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5.

 今年は紫陽花も、あんまり咲かないかな。原付を走らせながら横目で民家の植え込みを見ながらそんなふうに思ったのは、ついこの間だ。土壌のph値で花弁の色を変えるその花が特に好きという訳ではなく、時々思い出したようにしか雨の降らない六月に、ぼんやり空梅雨を予感してそう考えたのだけれど。
 カチ、カチ、カチ、小さな稼働音を立ててフロントガラスを行き来するワイパーもむなしく、水槽の中を走っているような視界。西から徐々に東へ進む梅雨前線は弱まることなく、昼過ぎから降り出した雨は、夕方近くには土砂降りになっていた。
「なんだよこの雨……」
 ステアリングをじれったそうに何度か叩いて、信広がうめく。信号待ちであまり長く停まっていると、車体が水に浸かってしまいそうな気がする。せっかく戻って来た愛車を見舞う不運も、彼の苛立ちの一因かもしれない。
「なーあ、このままどっか行っちまうか」
「適当なとこで降ろしてくれていいよ」
 半袖から出た腕が冷え切るのに耐えられず、エアコンの風をあさっての方向に向ける慧斗に、前方の赤信号を鬱陶しげに睨みつけていた運転手が失笑する。
「ここまで来させといて、その言い種かよ」
「だって……」
「ケイトさあ、いちいち間に受けてんじゃねえの」
 歩いて行くからという慧斗を強引に車に乗せた男が、いちいち不当な非難を浴びせるのに、だって、と口の中で繰り返して視界ゼロの窓の外を見た。

 

