1.
モニターから顔を上げた監督が、オッケー、と頷く。
「小田島さん、クランク・アップでーす」
ADが丸めた進行表を拡声器代わりにして、大声を張り上げた。
先導する彼の拍手に合わせて、周囲からも拍手が沸く。最後のシーンは自分一人の芝居だったので、拍手の中心に据えられているのも一人きりだ。碧は両手を揃えて、大きくお辞儀をした。
「お疲れ様でした」
向きを変えて、右、左、斜め後ろに、さらに何度か小さく頭を下げる。
隅ではスタッフの一人から主演女優に大きな包みが手渡され、主演女優から助演男優に、その包みが渡された。
「お疲れー」
「あ。ありがとうございます…」
どこを持ったらいいのか戸惑わせるフォルムのそれを、恐る恐る受け取る。予想しなかった硬さと重さに、思わずよろけた。
「え、何?」
「サボテンの鉢植えなんだ。碧君、花とか絶対枯らすでしょ。サボテンならほっといてもだいじょぶだから」
失笑する碧に笑い返して、彼女は自由になった両手を口の横に当てた。
「それと。あと一時間しかないけど、誕生日もおめでとー」
エコーを響かせるような、コミカルな仕草だ。祝いの言葉、また、拍手が湧く。
「あ、どうも、です」
碧はサボテンを抱いたまま、各方向に頭を下げた。
役柄上、最終回での出演シーンがほとんどないので、一足先に今日が碧のクランク・アップ日だった。放映はまだ数回残っているが、数少ないオリジナル・シナリオのドラマとしては悪くない視聴率らしい。レディース・コミック原作の、人気アイドルとCM最多出演の人気女優のラブコメには届かない数字だけど。みんな録画して観てんだよ、という冗談半分の負け惜しみが、この現場の合言葉だった。
「碧君って、蠍座なんだね」
「あー、だった、かな」
「うん、ぎりぎり蠍座。一日遅かったら射手座だよ」
「…そうなんですか?」
「ちょっと射手座っぽいかなあ。んー、やっぱり蠍っぽいかな、マイペースだし。あ、蠍座って情が深いんだって。そう?」
「わかんないって。女の人って好きですね、そうゆうの」
他愛もない会話をしながら、輪を抜ける。
「じゃ、また打ち上げで」
「打ち上げで」
他のキャストとも短い挨拶を済ませ、壁際で待機していた舛添と一緒にプロデューサーと監督にも挨拶をして、スタジオを出る。普段、撮影現場にはいない舛添だが、取材のある日とか、インやアップの日には同行するのだ。舛添が車を回すために駐車場に向かい、数分、入り口でぼんやり待つ。十一月も終わりに近く、夜にもなればかなりの冷え込みだ。しらくして近づいて来た車のヘッドライトに照らされて、一瞬、目が眩む。
真横に着けられた車の後部座席をまず開けて、鉢植えをエスコートし、碧自身は助手席に乗り込む。ドアが閉まるのを待って、車は発進した。
「お疲れさま」
「お疲れです」
二人だけで共有すると、このフレーズはまた少し意味を違える。彼女がマネジメントする俳優は今回の仕事で、クランク・インをすっぽかし、降板寸前で復帰して、なんとか無事にクランク・アップできたのだから。
舛添の運転する車は、夜の道路を快調に飛ばしていく。助手席の窓は鏡のように碧の顔を映し出すばかりで、流れる街並みはその向こうにぼんやり見て取れるだけだ。碧はため息を吐いて、シートに身体を沈めた。
「どうしたの、碧」
「ん?」
「やっと終わって、ほっとした?」
マネージャーが素早く察知してそう言うので、俯いて、告白する。
「うん…それもあるけど。誕生日、来ちゃったなと思って」
「誕生日は変えられないもの。でも、まだ高校生の役ならいけるでしょ」
「無理あるって。しかも、そうゆう意味じゃないから…」
さらに深くシートに寄りかかると、パーカーの背中がずり上がる。歳を取ったと落ち込んでいるわけではないのだ。役者としてとか関係なく、まだ幼いくらいの年齢だと思っている。ただ何にせよ――
「意味じゃなくても。ため息吐かないでちょうだい、私の前で」
ガクン、荒い発進に前のめりになりながら、碧は口の中でゴメンナサイと呟く。年齢の話題で、舛添の不興を買わないのは難しいんだった。
「ありがと」
「ゆっくり休みなさい。コールは一時間前でいい?」
「うん」
「じゃあね、おやすみ」
「おやすみなさい」
自宅マンションまで送ってもらい、サボテンと一緒にエレベーターに乗る。
部屋に戻り、何をするより先にシャワーを浴びることにする。びしょ濡れの頭にタオルを被った姿で、冷蔵庫の前へ。缶ビールを片手に、碧はサボテンの前にしゃがみ込んだ。スペースが余り過ぎていて却って配置を悩ませる部屋の、ど真ん中に置いてみた。飴色のフローリングと白い壁の無機質な空間に、有機的なグリーンの取り合わせが、見慣れなくて妙な気分だった。
