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7.

 土砂降りを最後に梅雨明けへ向かうかと思われた天気は、次の季節に気移りするのを許さずに、六月の最終週でラスト・スパートをかけ始めた。梅雨明け間近になって未練がましく、朝な夕な、しとしと雨が降っている。
 子供の頃、雨雲の中にはたくさんの雨が貯まっていて、それがシャワーみたいに地上に降って来るのだと思っていた。雲そのものが氷の塊だと知った今でもなんとなく、雨雲を絞ったら水が出てくるイメージが消えない。
 好きか嫌いか訊かれるまで、雨が好きだなんて思ったことなかった。
 慧斗にそれを尋ねたひとはたとえ答えがノーであっても、そんなかんじ、と言って笑ったのだと思う。
 連日の雨に客足の遠のく夜のコンビニ。常連客のひとりが、ある時からぱったりやって来なくなったのに気付いているのは、その原因を作った自分だけだろう。風邪で寝込んだ日数を、長く見積もって一週間とする。そこから数えて正確に三日、乾はやって来ない。
 常連客をひとり失った理由を想像して、いつも失敗する。彼が自分に抱いたであろう感情に適当な名前を付けようとするたびに、心臓にちょっとずつ擦過傷が増えていくような錯覚を味わうのだ。
「くださいな」
 な、の語尾が弾むのと同時に、青い缶コーヒー置かれる。
「……いらっしゃいませ」
 スキャナーを取り上げながら目を上げると、同じ程度の高さにある大きな目と目が合って、慧斗は気まずく目を伏せた。
 目の前の人が、人懐っこく笑うのが気配だけ判る。
「元気?」
「あ、はい……」
「ほんと?」
「元気ですよ」
 しつこく質されるのに、困惑しながら頷く。
「そっか」
 慧斗の答えに満足したように微笑むこの人の名前は、知らない。
 乾のことをユーヒくん、と親しそうに呼んでいた人が、ここのところの準常連だ。やっぱり残業帰りなのだろう、午後九時を少し回ったくらいでやって来る人が――これはたとえばの想像だけれど、たとえば乾に頼まれて慧斗の様子を見に来ているのだとしたら、それは乾の優しさと同時に、これ以上は優しくできないのだという拒絶のメッセージなんじゃないかと思う。それに、もしかしたらそれ以上に残酷な展開もあるかもしれない。だって、明るい色の癖っ毛がよく似合う人が小首を傾げる動作は、慧斗から見てもじゅうぶん魅力的なのだから。
 根拠のない当て推量が浮かんでは消え、点滅を繰り返すけれど、びっしり生えた上下の睫毛を瞬かせている人の真意が友情なのか、恋情なのか、それとも真意なんてないのか訊けるだけの勇気は持ち合わせていなかった。
 彼が、乾がそうしたように百円くらいの品物を持ってレジにやってくる度に、伝言形式の言葉はないかと身構えてしまう。
「バイバイ」
 今夜も彼は、缶コーヒーを持たない方の手を軽く振りながら、店を出て行ってしまった。

 

 勤怠画面に出た「退社時刻 八時四分」にOKボタンを押して、スキャナで読んだ名札の位置を整える。さて帰ろう、と大欠伸をしながら椅子から立ち上がるタイミングを見計ったように、
「ケイト」
 呼びかけられる。慌てて欠伸を噛み殺すと、オーナーが人の悪い顔つきで笑った。
「……あ、はい?」
「ケイトさ、明日からしばらく昼間入れない?」
「昼間、すか」
「どう」
「別に、いいですけど」
「助かる。ニ号店がちょっとめんどくさいことになってさあ。深夜はタイスケにやらすから、昼間頼むわ」
「了解です」
 変更された出社時刻を忘れないように、壁掛けのカレンダーで日付を確認する
 店のタイプにはオーナー店とチェーン店の二つがあって、本社で直接雇われたいわゆる雇われ店長がいるのがチェーン店で、慧斗の働くこの店のようにオーナー自身が経営しているのがオーナー店だ。ここのほかにもう店舗を構える有限会社の社長である彼は、一つの店にかかりきりになれない身の上だった。
 深夜のバイトのうち一人は昼間の仕事と掛け持ちだし、もう一人は大学生だから、どうしてもの時に代わりに入る役割は自分に回ってくる。
 くあ、噛み切れなかった欠伸を漏らす慧斗の頭を、結婚指輪を嵌めた左手が小突く。
「とっとと帰って寝ろー」
「……お疲れっす」
 語尾にまた欠伸がかぶり、失笑に送られながら事務所を出た。
 季節に関係なく、小雨程度ならバイクで通勤することにしている。勤務中いくら大雨だろうとも、帰る時に止んでさえいれば構わないから。
 駐輪場の一ヶ所だけへこんだ場所の水溜りが、数時間前までの降雨を知らせている。シートの下からヘルメットと雑巾を出して、乾ききっていない部分を雑巾で拭く。跨ったシートの上で尻の位置を座りいいように何度か変えてから、スロットルをいっぱいに捻った。