 豪雨と、それに伴う複合的な道路状況の悪化により、ずいぶん時間をかけて勤め先の客用駐車場に滑り込む。
「ありがと」
 ダッシュボードの上に置いておいた携帯電話を尻ポケットに捻じ込みながらドアを開き、土砂降りの中を自動ドアまで走る。キュウ、スニーカーの靴底を鳴らして店内に入ると、真後ろで同じようにスニーカーのゴム底が鳴った。
「……なんか、用あんの?」
 振り返ってまだ店員モードになる前の口調で尋ねるのに、信広は雨粒に濡れた肩を竦める。
「用がなきゃ入っちゃいけないの、ここの店は」
「そうじゃないけど……」
「けど?」
「珍しいと思っただけ」
 それだけ言って、慧斗はバックルームへ急いだ。運転手のせいにするのはあまりに恩知らずとは言え、車を降りる直前に確認した一分早い携帯電話の時計は20:59になっていたのだから。
 更衣室のロッカーは一人に一つ割り当てられているわけではなく、二つ並んだよくある型の業務用ロッカーに全員分のユニホームがぶら下がっている。慧斗が必ず使うのは左側で、三本目のハンガーで発見したユニホームを右腕から通しながらバックルームを出た。
 途中横をすり抜けた慧斗に、信広が好奇の目線を寄越したかもしれない。
「ケイトおはよ」
「はよ」
「急げよー」
「うん」
 半笑いの同僚に急かされて、パソコンに打ち出した勤怠画面の入り時間はジャスト、九時だった。
 そして、
「ひどい雨だねえ」
 マイペースな節回しを聴いたのも、ジャスト九時。
「ですね、だいじょぶでしたかここまで」
 慧斗がまだレジに出ていなかったため、人見知りのない同僚が代わりに返事をする――代わりに、だなんて一方的な思い入れでしかないけれど。事務所から顔を出しながら、少し卑怯な手口で役割交替を画策する。
「タイスケさんジュースの検品、頼んでいい?品出しは俺やるから」
「ん、品出しまでやるよ」
 二人のうちどちらが次期チーフになるかという話が持ち上がった一年前、辞退という形で責任あるポジションを慧斗に押しつけた彼は、そういう理由からチーフに従順だ。
 入れ替わりにレジに立つと、乾が、素知らぬ顔で会話を振り出しからリスタートさせる。
「ひっどい雨だねえ」
「そうっすね」
「中村くんは、ここ来るまでにやられなかった?」
「あ、今日、車だったんで」
 陳列棚から覗く銀髪にちらりと目線を走らせて、余分な修飾を省いて答える。頓着しない様子で軽く頷いた乾は、やんわり笑った。
「あそう。俺は歩き。見てこの、裾」
 くい、右足を見せつけるように折り曲げて持ち上げるのが、ダンスのモーションみたいだと一寸気を取られる。長いとしか言えない、すらりと長い脚の膝から下がぐっしょりと濡れそぼっているのに、見たままの感想を述べた。
「ひどいっすね」
「安物でよかったと。まあ安物しか持ってないんだけど」
 スーツの仕立ての良し悪しなんて判らないから、それが冗談なのかどうかもわからない。曖昧に口元を引き締める慧斗を置き去りに、話題はスーツからまた天気へ戻る。
「仕事してたらめんどくさいだけなのに、大雨とか台風っていまだに大好きなんだよね。なんか、うきうきしない?」
 する、今度こそ頬を弛めて、慧斗は賛同の意を表することにした。
「だよねだよね。中村くんは、雨好き?」
「……好き、な方かな」
「やっぱりなあ、そんなかんじ」
「かんじ、って」
「梅雨の雨より、真冬の雨とかが好きでしょ。冷たい雨」
「や、考えたことないですけど」
「なんだ残念。俺は好き」
「あ、はあ……」
 嗜好の一致、のち、不一致。答えに困るとすぐに黙り込む、話下手な自分をいまいましく思う。この饒舌な男とのコミュニケーションは、時々、自分がひどくつまらない人間なのだということを思い知らせてくれるのだ。冷雨が好きな男は天気の話題にも執着するつもりはないらしく、いつもの軽い調子で背後の陳列ケースを指差した。
「えーとね、煙草、いつものちょうだい」
「あ、はい」
 水色のソフトケースを手に取り――振り向きざまにぎくりとする。
 いつからいたのだろうか、レジから少し離れたところに見える気だるい立ち姿は見馴れ過ぎていて、すぐに目を反らしたからといって忘れてしまうようなものではなかった。
「あ、テープでいいや」
「はい……」
 四センチくらいでカットしたオレンジ色のテープをケースに貼って、レジ台の手前に滑らせる。煙草一点だけの清算なのに、視線を意識しているせいで二倍のエネルギーを奪われるような錯覚。
「開けたら速攻で吸わないと、湿気るよね……」
 商品を受け取った乾の半笑いの述懐を、
「ケイト」
 ざらつきのある低音が遮る。ひょろ長い長身にストップモーションがかかるのを気配だけで感じて、慧斗は逆方向に首を向けた。
「あ、なに……?」
「ちょっと来いよ」
 名指しと、横柄な言い種。銀髪の悪目立ちする男が単なる客ではないと察するのには、誰にとってもじゅうぶんな材料だろう。「レジ休止中」の三角コーンが乗っかっているだけの隣のレジを心細く思いながら、仕方なくレジから出ようとすると、それより先に信広が内緒話をするように顔を近づけてくる。
「なに」
 力強い造りの二重目蓋の下で眼球が左右に走るのが判った次の瞬間、いきなり、口付けられた。
「っ!」
 反射的に胸を押し返した拍子に唇どうしが離れたが、それも一瞬で、手首を封印されてまた塞がれる。三秒か五秒か、アクシデントでは済まされない時間をかけて慧斗の唇を蹂躙した信広が、ゆっくりその場所を開放した。
 ――バチッ、慣れない平手打ちは、薄い左頬にクリーンヒットする。
 そうされても愉快そうに目を細めるだけの男を、慧斗は奪われた息を取り戻しながら睨みつけた。
「……帰ってくんない」
「帰るよ、用済んだし」
 頬を撫でながら笑い、言葉通り入り口に向かって一歩を踏み出す。長身の男二人がすれ違う瞬間、信広は乾の痩せ気味の腕をノックするように叩いて、対照的に造りの穏やかな顔を覗き込んだ。
「今の、牽制だから」
 それから、意図的にギャラリーに指定された哀れな男の手の中にある煙草に目を落として、薄く笑う。
「ね、マイセンライトってうまいの?」
「先輩」
 苛立ちを隠さない慧斗にも、
「帰るっての」
 やっぱり愉快そうに肩をすくめるだけだ。ジャスト、ルック、ソー、サディスティック。
 床を踏みつけるような動きのくせに足音を立てない、野性的な後ろ姿を見送る。ガラスと雨越しに黒い車がパッシングなんて送ってくるから、目を反らし、慧斗はのろのろと乾を見上げた。穏やかな印象の眉は、困ったようにへの字に下がっている。
「……すいません、なんかもう、なんか」
 伸びすぎの髪をかき上げて、撫でつけて、なんか、を意味なく繰り返す。店員以外は通らないレジとレジの間は防犯カメラの死角になっているから、今しがたの光景は映像記録に残らない。そのことを知っている信広は、けれどそれより堪える仕打ちを慧斗に施したのだった。信広の真意も慧斗の本意も、それ以外のひと、乾には関係のないことだ。弁解の言葉なんて存在するはずがなく、慧斗は額に手をあてたまま黙りこくる他なかった。
 出会ってから始めてかもしれない、反射で口をきいているような男が、たっぷり時間を置いてから口を開く。
「少しだけ、いいかな」
 慧斗の応えを確認せず、滑らかに歩行する人は店の外に出て行った。

