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4.

 時計の針が零時を回るか回らないか、正確な取り決めはないその時刻に、冷ケースのペットボトルを補充することになっている。ペットボトル棚の背後はそのまま冷蔵庫と繋がっているので、バックルームから冷蔵庫の扉を開けて、古い商品を手前へ押し出すように奥から足していくのだ。単純かつ合理的なシステムの作業は、二人がかりなら二十分足らずで終わってしまう。
 十二時以降、チーフ格の慧斗の仕事は裏方が多くなる。
 客の少ない店内は後輩に任せて、事務所にどっかり腰を据えて商品の発注作業、書籍の返品作業、ゲームの予約状況の確認などなどを、散漫にこなしていく。雑務と言える仕事の中で気を遣うのは、売れ行きを予測しなければならない発注作業くらいだろうか。過去のデータはもちろん重要なのだが、今日売れたから明日売れるというものではないのであまりあてにできないから難しい。それ以上に重要なのは、最近特に当たらないと思う週間天気予報と、健康情報番組の放映予定なのだ。
 デスク型パソコンのツールバーからメーラーを起動して、受信ボタンを押す。1/1受信中…の表示はすぐに消え、受信ボックスに太字の件名で新着メールが現われた。
「六月二十六日放映 ×××でヨーグルトが取り上げられます」
 誰に聞かせるでもなく、件名を読み上げる。
 メールの内容は明快。人気の情報番組でヨーグルトが取り上げられるので、その翌日に合わせてヨーグルトの発注個数を増やしましょう、というものだ。オーナーがシフトに入る日は彼の仕事だが、それ以外の日、つまりほとんどの日は店の売上に関わるこの作業も慧斗の管轄だった。
「どうすっかな」
 発注画面に切り替えながら、習性でテーブルの煙草に手を伸ばす。一本咥えたところで思いなおして、ユニホームのポケットに手を突っ込んだ。葉っぱのお札じゃあるまいし、小銭代わりにと冗談で渡されたバター飴。フィルムを剥くタイミングがどうにも図れないまま、何時間かが経ってしまった。
 ピンポーン、ピンポーン、出入り口のセンサーが二度鳴る。
 四分割になった防犯カメラの映像の一つに、今夜二度目の来客を知った。

 