 鍵一本で開くオートロック機能なんてないドアが、安っぽい開錠の音を立てて開く。部屋とバイクの二つの鍵をつけたキーケースを放り投げて、閉めきっていた窓を全開にする。下の道路を走る車の排気音を遠くに聴きながら、そのままベッドにどさりと腰掛けると、白っぽい機体が反動で飛び跳ねた。
 持ち歩かずに放置しておいた携帯電話は、いつの間にか電池切れで電源が落ちている。コンセントに挿しっぱなしの充電器のコードがだらりと伸びているのに知らないふりをして、寝転がったまま手の届く位置に置いてある一枚のCDを取り上げた。
 ゴシック色の強い、茶色っぽい表紙だ。
 鼓膜に貼りついて離れない、安っぽいポータブルラジオのような音色のロック・チューン。この中に、あの曲が収まっている。歌詞カードを読む習慣がないので、買ってから一年以上経った最近になって、始めて中身を開いた。慧斗には聞き取れない英語でヴォーカルがどんなことを歌っているのか、彼は知っているだろうか。
 トラック7の、Predictable。辞書のまま直訳すると、予測できる、という意味だった。
 お気に入りの曲はコンポーザーで再生しなくても、ストリングスのアレンジまで口ずさめる。繰り返す愛の終焉だなんて、いかにもドラマティックなテーマの一曲。恋人が去って行くこともそれに深く傷つくことも、全て判っていたのに、また受け入れて傷つくのだと主人公は悲痛に嘆く。そんな絶望的な歌詞に、一度は付き合っていたのだから歌物語の主人公のほうが少しは増しだろうと、つまらないことを考えた。
 寝転がったまま煙草を手繰り寄せ、一本を咥えて火を点ける。
 ――それは予測できたことだったんだ、それは予測できたことだったんだ。
 サビで繰り返し使用されるフレーズだけ、今になって暗示的に感じる。ふう、黙読していた歌詞カードに思いきり煙を吹きかけると、文字数なんて関係ない字余りの日本語詞が、曇って見えなくなった。  

 

 暇を持て余す時間の多い深夜と違い、昼間のコンビニは客が途切れることがない。
 昼食を買い求めてずらりと並ぶ客をこなすうちにだんだん無意識になっていき、気付くと午後二時を回っている、なんてトリップを味わえるのも昼間ならではだろう。
 深夜ならば一人一人がオールマイティーに仕事をしなければならないが、人手の多い昼シフトのメンバー内では仕事内容がほとんど固定されている。オーナーと同じように事務作業ができるのは慧斗だけという環境に、久し振りに多忙という単語を思い出していたせいで、知らないうちに梅雨が明けていた。
「中村くん煙草変えたよね、前セッターだったでしょ。それだと軽くない?」
 休憩中、慧斗にそう指摘して驚かせたのは、二十代後半のベテラン女性店員だ。彼女が咥えたセーラムに火を点けるのを見ながら、唇に中途半端に貼りつけたままの煙草を一旦取り外す。
「…なんで知ってんの?」
「なんでもチェックしているのさ、お姉さんは」
「なんすかそれ……」
「昼勤組のアイドルだからねー、中村くんは。めったに入ってくれないし、オーナーに感謝なの。今度女メンバーの呑み会来る?いじってあげるよ」
「……勘弁して」
 あはは、上がった声から逃げるように事務所を出て以来、煙草休憩は店の外で取ることに決めた。

 

