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These words

 アポイントメントどおり、ジャスト三十分。ブリーフケースのジッパーを閉め、打ち合わせ相手と挨拶を交わす。小会議室を出ると、退出の気配を察知して、ガラス張りで隣り合ったブースのドアが開いた。
「お帰りですか?」
「はい、これで失礼します」
 ブラインドの向こうの様子を意識して観察したことはないが、秘書課の四人の女性社員とは顔見知りである。最年長だろうなと何となく雰囲気で想像しているその社員が、ドアの奥を振り返って合図をすると、他の三人も席を立つ。一人が彼女へ手提げの紙袋を差し出し、それはリレー形式でこちらに差し出された。
「これ、秘書課から。二見さんへ」
 黒地に白抜きのロゴ入りの、光沢あるパッケージだ。
 ―――例えば、青いシフォン地と白いセロファンのレイヤードの袋に、黄色のリボン。赤い包装紙に金のシール。ビーズのついたカゴに、フラワーアレンジメント。直方体、立方体、曲線を活かしたその他の多面体…エトセトラ、エトセトラ。どれも八時間以内のごく最近の過去に実際に手にしたものだが、形、大きさ、色に関わらず、取るべき行動と返すべき言葉は決まっている。
「ありがとうございます」
 礼を述べて受け取った紙袋は、ごく軽いものだった。ふふふっ、彼女らが顔を見合わせて笑い、ひとりが口を開く。
「主役はネクタイなんですよ。ご趣味に合わないかもしれませんけど」
 目の前のひとりの営業マンが愛好するブランドを見抜くのは、彼女らの目利きにとって簡単なことなのだろう。今日は身に着けていないけれど、確かに、その細い印字は好きなロゴタイプのひとつなのだから。
「趣味の方を合わせます」
 それほど個性的でない返答は、彼女達に許されたようだった。
 軽く会釈をしてその場を後にし、ロビーに向かう。下降ボタンを押すと、1で止まっていた階数表示が上昇を始め、やがてそのナンバーと現在のフロアが一致する。
 ガコ。
「二見さん」
 エレベーターのドアが開くのと同時の呼びかけに振り向くと、声の主が済まなそうに首を竦める。これから乗り込もうとするたった一人のために上昇してきた空っぽの装置は、しばらく摂を待って、目的を果たせずドアを閉じた。
「はい?」
 少し首を傾げて、どうぞ、と立ち止まってしまった彼女を招き寄せる。ストッキングに包まれた脚が交互に動き、ハイヒールの音が、カーペット素材の床に静かに吸い込まれる。ついさっき、連名のチョコレートを代表で手渡してくれた女性だ。
「あの。これ、個人的なものなんですけど」
 首から下げたIDカードの顔写真と、実物の顔と、秘書課と小さく書かれた次の段にそれより大きくレイアウトされたフルネームを、頭の中で照合する。そう、山田さん。
「お荷物になってしまうかしら」
「こう見えても、もう一つ持つ腕力くらいはあります」
 同じく手提げの小さな紙袋だが、こちらはヴィヴィッド・チェリーピンク。それを両手で持っているのは、もちろん重いからではない。冗談を返すと、フルメイクの顔がにっこり笑った。
「よかった。チョコレート、お好きでいらっしゃいます?」
「僕、甘党なんですよ。信じてないって顔だけど」
「あは、信じます」
 口元に片手を添えて破顔した彼女が、身長差プラスαの理由で、上目遣いになる。
「二見さんとお付き合いなさってる方って、どんな方ですか?」
 バレンタインデーにチョコレートを贈った人物にとっては、贈られた人物に対して持つ権利でさえある質問だと思う。
「そうだな…判りやすく言うと」
 彼女の仕草につられたわけではないが、顎に手をやって、人差し指で下唇を撫でる。茶系のアイシャドウが、好奇の目瞬きに合わせて幅を変えた。
「今夜八時に、うちのドアホンを鳴らす人、かな」
 目瞬きは一寸ストップし、次に少し、連続して回数を重ねる。
「トップ・シークレットを手に入れちゃったかも」
「そう?」
「…広めるなんて親切なこと。しませんからね?」
 腕時計というよりはジュエリーの存在感の、シルバーとピンクのコントラスト。摂より早く伸ばされた彼女の手によって、エレベーターの下降ボタンが押され、ドアはすぐに開く。
「お気をつけて」
 アシスタンスへの感謝を込めて、摂は丁寧に目礼を返した。