「お、腰から下」
 事務所から顔を出した慧斗への第一声。
「いつもあんまり見えないじゃん、レジで。それ、いい具合だね」
 当惑する間さえ与えられずに完結したせりふが安い古着のジーンズのことを言っているのだと気付いて、そそくさとレジに隠れる慧斗を、含み笑いが追いかけてくる。
「……どうしたんすか、また」
 レジを挟んで向い合う乾の、ほんの二、三時間前との相違点は、ネクタイの有無、血中アルコールの有無、それから同伴者の有無か――長身の乾よりやや背の低い人物を、ちらりと上目遣いで窺う。それに気付いた乾が、右隣を指差した。
「ほら俺、ひとり飯苦手って言ったじゃん?暇そうな人呼んで一緒に飯食ったんだけど、結局呑んじゃった」
 親指のベクトルにつられて顔を上げると、乾と同じくらいの年頃なのだろうか、やっぱり同じような系統のブラックスーツを着た男に、にっこりと笑いかけられてしまった。地毛っぽい、明るい髪はくるりと癖っ毛で、華やかな笑顔がキュートな印象の人。慧斗と合せた目を外さないまま、彼は小首を傾げた。
「マドンナ?」
「……はい?」
「ユーキくんのお気に入り?」
「あの」
 一瞬で浮かんだ幾つかの疑問のうち、
「困ってんじゃん、中村くんが」
 固有名詞に反応した乾の言葉で、ひとつが解消する。ファーストネームを呼ばれた男が、呼んだ男の肩口を小突くと、その人は華奢な肩を可笑しそうに揺すって酔っ払い独特の緩慢な仕草で乾を見上げた。
「ユーキくん、アイス食いたい」
「はいはい、好きなの選んでおいで」
 はあい、アイス用のケースへ向かって遠ざかって行く後ろ姿を横目で見送った乾が何か言う前に、レジから小さなアラームが鳴る。
「お?」
「あ、すいません……久保くん、N便撤収してもらっていいかな」
「N便っすか?了解」
 慧斗の指示にあっさり頷いて、後輩がレジから出る。
 アラーム音は、弁当の賞味期限切れ間近を知らせるものだ。何の略称かは知らないN便とF便の二種類があって、時間差で出し入れしているそれらは、店員の食料になることも多かった。
「ユーキって、言うんですね…」
 アラームに途切れた会話を復活させようと、ネクタイがあればそこが結び目になるはずの部分、ワイシャツの首元あたりを見ながら言う。N便撤収の意味をその目で確かめていたのだろう、弁当コーナーを興味深そうに眺めていた乾が、少しの間を置いて首を傾げた。
「ん?」
「……あ、名前」
「違うよ?」
「はい?」
「ユー、ヒ、と言います。雄に、飛ぶで、ユーヒ」
 ヒ、を大げさに強調して、唇を横に引き伸ばす。乾、雄飛。
「……へえ」
 頭の中で再変換を行っていたせいで返事がおざなりになった慧斗に、気を悪くしたふうもなく乾が笑う。
「あ、どうでもいいと」
「そんなこと」
「一回聞いたら忘れないでしょう、俺の名前。画数多いから書くのがめんどくさいけどね」
「や、かっこいい、すよ」
「いやいや慧斗ほどでは。中村くんはほんと、慧斗ってかんじだよね」
 かんじ。印象で大まかに物を言うことが多い人だなあと思う。オアシス好きで慧斗って名前が合ってる人のイメージって、どんなだろうか。
「……それって」
 聞き出すための適当な構文を探しながら口を開くのとほとんど同時に、
「おお、ガリガリくんの新しい味発見!」
 嬉しそうな声が上がる。  こういうバッド・タイミングに、わりとナーバスになりやすい性格なのは自覚している。けれど慧斗を一層そうさせた原因は、宥めるような目瞬きをこちらに寄越して、割り込みをフォローした乾の態度だった。
「しょうがねえなあ、あの人は…」
 発言権の優先順位を理解して、慧斗は口を噤む。
「ねえそれ、なに味?」
「ゆず」
「…持っといで、二本」
「はーい」
 実際はそれほど新しい商品ではないと慧斗だけが知っている、少し霜の降りたパッケージがふたつ、レジに置かれる。
「バイバイ、マドンナ」
 その人はそう言い残し、清算を乾に任せて一足先に店を出て行った。財布の小銭入れを覗き込んでいた乾が、思い出したように顔を上げる。
「あ、中村くん、飴食べた?」
「……まだ、です」
「寝かせといても美味しくならないよ?あとで食べて」
 ね、と念を押しながら慧斗の手のひらに百円玉を二枚押しつけて、
「おやすみ」
 さっさと袋を取り上げる。お釣りが五十円以内なら頓着しない、今確信した彼の新しい法則だ。中指だけをこちょこちょと動かす変な仕草で手を振るのに、手を振り返すわけにもいかず、慧斗は会釈だけを返した。

 

