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8.

 エンジンがかかるのと同時に鳴り出したカーステレオのスイッチを、持ち主が迷いのない動作でオフにする。一瞬聴いた楽曲は、最近日本盤が出たばかりのロックバンドのアルバム表題曲で、慧斗もちょうど一ヶ月くらい前、この特に好きな一トラックだけをリピートして聴いていた。UKロック、好きなのかな。
「どっかで飯食う?」
「……すぐ戻んないとなんで」
「そっか残念。今度行こう」
 さらりと未来を約束した男が、流れに乗って左にハンドルを切る。可動する密室に居心地の悪さを感じて、慧斗は気付かれないようにと思いながら倒れ気味のシートを起こした。
「落ちつかない?」
 すぐに運転手の知るところとなってしまい、いえ、口の中で不明瞭に返す。彼が単純にシートの角度のことを訊いたのか、それとも慧斗の心情を察したのか、遅れて疑問に感じる。答えてしまってからいつもこうやってコミュニケーションの不成立に気付くのだと情けなく思いながら、慣れない感触のシートに凭れた。それから横目で右隣を見上げると、慧斗の視線を受けた乾が大きな口元をほころばせる。
「あいつ」
「?」
「フタミって名前なんだ。数字のニに、見る、で二見。二個上の先輩なんだけど、妙に縁のある人でさ。前の前、のとこでも一緒で、そん時もよくつるんでた。時々店に来てたでしょう」
「あ、はい……」
「あれ、俺の指令。安心した?」
「……あの」
 最後のフレーズに補足を求めて口を開きかけた慧斗から、視線を反らすようなタイミングで乾がサイドミラーに目を走らせる。追求のきっかけを失って、慧斗は鎖骨に当たるシートベルトを一度、引っ張った。
「あの、風邪治ったんすか……」
「うん。おかげさまで三日で完治した。もっと早く来たかったんだけど、そっからずっと現場でさあ。時間合わない合わない。なんかの陰謀か、と」
「……はあ」
「大人の事情で、営業職から現場に移ることになったんだ。映るっつーか戻るっつーか。ばりばりの営業と違って、俺、元々技術系だし。前から段階的に研修受けてるんだけど、やっぱ現場は気楽だわ、俺の畑ってかんじで…あ、興味ない?」
「や、そんなこと…」
 無口な聞き手を揶揄うような口調に、どう弁解しようかと言葉を探す。しばらくそれに付き合って黙っていた乾が、カチ、ウィンカーを出しながら、天気の話でもするみたいにのんびりと言った。
「中村くん、俺のこと好き?」
 ぐん、遠心力に従って、身体がぶれる。
 慧斗は絶望的な気分で顔を覆った。
「……謝らなきゃいけないって、思ってて」
 なんとか絞り出した自分の声は、少し震えている。
「うん?」
「嫌な思いをさせたと思うから」
「ん?」
 この饒舌な男を、絶句させた時のことを思い出す。見開かれた黒い瞳は、あの一瞬、鏡かガラスみたいに慧斗の顔を反射するだけの機能しか持たなかったと思う。
「乾さんだって、俺に男の恋人がいるって知ってるじゃないですか……つきあってるの意味、ちゃんと、深い意味です。俺みたいのから冗談だってあんなことされたら、普通のひとは気味悪がるし、考えなくていいことだって考えちゃうでしょう……だから、謝らなきゃって」
「ほんとに?」
 謝罪のための前置きが、途中で遮られる。
「謝ることを、考えてた?」
「どういう意味ですか……」
 尻すぼみに弱まる声と反比例するように、頬が熱くなる――やっぱり気付かれてるんだ。俺のこと好き?余計な修飾の一切ないセンテンスは、質問というよりは確認の要素をより多く持つのに違いなかった。
 苦し紛れの反問に、乾は小さく笑うだけで答えない。
「乾さん俺は」
「俺は、どうやったらもういっかいきみとキスできるか考えてた」
 慧斗の語尾を引き取るように、お手本のようなイントネーションのせりふが重なる。
 柔らかくて少し気の抜けた声を持つひとが喋るのは、難解な言語ではない。よく知った日本語の明快な文法はけれど、慧斗からすべての音声言語を奪うのにじゅうぶんだった。
「あのさ中村くん。残業なんつっても、連日そんなに遅くなることないって知ってる?仕事なんてほとんど片付いてんのに、わざわざ九時始まりのシフトに合わせて会社で時間潰してるやつがいるなんて、きみは、思わないんだよね」
 気分よく酔っ払った時の感覚に似ていると、穏やかな述懐を聴きながらぼんやり考える。音はちゃんと聞こえているのに、意味だけが置き去りにされて届いてこない感覚だ。
「喋り方素っ気ないし、あんまり笑わないけど、魅力あると思った。もう、絶対笑わせてやろうと思って色々ちょっかいけるんだけど、空転して、考え込まれんの……落ち込んでさあ。雰囲気持ってて、周りからちょっと浮いてるっていうか、沈んでるっていうか。大雑把だけどやっぱ、魅力的っていうのが一番正しい」
 唇の開閉に合わせて動いていたシンプルなラインの頬が、一旦停止する。
「俺が喋ってんの、きみのことだよ?」
 今にも笑い出しそうな声が車内の空気を振るわせ、
「別れちゃいな、彼と」
 大きな左手が慧斗の頭に置かれた。
 今まで、これほど甘美な命令を受けたことがあったろうか。頭を撫でるでも髪を梳くでもなく、ただ包むように触れる手のひらの感触にうっとりと目を瞑り、薄く開けた唇から息を吸う。この心ときめかせる命令に怖れず服従できたら、どんなに素晴らしいだろう。慧斗は心地よい人肌から、ゆっくりと頭を振って逃れた。
「……そんな、単純なことじゃないんです」
 空中に浮いた乾の左手は一度空気を握って解放すると、また、元通りステアリングに添えられる。
「まあ、深そうではあったな。でも幸せそうではなかった」
 憐れむトーンではない。いつもの取り澄ました口調に、見たままの事実を言っているだけなのだろうと判る。否定と肯定を同時に味わう、奇妙な気分だ。
 じわりと浮かびそうになる涙を目瞬きでごまかして、慧斗はステアリングを操作する手を睨みつけた。
「だって俺は、知ってるから……」
「うん?」
「せつな的に、瞬間、瞬間、をつなげてくのは辛いし、すごく虚しい。幸せに感じた時のことだけを必死で憶えていようとしても、どっかでバグが出るんです。一目ぼれなんてすぐに冷めて……あなたは俺に飽きて、片手間に付き合うようになるかもしれない。俺だけが取り残されるんだ」
「うん?」
「そうやって笑ってるけど、あなたがせんぱ……ノブヒロさんと同じことを俺にしないって、どうしたら判るんですか?俺みたいなのとつきあうのなんて簡単だって、思ってるんでしょう?試してみるにはちょうどいいとか、後腐れなさそうとか、どうせ、そんなとこに決まってる」
 言葉を重ねるたびに語調が荒くなるのを、抑えられない。想像で傷つき、憤る。そんな一方的な非難に黙って甘んじていたひとは、慧斗が口を噤んだのをコンマではなくピリオドと理解したらしい、やんわりと頷いた。
「いっぱい喋ったね」
「聞き流さないでください……」
「恋愛不信の原因は、彼かな」
 彼、三人称単数の代名詞に背筋を強張らせる慧斗に、
「いっこずつそれを解消していく作業は、俺にとって煩わしいものじゃない」
 乾は鼻歌でも歌うような調子で言う。
「試してみませんか?」
「だって……」
「なにが一番不安?俺が男の子と付き合ったことないってこと?いい加減そうってこと?俺の態度は、不誠実?」
 慧斗を真似るように質問を重ねてくる相手に、その都度思いきり首を横に振る。真剣な話をしているのじゃなかったんだろうか、乾は楽しそうに喉の奥で笑うのをやめなかった。
「じゃあなに?」
「……乾さんが」
「うん」
「乾さんは俺のこと、ほんとに好きになれますか」
「もうなってるって」
「妥協したくないんです、俺ほんとはすごいめんどくさいやつだから……軽い気持ちで近づいて、後悔するのはあなただ」

