Novel >  さよならBlue >  嫉妬のあとさき3

3.

 テーブルに広げた何枚もの写真を、大雑把な手つきでかき回す。トランプの数字を拾って、お手本にポーカーの役を作ってみせるような気軽な手つきだ。時折、一瞬考え込むポーズを取りながらも、まさにポーカーさながら、五枚の写真を一列に並べてみせる。カメラマンはふと顔を上げると、少し離れた位置から彼を眺めていたモデルを手招いた。
「碧、碧」
 パイプ椅子の上の体育座りを解いて、立ち上がる。夏物のタンクトップの上に、防寒用のニットのカーディガンを羽織る五月。ファッション誌仕様の服装は、現実の季節といつだってずれていた。
 横に並んで立つといくぶん背の低いカメラマンが、左端から一枚ずつ写真を指差し始める。一から五までテンポ良く数え上げ、碧を見上げた。
「このへんかなあ、と思うんだけど」
 横一列に並んだ、ニュートラルな表情の、五人の自分。
 横を向いていたり、俯きがちだったり、右膝を少し曲げていたり、両手をポケットに突っ込んでいたり、髪を触っていたり――。
「碧?」
「あ、うん、何だっけ」
「いやまだ、何も言ってないけど」
 黒縁眼鏡の分厚いレンズの奥で、須藤が目瞬きをする。
「お気に召しませんか?」
「とんでもないです」
 冗談に笑い返しながら、碧は自分の顔に人差し指を押し当て、指紋をつけた。
「俺ってこんな顔してたっけ」
「ん?」
「なんか、不思議な気分になったから」
 少し曇った写真の表面が、鈍く光る。
 はははっ、と耳元で明るい笑い声が弾けた。須藤が写真の束に手を伸ばし、ランダムな一枚を拾い上げる。人差し指と中指で挟まれた写真が、ピン、と立った。
「それは、今、俺の目の前にいるお前みたいな顔したやつは、この中にいないからかな」
「あ。それはそうですね」
 思わぬ真理を得てしまった気分で、碧は深く頷いた。
 何十枚もの写真。立て続けに切られるシャッター、連続写真のような展開の中で、しかし、写ってしまいましたって顔をしてる自分はたぶんいないだろう。カメラの前には、モデルしかいないからだ。須藤はまさにファッション業界のカメラマンで、彼と十代の頃から仕事をしている碧にとって、それはあまりに当たり前のことだった。
 日常の自分をそこに見出そうとしても、いない。ハイブランドの服から決してはみ出さないように振舞う自分は、少なくとも自然ではない。
 自然の反対は、人工。作り物の自分、そんな単語が浮かび、そうすると奇妙な違和感も薄まる。
 自虐的になっているわけじゃない。作品の一部として、あるいは作品そのものとして存在することがどういうことかを、碧は知っている。作品を、コマーシャル、と置き換えてもいい。被写体であることは、その意味自体いくら人工的でも、とても自然な行為なのだ。ファインダー越しに覗く誰かの視線、息遣いより不確かな合図、重なるシャッター音。どれも特別なものではない。始めは特別だったのかもしれないけど、それらの感覚を、いつか、受け入れることができるようになっていた。
 でも。ポーズを取れれば偉いわけじゃないし、向けられたレンズの奥と意思が通じれば高等だって理由もない。誰に対してとか、何と比べてとか、そんな意味は求めないけど。写真の中の、モデル然として写っている自分が何だか場違いな存在のように感じている。
「それが、どーした?」
 須藤の声に、ぼんやりした物思いから我に返る。
「や、どうもしない。何でしたっけ?」
「ああ、だから、このへん使おうと思うんだけど」
「須藤さんに任せます」
「…碧はそう言うって、わかってるんだけどねえ」
 愉快そうに喉の奥で笑いながら、須藤は編集者を手招き、彼女の前で同じように並べた写真を一枚ずつ指差し始めた。
 その光景を後にし、碧は再びパイプ椅子の上の人となる。カーディガンの袖口を少し引っ張って、手のひらの真ん中まで伸ばした。
 それがどうしたって、訊くけど。はっきりした答えはないんだ。今こうやって、ニットの袖口を引っ張っていることへの答えと同じくらい。わかっているのは、被写体としての存在意義を再認識させられている現実と、今さらそんな初歩的な思考に回帰させた人物を恨んでいること、そのくせついさっきの着信を切らなければどうなっていたか想像していること…それくらいだろうか。

 

 撮影場所は、港近くにある廃アパートの一室だった。照明装置で光を調節された室内に慣れすぎていたせいだろう、階段を降りた先の光景が、どこか拍子抜けしてしまうようなくすんだ色彩に感じた。
 近くのコンビニで、のど飴を買う。フィルムを剥いて口に入れると、ライムミントの苦味が広がる。地下鉄の入り口でジーンズの尻ポケットが震えた時、のど飴の大きさは二分の一程度にしかなっていなかった。マナーモードにしたままだったらしい、無言で震える機体を取り出す。画面に表示されているのは、予想した何人かの名前のどれでもない。碧は左の奥歯にのど飴を緊急避難させ、通話ボタンを押した。
「はい」
『碧くん?こんばんは』
 こんばんは、とつられてオウム返しになる碧に、澪は明るく笑う。
『今、何してる?』
「…電車乗るとこ」
 駅名を告げながら、地下鉄への階段は下りずに立ち止まる。
『ねえ、ひょっとして、今夜暇?』
 ひょっとして、なんて、かすかな希望に賭けるような言い方で碧を笑わせる。うん、と答えると、
『じゃあ、ご飯しよ、ごはん』
 澪は「ご飯」を二回繰り返して、即答しない碧を励ますようにもう一度言った。
『ご、は、ん』

