2.
「EUって言ってたけど…どこを周ってきたの?」
アオを下ろして、靴紐を解く。
解放された彼女の足取りを眼の端で追っていると、まっすぐ飼い主のところに戻り、ジーンズの脚にじゃれついた。ひょい、黒い身体は永久に抱え上げられて、フレームアウトする。
「んー…まずイギリス。でー…ドイツ、フランス、イタリア、あ、イギリスん時に日帰りでニューヨーク寄ったらやっぱ引っかかってさ、俺ほら、ピアスの数が多いから。で、えーと?一旦スウェーデンまで足伸ばして、戻って、結局トルコまで。まあでも、主にEUだね」
彼のテノールがさらりと、ヨーロッパから大西洋を一度越えて、シルクロードの西端までを飛び回ってみせる。
「永久」
「ん…!?」
碧は脱いだスニーカーの片方を、彼に向けて思いきり投げつけた。
布製のスニーカーは永久の頬をかすめ、バタッ、重たい音を立てて壁に当たり、ずるりと床に落ちる。危険を回避した角度で半身を強張らせていた永久は、横目でスニーカーの最後を見て、それから、目線を碧に合わせた。
「…何?」
素っ頓狂なトーン。
「呆れてる」
混乱した彼の目に、理解の色はひらめかない。碧はさらに、言葉を重ねた。
「まさか、こんなに鉄砲玉だったとは」
「あぁ、俺」
何故、そこで愉快そうに笑うんだろう。
「しばらくって、永久にとって、こんなに長かったんだ…」
「だって。観光ビザだもん」
「あ、そう」
確かに彼だ。軽い調子の喋り方とか、悪戯を打ち明けるような笑い方とか。それらはどうしようもなく碧を安心させるものだけど。
それ以上に、腹が立っている。
くるりと背中を向けて、開けたばかりのドアを今度は内側から外側に押す。スニーカーが片方だけだって構わない。出て行こうとする碧の本気を悟ったのだろう、ドタ、背後で大きく床が踏み鳴らされる音がした。
「――ごめん嘘」
素早く肩を引き戻され、バランスを崩す前に抱き止められる。長い腕の中で身体の向きを変えて、碧は永久の顔を正面に捉えた。
「どれが、嘘なの?」
「…どれかなぁ」
曖昧に視線を泳がせる男の、痩せた胸を押す。
「わ、碧」
狼狽えた声と、それに似合わない力づくの手。脱出は叶わず、がっちりと両肩を掴まれて、彼のため息に前髪を撫でられることになった。ふわ。
「やっぱり、本物は鮮烈だね…」
「…話を逸らす」
「信用ねーな…当然か」
「しばらくがどれくらいなのか、最初に俺が、訊くべきだった?」
「いや、きみにその義務はなかった」
苦笑を刻む唇に、指で触れる。合図の意思を汲んだ彼が顔を寄せるが、碧は指と指の隙間からかすかに唇を吸っただけで、もう一度胸を押し返した。今度の永久はあっさりと離れ、腕を広げて見せる。
「これは希望だけど。とにかく、座ってほしい」
荷解きの途中だってことが見て取れる、開きっぱなしのスーツケースや、ベッドに広げられた荷物。元からあるもの、この部屋に還るべきもの、新たに持ち込まれたもの、それらはまだ融合前で、彼がほんの十数時間前まで旅行者だったことを感じずにはいられない。
碧をソファーに座らせ、自分はその向かいに重たそうな段ボールを引きずってくる。ファイルや冊子のようなものがぎゅうぎゅうに積め込まれたそれを、永久は椅子代わりにして腰掛けた。
さっき落としたんだろう、床から吸殻を拾い上げた時、さらりと髪が分かれる。元々長めだった襟足が、うなじをほとんど隠す長さにまで伸びていたんだ。もちろん襟足だけでなく全体的にずいぶん伸びていて、そうするとちょっと繊細というか神経質な印象になるみたい。根元からかなりの長さが地毛の色で、派手さが半減してるからかな。
思案のためだろうか、永久はしばらく小鼻のピアスを弄り、やがてその手を止めた。
「帰るのが怖くなったんだ」
伏せていた目を上げ、おどけた仕草で肩を竦める。
「一日一日、重ねるごとに、帰れなくなってさ」
「何故?」
「日本にはきみがいるから」
「いるよ…他に、どこにいろって」
碧にはどうにもできないことだ。理由になっていない理由に戸惑いながら反論すると、永久は頷き、宥めるように目瞬いた。
「大丈夫だと思ったから、離れたのにな。時間はやっぱり、魔物だと思うんだ。時間が経てば経つほど、なんて言うか…ボルテージを保つのは難しくなるだろ?」
「それは、経験談?」
「…まぁ、一般論でもあると思う」
うそぶく口調と、深くなる口元の笑い皺。
いたって明快なセンテンスだから、意味は理解できる。解らないのは、何故そんなことを言うのかってことだ。いくつかの推測が浮かぶ、どれも悪いものだ。
「それは。あなたが、俺に対してボルテージを保てなくなったってこと?」
「まさか」
「…じゃあ、俺は試されたの?」
