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9.

 待受け画面から発信画面に切り替わったディスプレイが、夕刻よりは少し深い時刻の路地にぼうっと浮かび上がる。耳に当てた機体の向こうから、プッ、プッ、プッ、十一桁のうち三桁ほどのプッシュ音を確認しただけで、終話ボタンを押す。
 日が落ちて何度か下がったとは言え、過ごしやすいとは言えない七月上旬の外気温だ。首の後ろに薄っすら汗をかいているような気がして手のひらで拭ってみても、気のせいだったらしい、肌は乾いたままだった。
 もう一度着信履歴から目的の人名を探して、かけなおす。けれど今度も十一桁ぶんのプッシュ音を聴き終えることができず、耳から放した携帯電話を半分に折り畳んだ。
 ふうう、大きく息を吐いて、緊張をやり過ごす。両手にすっぽり収まるサイズの機体を軽く握り締めてから、開いた。同じ手順を繰り返して、今度こそコール音へ変わるまでを聴く。あと一コール待たされたら切っていたかもしれない、そんな慧斗を見透かしたようなタイミングで、
『はい』
 素っ気ない応答が右耳の鼓膜を振るわせた。
 きゅう、貧血の立ちくらみに似た感覚に、思わず目を瞑る。
「俺、だけど」
『誰?』
 最初の音程を少し外した慧斗を、意地悪い声音が揶揄う。自分の名前を自分で口にするの、ほんとは苦手だ。
「……慧斗。あのさ、今から行っていい?」
『あー、俺出かけるとこだから、そっちまで迎えに行ってやるよ。お前、今どこいんの』
「……下」
『下?』
「先輩んちの」
 顎を反らして薄っすら明かりの漏れる窓のひとつを見上げると、ははっ、愉快そうな笑い声が弾けた。
『先に言え』

 

 金曜の夜だから、出かけるとこ、というのが嘘でなくてもおかしくない。
 サンダル、ヴィンテージのジーンズ、お気に入りの輸入古着屋で買ったのだろうTシャツ。太めのリングがチャームになったネックレスと、蹄鉄みたいなピアスのブランド名も、正確に言い当てることができる。
 野性的で貴族的、今夜も最高にかっこいい。
 開いたドアに寄りかかる信広が、うっとりと目を細める。
「俺の勝ち」
 性質の悪い男だ。どれだけ意地を張っても先に折れるのは慧斗だと、経験と感覚で知っている男。そうじゃない、と首を横に振ってやると、少しだけ怪訝そうな顔をした。
「ま、いいや。入んなよ」
 顎でしゃくられるままに、部屋に入る。
 壁側に置かれた、大きなオーディオセット。収納の意味は大してなさそうな棚や、デザインの凝った照明器具が所々に配置されていて、いつ来ても写真の中に迷い込んでしまった気分に見舞われる部屋だ。
 あまり帰らないからか、定期的にルームクリーニングを入れているからか、無機的な空間はどこか潔癖でもある。けれど慧斗がここを訪れる目的も、信広が慧斗をここに呼ぶ目的も、どちらもたいていは潔癖さと関係のないものだった。
「お前、これからバイト?」
「ううん……今、昼間に入ってる」
「なんだ、もう上がったの?」
「……うん」
「言えよ。しょうがねえなあお前は」
 くくく、喉の奥で笑った信広の手のひらが、片頬に添えられる。
「これから呑み行くけど、お前も行く?」
「いい」
「行こうぜ。とりあえず、座ったら」
「いいよ、すぐ帰るし…」
「なんで、もっと早く来なかったの?」
 慧斗の言葉は、半分くらいしか届かない。逞しい腕に引き寄せられて、ゆっくり抱きしめられる。強い香りを嫌う男の胸に、控えめな芳香を嗅いだ。
「ケイト……」
 慈しむように背中を撫でられて、気を失いそうになる――こういう時、この男はとても優しい。
「ケイト?」
 吐息混じりに繰り返し名前を呼ばれて、背中の愛撫が力強くなる。いつもの光景がリプレイされる様子を、予測するのは簡単だ。多少の意志なら崩れてしまうだけの効力があることは、今までの経験からじゅうぶん判っている。
「出かけるんじゃないの……」
「ケイト、抱いてから」
 耳元で囁かれる極上の言葉から、慧斗は身を捩って逃れた。
「俺、もうこういうのしないから…」
「なに?」
 乗り気でない様子に、信広が不興気に鼻を鳴らす。慧斗は堅い胸を両手で押し返して、信広から距離を取った。
「終わりにしようよ、ノブヒロさん」
「なにを?」
「付き合うのを……俺達って、付き合ってたよね?」
「当たり前だろ、何言ってんの」
 右手で、何かを後ろへ放るようなモーションを取りながら笑う。欧米人のような所作も、この男にはそう不似合いではない。鋭い二重目蓋の奥、瞳を見返して、慧斗はもう一度告げた。
「付き合うの、やめにしようよ」
 けれど信広はまともに取り合わず、どかりとソファーに座る。両脚を開いて胸を反らす、王様みたいな座り方だ。
「なーあ、まだご機嫌斜めなの?」
 鷹揚に首を傾げて尋ねる男に、どうやったら伝わるのかと一瞬考えてから口を開く。
「俺もう、そういうの感じない」
「もう、ってなんだよ」
「俺以外の人とふつうに付き合われたり、見世物みたいにどっか連れてかれたりすんの、やだ。先輩みたいに勝手な人、やだって言ってんの」
 両手の親指を左右のポケットに引っ掛けて、床に向かって吐き捨てる。慧斗を下から覗き込むように見上げた信広は、面倒くさそうにため息を吐いた。
「どうしたらいいの、お前以外の全員と、今ここで切れたらいいの?」
「全員とか言って、数えられないんだね」
 多情な男の言葉は、慧斗を宥めるのには役立たない。
「やっぱ最低じゃん、先輩」
 いつものように、先輩って呼ぶな、という注意は受けない。やはり面倒くさそうに、それから少し慧斗を持て余したように、信広が自分の鬣に指を入れて掻き回す。
「……なんで。今までなんにも言わなかったのに」
「言わない俺が悪いのかよ」
「ケイト」
「やめないくせに」
「おい」
「言ったってやめないくせに」
「ケーイト」
 造りのはっきりした顔立ちに、笑い皺が刻まれる。まだ慧斗が癇癪を起こしているとしか考えていないのだろう、声音と表情の両方が苦笑を寄越す。
 慧斗は一歩後ずさり、その思い違いを否定した。
「好きなひとができた」
 逞しい身体が身じろぎをやめ、坐像になる。
「……誰?」
「先輩の知らないひと」
 即答に、
「ああ、あいつね」
 信広が一瞬で理解の色をひらめかせる。そう決めつけられるのをいくら否定しても、この勘の良い男は信じないだろう。
「で?お前はさ、俺のだぜ?」
「だった、だろ」
 末尾を訂正する慧斗に、にやり、信広が唇の端を歪める。
「へえ、俺のお下がりでいいって、あいつ言ったんだ」
 幼稚な挑発に、慧斗は白けた思いで返した。
「俺、そんなことで怒んないよ」
「……は、つまんねえやつ」
 心変わりした恋人を冷たく笑い飛ばした信広が、急に、興味を失った体で天井を仰ぐ。羽虫でも払うような手振りで退出を促されるのに、慧斗は黙って従った。