 信広からの着信があったのは、シフト明け直前の時刻だった。出るのが遅いとまず挨拶代わりの文句の後、バイト明けたらそのまま来いよ、と告げられる。
「どこ行ったらいいの……」
『シンの店。東口の、知ってんだろ?』
 どうやって断わろうかと考える間もなく、電話は一方的に切れてしまう。原付の処遇をしばらく思案して、店の裏口に停めたまま徒歩で駅に向かうことにした。
 貸し店舗がぎっしりと立ち並ぶ東口駅前通りを、通勤通学の流れに逆行しながら目当ての看板を探す。雑居ビルの入り口に設置された縦長の看板の「2F」に店名を確認して、入り口から細い階段を上がると、センサーをオフにしてあるらしい開けっ放しの自動ドアに突き当たった。
「ケイトじゃん」
 素っ気ない平坦な声音が、慧斗を出迎える。
「……あ」
「シ、ン。ま、二回目だし?今日で憶えてよ」
 雇われ店長の手のひらが背中に添えられて、閉店後の居酒屋に通された。
「その子がケイト?」
「やばいじゃん、ケイト」
「な、こっち来いよ」
 先客――店員なのか店長の仲間なのか慧斗には判らない男女四、五人から、次々に声を掛けられる。たじろぐ慧斗を救ったのは、
「ケイト」
 そもそもこんなところに自分を呼んだ男だった。一人離れてカウンター席に座っていた信広が、隣りの椅子を引いて示す。おいで。
「……なんの用」
「なんだよ、まだフテてんのかよ」
 日本語が一瞬、通じなくなる。時間感覚には相当の個体差があるのだと実感するのは、こういう時だ。つまらない冗談で気分を害されてからまだ、半日くらいしか経っていない。立ったままで座ろうとしない慧斗に、信広がつまらなそうに鼻を鳴らした。
「ケイト、なんか呑む?」
 カウンターの中から、シンが訊いてくる。
「……いい、いらない」
「あれ、下戸?」
 その疑問に答えてやるより早く、信広に手首を掴まれた。
「ちょっと便所」
「ノブヒロさん」
 形ばかりの非力な抵抗はあっさりいなされて、強引に引き寄せられる。助けて欲しかったわけではない、けれど、
「壊すなよ」
 シンから掛けられたのはげんなりするような揶揄の言葉だった。
 良く知った店内なのだろう、信広は迷わず、少し奥まった場所にある男子トイレに慧斗を連れ込む。ドアが閉まりきるのを見届けてから、慧斗は口を開いた。
「俺のはなし、したの……」
「したよ?」
「なんて」
「俺の、お姫さまだって」
「は?」
「セックスしてるって」
「ふざけんな」
「冗談、しねえよ誰にも。バレてっけどな」
 く、く、可笑しそうに笑って、信広は正面から慧斗を抱きしめる。
「……酔ってんの、ノブヒロさん」
「お前がやらしてくんないから、酒でも呑むしかなかったんだろ?」
 お前に夢中で仕方ないとでも言うような男は、その逞しいプロポーションの全身から、酒と、煙草と、汗と、女の匂いをさせていた。
「……嘘ばっかだよね」
「なに?」
「なんでもない」
 信広は俯く慧斗の顎をを掴んで上向かせ、目を覗き込む。
「機嫌直せよ、お姫さま」
 反らすことを許さない目だ。懇願はただのふりで、その実絶対的な命令だと知っている。空調設備のないじめじめした個室、うっすら結露の浮いたタイル張りの壁に押しつけられるのに不平を訴えようと喘いだ息を、そのまま奪われた。
 上下の唇、歯、その奥の舌を舐められる。
「マイセンの味」
「なに……」
「なんかさ、お前が他のやつとキスしてきたみたいで」
「……あ」
「むかつくな」
 Tシャツの裾から進入した大きな手が、脇腹を撫でる。しなやかな首に両腕を巻きつけて、ピアスホールを幾つか余らせた耳たぶを噛んでやると、機嫌良く信広の肩が揺れた。
「そっち、向け」
「うん……」
 後ろから回された手にベルトのバックルを外されて、尻を剥かれる。ほとんどスタンバイ状態の信広のものがいつものように強引に挿入されて、
「いっ……!」
 痛い、の一言を、慧斗もいつものように呑み込んだ。
 根元まで納まったかと思うと、すぐに抜かれる。
「んっ……あっ、あ、あ」
 始めはゆっくり、だんだんと早く、穿つリズムに合せて声を上げながら、見えない背面に別のイメージをオーヴァーラップさせてみる――ぞく、太腿あたりから駆け上がった倒錯的な快感に、一番正直な場所がきゅっとすぼまった。
「あぅっ」
「いい、いい、最高」
「……あっ、あっ、あぁ!」
 徐々に甲高くなっていく声が、金属パイプか何かと共鳴してキィン、キィン、と反響する。いつか、暇つぶしに斜め読みしたつまらないファッション誌の、つまらない記事を思い出す。セックスの時に男が女に重ねるのは抽象的なイメージ、逆に、女が男に重ねるのは具体的なイメージなんだって。
 それに当てはめたら間違いなく、自分は女だった。
「ケイト、ケイト」
「やっ、あっ、あっ、あんっ……」
 ケイト、でなく、ケート、と真ん中を間延びさせて慧斗の二文字を読み上げたのが、なんとなくらしいと思った。
 彼の名前、ユーヒ、とおんなじ調子で。

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