「ま、さ、か。違うよ」
ひとつ、ひとつ、碧の仮説を否定して。永久はダンボールの椅子の上で片膝を立てた。膝頭に額を乗せ、やはり思案するような間を置いてから口を開く。
「あれだけあった自信が、なくなってくんだよなぁ。俺の中では時間軸と比例するように…津波みたいに二乗ずつさ、気持ちが高まってくのが判るから。余計、現実とのギャップが怖くなって。もしきみが冷めてしまっていたらって想像だけで、びびってた」
思いも寄らない言葉だった。無意識に緊張していた身体の力が抜ける。脱力しすぎて、膝の上で手を組む、それだけのことができなかった。俯くというより重力に負けて首が下がり、ため息が抜けていく。
「…馬鹿馬鹿しい」
「うん」
碧の非難を、永久は穏やかに首肯して受け入れた。
だってほんとうに、それが理由で帰国を躊躇っていたのだとしたら、あまりに馬鹿馬鹿しい。何故そんなことを考えるんだろうか。彼は直感的な人物であり、霊的なインスピレーションさえ持っているのに。けれど反面、とても理性と思考を重要視するところがあって、それが、現実の碧を無視することに繋がったんだろうか?癖なのか、それともバランス感覚なのか、芸術家としての彼には確かに、自分自身の直感を表現するための手段…理性と思考力が必要なのは理解できる。
だけど。
今、それが邪魔になってる。
碧はワックスでごわついた髪をかき上げ、永久を見るための視界を広げた。
「知ってますか。俺、誕生日だったんです、昨日」
突然変わった話題に、永久が戸惑い気味に目を見開く。
「うん?」
「二十四になりました。興味ないかもしれないけど」
「いや…居たかった、そばに」
「うん。居てほしかった」
痛みを堪えるような顔を、するのだから。
少しソファーから腰を浮かして、碧は永久の前髪に触れた。傷んでほとんど色のない軽い毛先を、持ち上げる。
「あなたからしたら、大人じゃないけど…恋愛と、そうじゃないものを間違えるほど子供じゃない」
「うん」
「待ってることだって、今だって…そうなのに。もしかしてそんなことも理解してもらえてないんだろうか」
「碧?」
「もっと。俺のことを、考えてみてください」
中腰の状態から急に立ち上がる碧を、永久の視線が追ってくる。碧は大きく息を吸って、
「あなたが答えを見つけるまで、会わないから」
宣言した。
「ちょ…碧、それ、仕返し?」
「それもある」
片手で作った拳銃を、バン、一発。
永久は撃たれた額に手をやって、実に複雑な表情で笑った。
「――参ったな」
「待ってます」
脱いだジャケットと、片方のスニーカーを拾って、碧は部屋を出た。
外は陽が落ちて、すっかり冷え込んでいる。階段を降りながら、ジャケットのジッパーを真ん中くらいまで上げた。
結構、自爆ワザ、なんだけどな。
一瞬触れただけの唇。表皮の下が、脈打ってる。
十一月の最終週は、連日、映画館にいた。
十二月に公開する映画の試写会が続いているのだ。観に行くのではなく、舞台挨拶。撮影自体は七月にはに終わっていたのだが、年末に合わせての公開になっていた。ちょうど出演ドラマが放映中ということもあって、客席から役名で呼ばれたりする。映画の舞台挨拶なのに、ドラマの役名で。単純だけど、これが一番判り易いドラマ効果だった。
「ご紹介に預かりました、マドカ役の小田島碧です。ここではマドカ、ですので、すみません。あ、何で謝ったんだろ…えー、今回この役をいただきまして――」
舞台挨拶の文句も、質疑応答も、大まかな構成は決まっているので、タイムスケジュール通りに進む。午前中は取材があって出られなかったので、碧にとって今日の舞台挨拶はこの会場だけだ。そしてそれが終わると、以降はオフだった。
スタッフに案内されて、関係者用の通路から外に出る。仕事帰りの人でざわつき始めた歩道を一人で歩きながら、携帯電話を取り出す。仕事終わりに舛添にコールをしないと、本当に終わったことにはならないのだ。
携帯を開こうとして、チカチカとランプが点いているのに気付く。不在着信、五件。着信履歴を辿ってみたが、五件連続で、同じ人物からだった。留守電は四件で、たぶん、最初に掛けた時は残さなかったんだろう。
古いほうから順番に、再生する。
雑踏に紛れないよう、携帯電話をぴったりと耳に押しつけて。一件目。
『あー…また掛けるね』
二件目。
『碧?これ聞いたら、掛けて』
三件目。
『碧…出れねーの?また掛けます』
そして、四件目。
『碧――会いたい』
「正解…」
繋がっていない電話に、我慢できずに囁く。
やっと、言った。
今だと、タクシーより、電車?どっちも混んでるけど、タクシーにしよう。たぶん、今、とても変な顔をしているから。