう遠く、現実はあちこちくたびれているのに。その褪せてしまった写真にまた色を付けていくような毎日は、それまでの憂鬱な日々とは違っていた。
 朝、門扉あたりの掃き掃除をしながらまずリアムを送り出し、その後、兼崎と三森をそれぞれ見送る。風呂場の掃除を終えた頃、出勤前のシャワーにやって来た猿渡が、清掃直後の使用をしきりに恐縮するのに却って恐縮し、日本人的な構図にお互い笑う。午後から雨の予報に変わったから洗濯物の緊急避難要請が各方面から来るかも、なんて他愛なくも重要な情報を得て猿渡と別れると、近瀬は自室ではなくサロンへ向かった。
 三人掛けのソファの真ん中に、ゆったりと腰掛けている。癖の強い短髪を無造作に指でかき上げて、繊細な縁なしの眼鏡はオフの証明。新聞から顔を上げて、牛飼が笑った。
「おはよ」
「おはようございます」
 彼はよく、サロンで新聞を読んでいる。
 これは祖父の方針らしいのだが、アパート用に新聞を一紙取っており、誰でも読めるようにサロンのラックへ置くのが近瀬の日課の一つでもある。他にも、各々が読み終えた雑誌類は自由にラックへ追加することができ、リアムなどは重宝しているよう。もっとも彼の一番のお気に入りスポットは、一キロほど離れた図書館だ。ラックへ追加されたものは、管理人が頃合いを見て古紙回収に出すことになっている。思ったよりすぐに溜まってしまうので、時々まとめる必要があるのだが、この雑誌を紐で縛るという作業がどうやら下手らしいと今まで気付かなかった。
「貸してみ」
 手際の悪さを見かねたのだろう。背後で失笑が弾け、逞しい腕が伸びる。近瀬に代わって積み上げた雑誌に屈み込んだ牛飼が、慣れた様子で紐を手繰り寄せた。
「最初に輪っかにしておいて、で、ここね、角に乗せる。んで、こうやって回して――端でぎゅっとする」
「待って、もう一回」
「はいはい、こう――で、こう。わかった?」
「今は……」
「はは、次も呼んで。わかれば簡単」
 真剣に覗き込んでいたせいで、不意に顔を上げた牛飼と思いきり目が合う。にっと歯を見せる、彼の瞬発力が羨ましかった。
「これ、どうするの?」
「収集の日までは、納戸にしまっておきます」
「へえ、そうだったのか」
「ええ。ありがとうございました」
 鷹揚に頷いた牛飼が縛り終えた雑誌の上に座り込むので、中途半端に伸ばした手が行き場を失う。わざとなのだろうかと窺っても、屈託のない笑顔が返ってくるだけ。
「近瀬くんって、なんでもこなすよな」
「今まさに、こなせてなかったじゃないですか」
「うん、なんでもは言い過ぎた。でも、急だったのに、最初からあっさり仕事こなしてる印象あるよ」
「結構必死ですよ」
「だとしたら顔に出ないな、心配になる」
 本当に顔に出ないのなら、落ちた前髪を耳に掛けるふりなどしなくてもいいのかもしれない。思わず伏せた目を上げられないまま、牛飼の足元に向かって言う。
「皆さんに助けられてますから。それに、祖父がマニュアルを作ってくれていたんです。それも、パソコンで。祖父がパソコンを使えるなんて知らなくて、びっくりしました」
「あ、それ俺のお古」
「じゃあ、もしかして祖父に教えたのも?」
「教えたってほどじゃないよ、ほとんど独学じゃないかな。なんつーか、いろいろすごいよな、きみの祖父さん」
 牛飼は座った時と同じように、予備動作なしでおもむろに立ち上がった。ソファに戻り、再び新聞を広げようとするのを、今度は近瀬が妨げる。
「牛飼さん、来週からまたこっちを空けるんですよね」
「うん」
「発掘って……」
 足元の雑誌を納戸に運んでしまえば戻ってくる理由がないからといって、考えもなく口を開くものではない。動機は意趣返しではなく、そのことに自分でまごつきながら言葉を探す。
「その、持ち帰ったりできるんですか? 破片みたいなもの」
「お、それ訊いちゃう?」
 悪戯っぽい笑みの理由は、すぐに思い知ることになった。
「文化財保護法って、聞いたことない? 出土したものは、破片だろうがなんだろうが、登録して行政が管理します。持ち帰ったら犯罪です。掘った土だって、最後は元に戻すしね」
 くくく、忍び笑いを聞きながら、今度こそ熱くなった頬を手のひらで隠す。
「……今、わりと、すごく恥ずかしいです」
「いや、意外と知られてないもんだよ。それに、そこらへんの川とか山とかで採れる化石は、持ち帰っても全然オッケー。多摩川の河川敷でだって採れるよ。でも俺は、人の埋めた物とか生活の跡とか、そういう方がたぶん好きなんだろうな。千年、五千年、一万年、もっと前にさ、誰かが使った物とか居た場所に、今の俺が触れてるってのがたまらない。一億年前の自然物に比べれば最近だけど、古ければいいってわけじゃなくてさ、人の営みに関わる物のほうがぐっとくるんだよね」
 うっとりと目を細めて、嬉しそうに語る。噛んで含めるような丁寧さと、浮かんだ言葉を端から喋るような軽妙さが同居した、不思議な口調だと思う。その心地よい波長が、ふと途切れる。
「ごめん、俺、この話すると変態っぽくなるんだった」
「そんなこと」
「と、みもりんに不評」
「……三森くん、言いそうですね」
 ふざけ合う二人の姿が目に浮かんで、近瀬は堪らずに笑ってしまった。最年長の牛飼と最年少の三森が妙に気が合うことは、呑み会の席で知った。好き嫌いはあると牛飼は言ったが、人柄を知るにも打ち解けるにも、酒宴が最短ルートの一つなのは否定できない。学生時代は無理のきく友人たちが羨ましく、会社員時代には一人だけ欠席率の高さが後ろめたいだけで、仮病の誹りを受けているかもなんて被害妄想を抱いていた呑み会も、好きな時に顔を出して、いつ抜けても咎められることのない内輪の空気のおかげで、気構えずに参加できるのはありがたかった。
「そんなんだから彼女もできないんだって。あいつは田舎のお袋か――べつに、仕事が恋人ってわけじゃないんだけどなぁ」
 ぎし、とソファの背もたれに寄りかかりながら、牛飼は大きく伸びをする。水を向ける声音は、やはり穏やかだった。
「近瀬くんは? 恋人」
「いませんよ」
 ようやく、そして、いつの間に。このありふれた質問に、このありふれた答えを、感情を抑えることなく返せるようになった。さざ波のように揺れたのはむしろ、あっさりと答えることのできた自分への驚きで。
「忘れられない人でも?」
「どうでしょうね……自分でも、わかりません」
 内へ問い掛けるように、無意識に心臓の上を探っている。鼓動は少し、速いかもしれない。天井を仰いだまま、牛飼はうそぶくように言った。
「そっか。まあ、いたっておかしくないよな、誰にだって一人くらい」
「……牛飼さんにも?」
「ずいぶん前だけど。手ひどく振られたってわけじゃないし、むしろ良好な終わり方だったと思うよ」
「だから、かも、しれませんね」
「ああ、うん、そうかもな」
 ゆっくりと沈黙が降りてくる。それを押し退けるようにやはりゆっくり巡る視線に捕えられる前に、じゃあ、とか口の中で呟いて、近瀬は雑誌を手にサロンを出た。

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