 

 オフィスの机の上には普段、ノートパソコンが乗っている程度で、それさえ自分と一緒に外出することが多い。机の中央にいくつか置かれた先客――朝にはなかったからその表現は正しくないかもしれない――を、横にスライドさせてスペースを作る。
「ああそれ、うちと、他の部署の子たちから」
 横合いからの情報提供で、推測の裏付けはすぐに取れる。定時を過ぎているので、派遣契約や事務職の女性社員が、プレゼントを残して帰ったというわけ。次に浮かんだ疑問が口をついたのは、特別意識してのことではない。
「こんなに部署あったっけ…」
「マジボケだった方が」
「腹が立つんですけど」
 非難のせりふは、前半と後半、それぞれ別の人物による。
「わは、息ぴったり」
 摂は苦笑して、ケースから出したノートパソコンのコードをコンセントに挿し込んだ。蓋を開いて電源を入れ、セットアップ画面を眺める。起動が終わるのを所在なく待っている摂のムードを察して、同僚は気楽な口調で、彼の好奇心を満たすための質問をした。
「二見、全部で何個なの?」
「さあ。重さでなら説明できますけど」
 ブリーフケースとノートパソコン以外の荷物は、車の後部座席に置きっぱなしにしてある。元々は衣料品の入っていた大き目の紙袋にまとめて入れたそれらを、わざわざ携えて高層階まで上がる性癖は自分にはない。
「そういうこと、さらっと言うやつだよお前は」
 背凭れが押されてわずかに椅子が回転し、摂は笑いながら立ち上がった。
 コーヒーメーカーに保温のランプが点いているのを確認して、サーバーを持ち上げる。淹れなおしてそれほど時間が経っていないのだろう、ストックされたコーヒーにはまだ香りがあり、勢いよく湯気の立つ温度だった。カップに半分ほど注いでサーバーを戻そうとすると、それを遮るように、背後から手が伸ばされる。
「二見は。明日からチョコレート屋になれば?」
「ネクタイ屋にもなれるなあ」
 彼の手にサーバーを渡しながら、ふふん、と笑ってやると、相手は気分を害したよう。コーヒーを注ぎながら、唇を尖らせる。
「外回りが少なかったんだよ、今日の俺は。午後まるまる、プレゼンだったから」
「拗ねなくたって。宮本は奥さんからもらえんじゃん、本命チョコ」
 自分と同い年で学年も一緒だが、既婚者の彼だ。海沿いの町にある、高台の小さなキリスト教会で結婚式を挙げたのは、去年の秋口、快晴の日曜日。たくさんの誓いを立てて、彼はひとりの女性の夫になった。
「そりゃ本命だけど。嫁さんカウントしてどうすんだ」
 宮本にサーバーを押し付けられたので、仕方なく取っ手を受け取ってコーヒーメーカーにセットしなおす。
「あ、言いつけちゃお」
「嫁さんのは、別格なの」
「…あれ?のろけ?」
「まあ、な」
「だよねー新婚だもんねー。早く帰れば?」
 一ヶ月後、行く先々で焼き菓子の詰め合わせを配って回るデリバラーとならなければいけない自分より、彼の方がずっと幸福だろう…金銭面においても。わざとらしく感嘆してみせる独身の同僚の勧めに、宮本は摂のデスクを指差し、彼特有の穏やかな動作で頷いた。
「二見が帰るなら。あれ、明日にしろよ」
 オフィス用の安いコーヒー豆から抽出された液体を、無理して全部飲む必要は果たしてあるだろうか。急ぎの報告書やプランニングは、あったっけ?
「…ん。じゃあメールだけ見る」
 会社用のデスクパソコンから、何通か必要なメールを転送し、ノートを閉じる。お疲れさまです、と、複数回やりとりし、連れ立ってフロアから出た。エレベーター待ちの間に、肘に掛けていたコートに袖を通す。
「宮本。花とかさ、買って帰ってあげなよ」
 ボタンを留めながら目線は動かさずに言うと、宮本はくく、と喉を震わせる。
「…さすが」
「何が?」
「簡単に言うとこが。で、なんの花?」
「買う気じゃん。チューリップとか、可愛くていいんじゃない?」
「それだけは買うなってことね」
「あっはっは、うがち過ぎ」

 