 

 広い玄関に揃えもせず脱ぎ散らかしていたスニーカーに、片方ずつ足を突っ込む。
「合鍵、てきとうに捨てて…」
 冷たいドアノブを掴みながら一旦振り返ると、ジャラジャラと何本も鍵をぶら下げた、誰かからのもらい物だろう、本人の趣味とは思えないバーバリーのキーケースがいきなり眼前に迫る。
「!」
 予告なしに投げて寄越された鍵束を咄嗟にキャッチすることはできず、顔を庇うためにかざした手の甲の、一部に鋭い痛みが走った。
「……っ」
 奥歯を噛んで耐える慧斗に向かって、ソファー上の王様が命令口調で言う。
「取ってきな、そん中にあるから」
 言われるまま床に落ちたそれを拾い上げても、鍵の形はどれも良く似ていて、日頃気にしたこともない自分の鍵は見分けなんてつかない。
「一番右だろ」
 侮蔑のこもった短い言葉の意外な内容に、思わず信広を見返す。男らしい顔は、予想を裏切ってとても真摯だった。
「なあ」
 なに、と答えてしまいそうになるのを堪える。
「やめとけよ。マイセンなんて似合わねえ」
 あの時、慧斗に心ないキスをするくらいなら、なぜそう言わなかったんだろうと思う。
 だけど今は、自覚しているんだ。喧嘩にもならない喧嘩をして、仲直りにもならない仲直りをする、ループし続ける噛み合わない関係から抜け出るタイミングをずっと欲しがってたことを。
 一番右の金具から、他の金具と違ってそれひとつしか掛けられていない鍵を外す。
「さよなら、今までありがと」
 ドラマでだって使われない、センスのない台詞。
 閉めたドアの向こうから、何がどうなったのかは想像するしかない不協和音を漏れ聴いた。

 

 原付はアパートに置いてやって来たので、帰りも当然歩きになる。ゆっくり歩いて三十分くらい、散歩にはちょうどいい距離だ。
 携帯電話の時計で、午後七時三分を確認する。もう出勤してしまっただろうか。職業柄というにはあまりに無頓着な、運転中でも平気で電話に出るひとのことを思う。
 慧斗は尻ポケットから、潰れたソフトケースを取り出す。
 いつもだったら絶対にしないマナー違反を、今日だけ許して欲しい。
 咥えた煙草に点火しながら大きく吸い込むと、乾のにおいとニコチンの、二重の幸福が身体を満たす。
 素晴らしい幻覚作用に、少し、足がもつれた。

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