 

 宵闇に、煙草の着火部分だけがぼうっと赤く光る。
 買ったばかりの煙草を吹かす様子を見ても、ジーンズの尻ポケットの中で潰れている同じ銘柄のそれを、今取り出して横で吸う気にはとてもなれない。
 ひさしの下から変わらず土砂降りの雨を眺めて、落ちつかない気を紛らわせる。質問は、思ったよりも単刀直入だった。
「あのさ、彼と、付き合ってる?」
「……すいません」
「ん?」
 少し鼻から抜ける、必要最小限の音声言語。
「や、だって……」
 謝罪は肯定で、肯定は――口篭もる慧斗に、澄ましたトーンを変化させずに乾が言う。
「そうじゃなくて。不穏な雰囲気だったから、だいじょぶかなあと思いまして……俺があんまり馴れ馴れしかったからだよね、やっぱり」
「違います、全然、そんなの…乾さんのせいじゃないです、ああいう人だから」
 放任主義者のふりをしておいて、実際に慧斗がふらつくのは気に食わない人。自分自身はいつでもふらついているくせに、それを慧斗が指摘するとしらける人。いつだって相手から要求されることの方が多くて、不等式にしかならないアンバランスな関係だ。
「ああいう人」
「?」
「とか言うんだね」
 指摘されてみて、まるで情婦みたいな言い方だったと気付く。
「……あ」
「きみがさ、そんなふうに険しい顔するキャラだとは思わなかった……眉間にほら、縦皺」
 ほっそり長い指で自分の額を上下に撫でる仕草につられて同じように眉間を撫でる慧斗に、乾は独特の、喉の奥を震わす含み笑いを贈ってくれる。
「美人が台なし」
「なに言ってんすか……」
 取り戻した彼の軽口に、相手が望んだ程おどけた口調で返せたかどうかは自信がない。
「……がんばんな、なんて、言っていいかわからんけど。難しいよね」
 難しいわ、もう一度言って、乾は白い煙をゆっくり吐き出した。
 雨に濡れてにおい立つアスファルトの臭気に混じって、副流煙を嗅ぐ。その、軽いにおいをかぐわしいと思う慧斗の気持ちを知ったら、今みたいに肘の触れ合う至近距離で隣り合うなんて望めなくなるだろう。
 盗み見上げた、大きな口元。煙草を挟む人差し指と中指の腹が、癖なのだろうかしきりに唇を撫でているのに、少し気が遠くなった。

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