 駐車場で宮本と別れ、別々の方向に車を発進させる。駅前のデパートにも地下食品売り場があるのだが、車では不便なので、ルートを少し変更して駐車場のある大型スーパーに寄る。経路を順番どおりに歩きながら買い物できるほど慣れていないので、間違えて戻ったりしながら、必要な物を買い揃える。ビニール袋は助手席にエスコートして、エンジン・キーを捻った。
 手荷物が多いため、マンションのドアを開けるのに苦心する。最初にキッチンに直行してビニール袋を置き、残りの手荷物とコート、それにスーツの上着をベッドルームに放り込むと、急いがなければならないのはヒーターのスイッチを入れることだ。ワイシャツの袖をまくりながら、再びキッチンへ。
 カウンターから首を伸ばして時計を確認すると、午後八時まではあと、一時間というところ。バスケ部の副顧問が、七時ちょうどに部活が終わってすぐ車に乗り込めば、一時間後にはもうここにいる計算だった。
「さて」
 小さく呟いて、水道の蛇口を捻る。摂はその濡れた手で、ビニール袋の中身を取り出した。
 玉葱、人参、しめじ、ホワイトマッシュルーム、水菜、トマト、薄切り牛肉のトレイ、デミグラスソースの缶詰、赤ワイン、500mlの軟水、ロールパン。赤ワインは先に、冷蔵庫の飲みかけのやつを使おう。固形ブイヨンは、ラックのストックの中にある。
 ―――リラックスしてシェフをやるつもり。

 