 ガコン、自動ドアが開く音に、目線は上げずに声だけで応える。
「いらっしゃいませー……」
「わ」
 素っ頓狂な声に反射的に顔を上げると、
「えっ、なんでいんの?」
 思いきり指を差されていることに気付いた。
「……なんでって」
 口篭もる慧斗に、明るい癖っ毛の人は大げさに言う。
「こないだ行ったらいないから、休んでんのかと思っちゃったよ」
「あー……今、臨時で朝から入ってるんで」
「そっか、そっか」
 説明不足だったのだろうか、慧斗の言葉に少し考え込むように沈黙した彼は、なぜか感心したようにそっかと二度繰り返して、品物を持たない両手を胸の前でホールドアップした。
「えーと、また来るね」
 そしてそのまま、何も買わずに店を出て行ってしまう。
 午前十一時五十分。昼食を買いにきたのか、飲み物を買いに来たのか、何か用はなかったのかと少し気にかかる。調理スペースでフライドポテトの袋を開けていた女性店員が、不思議そうに訊いてきた。
「中村さん、今の人知り合いですか?」
「……名前知らないけど、夜、たまに来る人」
「お客さんにすぐ、顔憶えられそうですよねえ」
「誰が?」
「中村さんが」
 うふふ、と笑われて、表情に困る。
「あー、ちょっと、煙草いいかな」
「はあい、どうぞ」
 本格的に混み始めるのは正午の時報が鳴ってからだから、まだほんの少し余裕がある。隙あらば燃料補給しようと外に出るニコチン中毒者の背中を、複数の忍び笑いが押し出した。
 夏を感じさせる強い日差しに、思わず目を細める。今はまだかすかに聞こえる程度の蝉の鳴き声も、あと半月もすれば、気が狂いそうな音量になるだろう。
 脇に停めた原付に隠れるように立って、ポケットの中でくしゃくしゃに潰れた中身の少ないケースを取り出す。今まで吸っていたのに比べたら確かに軽い、マイルドセブンのライトに火を点けた。

 

 今日は客の出足が遅いなと、歩道の左右を見ながらぼんやり吹かしていると、駐車場に一台の車が滑り込んでくる。ごつめのアメリカ車を見慣れた目にはコンパクトでスリムに映る、青い車体だ。一度の切り返しですんなり駐車する様子を気付かれないようにタイヤの動きだけ観察して、慧斗はドライバーの手さばきに合格点を付けた。
 運転席側のドアが開くのに仕方なく、ニコチンへの未練を捨てる。客より先に店に戻ろうと一歩を踏み出して、動けなくなった。
 白地に緑色の小さなグラフィックがプリントされたTシャツと、浅い色のジーンズ。長身の男が、開いた携帯電話を耳に当てながら、苦笑気味にこちらを見ていた。
「はい、乾です」
 名乗らなくたって知ってるよ、と、穏やかな目を見返しながらぼんやり思う。
「……えーと、フタミさんのノーパソの上にないかな、俺置いてったんだけど……あった?はいはい、お疲れ」
 パタン、車と同じメタリック・ブルーの携帯電話を閉じて、乾は可笑しそうに口の端を弛めた。
「タイミング悪いなあ。ね」
「なんで」
「ん?」
 なんで、と理由を訊きたいことがいくつか浮かぶ。
「なんで、私服なんですか」
 中でも一番どうでもいいことが最初に口を付いて、ははっ、すっきりした造りの顔が破顔した。
「中村くんはなんで?この時間?」
「……あ、ここんとこ、臨時で」
「あーうん、そうらしいよね」
「……は?」
「あのね」
 いつも通り、子供っぽいと言うよりは、子供に話しかけるときのような喋り方だ。
 想定していたのと違う、リベラルぶって親しげにするわけでもなく、気味悪がるわけでもなく、深刻さのない飄々とした態度がなにより慧斗を戸惑わせる。
「先週からずっと、現場入ってました。ましたっていうか、今もそうなんだけど」
 どうせ作業服着るから、と、生地の厚そうなTシャツの襟元を引っ張る。
「現場……」
「営業クビになっちゃった」
「えっ」
「あ、ごめんうそ、研修みたいなもん。夜勤だとさ、中村くんのシフトと思いっきりかぶるじゃん?」
 同意を求められても、はあ、と気の抜けた答えしか返せない。冷静だったらせめて「知りませんよ」くらいは返せたかもしれないと、数秒送れて思う。
 まともに口の利けない慧斗をどう思ったろうか、乾が短い前髪を二、三度指で払った。
「休憩中?」
「や、これ一本吸うだけです、けど」
 吸いさしの煙草からこぼれる細かい灰が、微風にさらわれている。
「じゃあ、それ一時間くらいかけて吸ってくれるかな」
「はい?」
「きみを」
 言いかけて、ちらりと笑う。
「じゃない。きみの時間を少し、くれませんか?」
 すらりと長い、節の目立たない指が降りたばかりの車を指差すのと同時に、正午の鐘が鳴った。

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