 指定されたのは、先日対談を行ったのと同じ街にある一軒の店だった。山手線の外回り側か内回り側かという違いはあるが、それだけでじゅうぶん街は表情を異にする。
 店の入り口に彼女は立っていた。無地のワンピースに、花柄のバレエシューズ。落ち着いたデザインのカフェレストランは、長居を許す雰囲気が漂っていて、いかにもマイペースな彼女好みのような気がする。あっち、と指差すのはオープンテラスの方向で、二人掛けのテーブルに着くと、澪はにこやかに話し出した。
「ほんとはね、予約入れようと思ってたの」
 一等地に構えた店だ。平日の、やや深い時刻にも関わらず、店内のテーブルは適度に埋まっていて、オープンテラスの数台も即戦力といったところ。碧が何か答えるより先に、澪が目を大きく瞬いて、それから破顔する。
「違う違う、碧くんに予約。私ね、明日から仕事で一週間沖縄なんだ」
「明日?」
「朝イチ。六時半の飛行機で」
 明かされたスケジュールから、思わず時間を逆算してしまった。
「だから、帰ってきたらご飯に行こうねーって、言おうと思って電話したんだけど。碧くんがオフだって言うじゃない?これはチャンスだと思ったね」
 どことなく勝負師の顔つきでにっと笑う澪に、首肯する。
「うん、約束果たせてよかった」
「絶対って言ったじゃん」
「言った。澪さんの絶対は、絶対だよね」
 それも、先週末に言い出したことを、今週末を迎える前に叶えてしまう。
 メニューが運ばれてきて、会話は一時中断。澪は煮込み料理を、碧はパスタを頼む。もちろん彼女の采配によって、いかようにも分配、共有されるだろう。ここでそれをしたくて仕方なかったって、テンションだ。料理と一緒に注文したグラスワインで、まずは乾杯。グラスの淵を舐めた澪が、横目を見開き、大げさな小声で言う。
「あ、ねえ、今ちゅーした」
「ん?」
「あっちのテーブル」
 指差そうとするので、碧は呆れて彼女の人差し指を抑えた。
「あんま見ちゃ悪いって」
 澪はあっけらかんと笑うだけだ。
「碧くんは、ちゅー好き?」
「好き」
「おお、即答だ」
「即答。澪さんは?嫌いなんですか?」
「そりゃ好きさぁ」
 ゆるいパーマをかけたショートボブの、毛先を指先で捻る。少しの間考えるように黙って、上目遣いの視線をこちらに向けてきた。
「…その後、恋人とは上手くいってる?」
「その後って。最初から知ってるみたいな言い方する」
 思わず口をついた反論に、
「あ、やっぱり進行形なんだ」
 意を得たような顔で頷くから、誘導尋問を悟る。
「澪さん…」
「上手くいってる、のかな?」
 インタビュー誌の対談の時から、とにかく話を聞きたがっていた彼女だ。おそらくどこまで答えても満足しないのが彼女ら人種の特徴だから、碧は無理やり澪に水を向けることにした。
「澪さんは、どうなの?」
「うーーーん。普通?」
 悩んだ挙句の、普通。
「俺も。普通」
 碧が踏襲すると、澪も小さく頷く。
「普通、だね」
 ドラマや映画に出演するたび、相手役の俳優とスキャンダルになる世界だが。確か、桑原澪には付き合ってかなり長いパートナーがいるはず。俳優ではない。直接聞いたわけじゃないし、もしかしてそれだってただの噂かもしれないけど。
「ちゅー、したいなあって、思っただけさ」
 少し遅れてぽつりと呟かれた、舌っ足らずな言葉。
 心の中を読まれた気がして、うん、とか、そうなんだ、とか言えなかった。

 

 マネージャーが女優を迎えに来るのを待って、その場で別れる。走り去る車を二、三秒見送り、碧は駅へ向かった。
 身体を巡る二杯分のグラスワインと、胃袋に残る温かい料理の余韻が心地いい。受動的にしか食事を摂らない自分にとって、久しぶりの食事らしい食事だった。電車を乗り継ぎ、タクシーは使わずに歩いてマンションへ帰る。エレベーターに乗りながらちらりと携帯の時計を見ると、今日の残り時間は一時間と少しだった。
 開いたエレベーターの扉から踏み出す。きゅっと、硬い廊下にスニーカーの靴底が鳴った。まっすぐ進めば、自分の部屋だ。
 ――数歩手前からなんとなく気づいていた。
 ドアに立てかけるようにして、小さな箱が置いてある。紺色の、小さな箱。とある毒物のパッケージだ。この殺人煙草の持ち主を、碧は一人しか知らない。
 しゃがみ込み、煙草ケースを拾い上げる。軽い。取り出し口から中を覗き込むと、煙草は一本も入っていなかった。
 見えないメッセージに目を凝らす。この煙草が空になるまで、待っていたって意味?
 ため息がこぼれる。空のケースを手の中で弄りながら、ドアの鍵を開けた。
 カチャン。

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