 音だけが頼りのシチュエーションでテレビを点けていると、サウンドもノイズに変わり、癪に障るものだ。静かな部屋に響いた、気のせいではないインターホンの音に、弾かれるように立ち上がって受話器を取る。
「Hello?」
『Hello』
「急いで来て」
 ふ、受話器の向こうで失笑する気配。
『もうこれ以上、急げないけど?』
「ya」
 受話器を下ろし、集合エントランスのロックを解除する。玄関のドアを開けて耳を澄ますと、いつも階段を使う彼の健康的な足音が近づいて来た。やがて現れた実物が、摂を見て片眉を上げる。
「そんな薄着で。風邪ひくよ」
 そうして差し出された右手のプレゼントは摂にとって、クッションの効いたドアが閉まりきるまでの時間をとても長く感じさせるものだった。パタン。
「ノアって最高!」
 歓声を上げて、ダウンで着膨れた胴体に抱きつく。
「はは、どうも」
 楽しそうに笑って摂を抱き返すノアは、五分咲き程度の早生チューリップを控えめに三本まとめたスレンダーな花束が、どれほど奇跡的な存在かを知らないだろう。
 踵を浮かせて、黒い巻き毛に指を入れる。コンタクトレンズの縁が見えそうなくらい顔を近づけ、ひやりと冷たい鼻に鼻先をくっつけると、ノアはすぐに、摂が背伸びをしないで済むように背中を屈めてくれた。ごく弱く唇を吸われるのでは満足できず、強く吸い返す。首の角度が傾き、キスが深くなった。
 ちゅ。ちゅ…ちゅう。
 数度吸って、放して、また吸って。終わり?もうちょっと…ちゅ。湿った唇で顎の付け根あたりにキスをして、先に顔を上げたのはノアだった。キッチンの方角に鼻先を向けて、微笑む。
「いい匂い」
「ビーフシチュー、平気?」
「もちろん」
「もう少し、煮込みたいところなんだけど」
「摂の心のままに」
 シェフの意見を尊重して、ノアは長い腕で摂の肩を抱く。その中で軽く身体を捻り、テーブルへの短い距離を案内する。
「アペリティフには何を?」
「赤ワインを」
「素晴らしい」
 ワインボトルと呑みかけのグラスが一脚、既にテーブルの上に乗っている。時間潰しに一人で呑んでいたものだ。もう一脚のグラスをカウンターの中から手渡し、
「おつまみにチョコレートはいかが?」
 提案すると、ノアは快活に笑った。
「ははっ」
 テーブルの上は少し、奇妙なアレンジになった。二本のワインボトルのうち、壁際に置かれたボトルには水が入っていて、そこからチューリップが咲いている。摂は本物のワインがじゅうぶんに残っている方を手に取って、向かいのグラスに注いだ。グラスを合わせ、口元に運んだノアの喉仏が正確に一回上下するのを見届ける。
「先生は、チョコ貰った?」
 抜群のボディとエキゾティックなルックス。育ちの良さが判る余裕のある人となりは、独特のおっとりした雰囲気を生んでいて、嫌味なくらい上手なイギリス英語とマッチしている。そんな先生に英語を習った経験は摂にはないけれど、彼の生徒の気持ちになるのは簡単なことだった。
「お菓子の持ち込みは、原則禁止なんだけどね」
「ふうん。返しちゃうの?」
 左手で頬杖を突いて見上げると、ノアは首を横に振った。
「…冗談でも、真剣でも。彼女達の気持ちを否定する権利は、俺にはないよ。それにね、見くびっているわけじゃないけど、やっぱり未熟な感情だから。守って…大切にしてあげたいじゃない?」
 優等生の模範回答が、何故か心地よく感じる。
「好きだよノア。それがノアの良いところ…俺としては、複雑だけど」
 言いながら、四粒のトリュフが入った箱の、右上の角にある一粒を指で突付く。指先に付いたココアパウダーだけを舐めると、予想よりずっと苦くて渋かった。
「…お互いに。俺もそう思ってる。これ、手作りだね」
 ノアは指紋付きのトリュフを摘み上げて、マナーの悪さを叱る代わりに、それを摂の唇にくっ付ける。笑おうとしてわずかに開いた唇の間から押し込まれるので、テイスティングのために舌の中で転がし、奥歯で噛み締めた。
「…ねえ。バレンタインって、キリスト教のイベント?」
 クリスチャンのシャープな頬が弛み、くるり、閉口したように黒目を回す。
「うーん。今日だけで何回訊かれただろう」
「何が言いたいの…?」
「何も。違いますよ」
「んっ?違うの?」
「バレンタイン司祭が殉教した日だって聞くけど…あー、行事ではないのかな」
 肩を竦めた彼からの説明は、摂を満足させるレベルではなかった。
「そっか、詳しくないんだ」
「そーりー」
「どういたしまして。ね、俺の方が詳しいかも」
「ふうん…?」
 信用していない相槌。
「昔は、好きな人にメモを渡すのがバレンタインデーだったんだって」
「へえ」
「DJの言ったことが合ってるなら」
 FMラジオの受け売りだと明かすと、はは、苦笑がちに呆れられた。摂はグラス底のワインを口に含み、チョコレートの甘味を流し込む。テーブルに置いたグラスに手のひらで蓋をする真似をして、その手のひらをノアに向けると、合図を理解して、ノアは自分のグラスにワインを注ぎ足すことにしたようだ。とくとく、ボトルから小さな音を立てて、流れ落ちる。
「…だから」
 おや、続きがあるの?と、ノアが伏し目を上げる。小さく首を振ってそれを否定し、摂は彼の黒目を見返した。
「チョコレートはいらないから」
「ええ」
「俺のために、言葉をちょうだい」
 ノアの口元が綻び、彼らしい冗談が飛ぶ。
「メモに書きましょうか?」
「あいにくだけど。うちには紙とペンがないんだ…ヒントは、just…only three words」
「OK」
「ふむ。安請合い」
 誠意のないタイミングが不満で軽く睨みつけても、素知らぬ顔だ。
「そんなことない…Please,listen」
「どうぞ」
 摂は背凭れに深く寄り掛かり、腕と脚を組む―――彼が正しく発音することができたのは、ヒントが優れていたからに違いなかった。
「I love you」

「…once again」
 ぷりーず、を付けずに要求しても、ノアは怒らない。
「何度でも。I love you」
「ん」
「I love you」
「うん」
「I love you」
「…うん」
「I like you as you are」
 柔らかいテノールが不意に、自分勝手な新しいセンテンスを発音する。摂は思わず頬を両手で押さえ、身を捩った。
「ノア」
「I get a kick out of you」
 キュートなセンテンスは、古いミュージカルの楽曲タイトル。
 摂は良い気分にさせられるのが好きだ。お世辞とかおべっかは、そうと判っていても、好き。彼の饒舌が本日限定のリップサービスでも、この素晴らしい気分には代えられない。
「ふふふふっ、ねえ、オーヴァーしてるよ」
「ああ、そうだっけ?」
 きっかり三語の約束に、とぼけて見せる顔もハンサムで。
「…俺も。愛してる」
 シチューを煮込むのはあと、少なくとも、抱き合って気の済むまでキスをする時間だけ延長しなければならない。

END
ベイビー”商業主義上等”のバレンタイン編でした。バレンタインで遊べる人も、いいかなと。
(2006.12.13)
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