 

 あと数キロ下れば海へ出る、広い川幅に掛かる橋。
 がくん、それを渡るより前に脇へ反れて急停車した理由は、すぐに知ることになる。シートベルトを外した運転手が、上半身を傾けて慧斗を覗き込んできた。
「……軽い気持ちで、なんだって?」
「え?」
 不自然に陰る目の前いっぱいに、素っ気ない造作の顔が迫る。
 猜疑的な態度に腹を立てたのだろうか、一瞬の不安を、細められた目元が否定した。
「夢にまで見た距離だ」
「あの」
「ほんとだっての、罪作りなことしてくれて」
 どうやったらもう一度、キスできるか。彼の言葉を思い出す。口を開けば本意の判りづらいことばかり言うこの男の前言は、果たしてどこまでが真実だったのだろうか。その答えは、今のふたりの距離そのものだろう。乾が慧斗をシートごと抱くような恰好で、広めの額を合わせてくる。夜勤明けの肌は、ほんの少しだけべたついていた。
「きみは、好きでもないやつにキスできるひと?」
 ホールドされているから、不本意な問いかけには、目玉を左右にきょろきょろさせることで否定するしかない。それを正確に理解してくれた人は、眩しそうに目を眇めた。
「俺も」
「……乾さ」
「火を付けたのはきみだよ」
「でも」
 額と、鼻先が合わさるのに、たまらなくなって目を伏せる。過敏になった皮膚が、空気振動の少ない柔らかな周波数に震えた。
「逃げないで……好きって言ってごらん、ほら」
 ほら、茶化すようにもう一度急かされて、ごくりと喉を鳴らす。
「…………すき」
 ニ音のフレーズは0.1秒の余韻も持たずに、食われて消えた。
 ファースト・キスで慧斗がそうしたように乾いた表面どうしを触れ合わせて、今度はちょっとずつ口を開いていく。生温かくて柔らかい粘膜を舌先で左から右に撫でながら、おそるおそる両手を持ち上げる。気配を察した乾が、慧斗の手を左右一本ずつ丁寧に自分の肩へ導いてくれるのに嬉しくなって、思いきり彼の頭を引き寄せた。
「好きです、好き」
 ちゅっ、下唇を吸って、ちゅっ、上唇を吸い、それから内側をびったり合わせて舌を絡める。あとは夢中で吸引を繰り返すだけだった。息と、唾液と、時々は酸素を。
「……ん……ふ…………んふぅっ」
 静かな車内がだんだん、喘ぎ混じりの鼻息で満たされていく。
 呑み込みきれない唾液が外に伝うのが許せずに鼻と喉を鳴らしてすすると、タールの混じった不味い液体は、始めてなのに、良く知った味がした。

 

 気の済むまで吸い合って、やがて、
「ふ…」
 磁石のN極とS極みたにくっついていた唇をお互いの意志でゆっくり離す。寸前の一瞬に、強く、マイルドセブンの香りが立つ。
「別れちゃいなさい、な?」
 うん、と頷いた慧斗の頬に湿った唇が短く当たり、それから、温かい息が耳に吹き込まれる。
「ねえ」
「あ、はい?」
「ところでここ、どこ?」
 地理に不慣れな運転手は、やっぱり楽しそうに笑って言った。

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