カシ、プルタブを立てて、鼻先まで背丈のあるサボテンに呟く。
「ほっといても、だいじょぶ?」
なんて。棘棘を見つめて答えを待ったって、意味ないけど。また言葉が零れる。
「そろそろ帰って来てください」
夏の終わりを待たずに旅人になった写真家が、冬が始まっても、戻ってこない。
碧はサボテンではないので、放っておかれると、たとえばサボテン相手に独り言を喋るようになるのだ。
遠くで携帯電話が鳴っている。
どこに置いたっけ?重い体を動かして、ベッドから腕だけ出す。手の届く範囲に硬くて冷たい感触はないので、嫌々、ずり落ちるように這い出した。くしゅっ、前触れなくくしゃみが飛び出して、上半身裸だったことに気付く。シャワーを浴びてから、寝る支度をするまでの、中途半端な姿のまま寝てしまったらしい。毛布をマント代わりに巻きつけて、携帯電話を探す。くぐもった音…リュックの中からだ。
着信音は一旦途切れたが、またすぐに鳴り出す。
舛添からのコールだろう、一時間前にくれると言っていたから。時計も見ず、携帯電話のディスプレイも見ず、何一つ疑わずに寝惚けた声を上げた。
「…起きた」
『碧?』
予想してなかった。
鼓膜を大きく振動させる、少し遠い、かすれ気味のテノール。
「あ、うん」
『やっぱ、電話の声ってわかんないな。元気?』
「うん……」
『――って、そんだけかよ』
答えを待つ沈黙の後、拍子抜けしたような失笑。だって、ただ反射的に返事をするのが精一杯だもの。
『今、空港なんだけどね』
「どこの?日本の?」
『そりゃ、日本の。成田』
それを近いと感じるくらい距離に鈍感になっていたのは、彼のせいだ。無意識にその言葉が口をつく。
「行くよ…俺」
『来てもしょうがねーだろ。今からアオ拾って帰るから…昼過ぎにはうちにいる。碧、仕事は?』
訊ねられて慌てて時計を見ると、午前十時、七分くらい。
「午後イチで…撮影、雑誌の、けど」
永久がアパートに戻る頃には、碧の仕事が始まる。時間のめぐり合わせは最悪だった。いきなり中止にならないかな…神様の采配に縋りたい思いで携帯電話を握り締めると、慰めるように、永久が言った。
『急がないくていいよ。いるから、俺は』
「…うん」
プツリ。ツー、ツー、ツー。
繋がっていた電話が切れ、何故だか取り残された気がする。空港の雑音混じりに聞こえたテノールを、何度も脳内で再生する。待ち望む気持ちは、凪になるどころか前より強く波打っていた。
今日の撮影を担当するのは、高校生の時からの馴染みのカメラマンだ。カメラを構える職業として本来自分に馴染みがある人種は、この種の、モデルを撮るカメラマンだった。雑誌は違うのだが、碧がかつて専属モデルをしていたメンズファッション誌からのスタッフもいて、知り合いが多いと気が楽でいい。
「小田島君、誕生日おめでと」
「わ、ありがとうございます。何?」
この時期はどこに行ってもこう。撮影前に編集部から贈られたプレゼントは、お気に入りのブランドのブレスだった。
ファッション誌の仕事は、碧にとって慣れた仕事だ。力加減が判る、というか。何着か衣装を変えて、思うままにポージングする。インタビューと同時進行なので、時々は、ポージングより思考を優先させながら。
撮影は、予定時刻より早く終わった。
休憩スペースのスナックやコーヒーには手を出さず、リュックをひったくる。
「どうしたの、碧」
「急ぎ。あ、これ、買い取りで。舛添さんにまわしてください」
「いいよ、俺が買ってやる。たんじょーびだから」
「ははっ、じゃ、須藤さんで切っといて」
カメラマンの冗談に、上手く笑って返せたかわからない。
来月号の巻頭ページと同じ服を着たままスタジオを飛び出し、碧はタクシーを呼びとめた。詳しい番地を知らないので、目印になる店を過ぎてからは口頭でナビをする。裏路地に入る手前でタクシーを降り、足早にアパートを目指す。分厚いジャケットを着ているので、身体を動かしていると暑い。
狭い階段を昇り、ドアを開けるとすぐ、煙草の甘い臭いが鼻をかすめた。
ニャー、足元にすり寄ってくる黒猫を抱き上げ、
「アオ…久し振り」
彼女の頬にキスをする。
顔を上げると、部屋の奥で煙草を吹かしている人物と目が合った。
「永久。おかえりなさい」
光を湛えた目が、ゆっくり、細められる。
「ただいま――モデルみたい、碧」