Novel >  KEITO >  KEITO3

3.
 ボリュームを落したテレビの音と、ちらちら明暗の変わる部屋の明かりで目が覚める。くらり、襲う眩暈に目蓋は開けず、抱きしめた上掛けに顔を埋めて不快感を遣り過ごす。もともと低血圧気味の身体が、今日はずいぶん重い。
 しばらくそうしてから目を開けるのと、気配に敏い男がふい、と首だけひねってこちらを振り向くのは、ほとんど同時だった。寝起きで定まらない慧斗の目線を強引に捕まえて薄っすら目を細めると、信広はまたテレビに向き直ってしまう。
「来てたんだ」
 白いTシャツの背中に向けて、状況確認の独語を発する。
 会えない日数をカウントする性癖はないので、アバウトな計算でたぶん、十日ぶりくらいの来訪だろう。慧斗からのリターンコールをたった数時間待てない男が、一週間以上連絡を寄越さないことなんてざらにある。そこに矛盾はなくて、ただ気ままな男だっていうポイントさえ押さえておけば、感情と理性の間に余計な振れ幅を持たなくて済むと学習していた。
 だから今だって、心臓に付いた針はニュートラルを中心に五ミリ弱幅で振れて、治まったはず。
「俺でがっかりした?」
 ひとり言を拾った信広が、もう一度振り返る。ネコ科肉食動物の笑い方はやっぱり、野性的だ。
「いつからいたの」
「夕方、五時ごろかな。そん時声掛けたんだけどお前、一回寝たら起きねえよなあ」
「……ごめん」
「なんで謝んの?」
 含み笑いをまだぼんやり遠くに聞きながら、なんとかベッドの上に身を起こす。そのままリバースしそうになる姿勢を堪えて、降りるというより落ちるようにベッドを出た。目覚ましや人の声で起こされた時の寝起きは特に、最悪なんだ。
 二人とも部屋の明かりは最小限が好みなので、部屋はいつでも薄暗い。慧斗は小さな正方形のローテーブルの、信広がポジションを取る辺と直角の辺に座る。上に散らばったCDケースや未開封のダイレクトメールなどの中から、目当ての物を取り上げた。
 咥えた真新しい一本に百円ライターで火を点けて、吸う。ニコチンが肺胞まで染み入る感覚は、この世で一番手っ取り早く手に入る幸福だった。
「乗り換えたの?」
 端的すぎる疑問文のあと、数秒の沈黙。信広が答えを待っているのだと気付いて、慧斗は一旦煙草から唇を離す。
「……え、なに」
「煙草、ほんとに乗り換えたんだ」
 慧斗の放った煙草ケースを手の中で弄びながら、信広がさっきよりはまともな構文で言いなおす。水色一色のソフトケースの中には、だせえな、と評されたマイルドセブンのライトが半分ほど残っている。面白半分に買った銘柄は、いつの間にか慧斗の準スタンダードになっていた。十日という日数は、煙草の嗜好を変えるにはじゅうぶんな長さらしい。
 大した長さのない灰を灰皿へ落としながら、ぼそぼそと弁解する。
「……身体に悪いし」
「やめる気ないなら一緒だろ。結局本数増えてんじゃねえの?」
「あー、うん……」
「しょうがねえなあ、お前も」
 あやふやな答えに、信広は白抜きのロゴを親指の腹で撫でて可笑しそうに口の端を弛めた。
「なあケイト」
「なに?」
「煙草の趣味が変わる時って、どんな時?」
「別に、理由なんてないよ……」
 咥えなおしながら肩をすくめる慧斗を倣うように、信広も肩をすくめる。
「ま、気が済んだらまた、セッターに戻しなよ。違う匂いがすると気分悪いわ、やっぱ。お前も、この部屋もさ」
 十六の慧斗に煙草の味を覚えさせた、悪い先輩。その頃から変わらずセブンスター一辺倒だなんて、妙なところだけ凝り性だ。
 ブラウン管の光りに左半分だけ青白く浮かび上がらせた恋人が、慧斗の唇から咥えなおしたばかりの煙草をさらう。口寂しさを感じる前に、今度は唇で、唇を塞がれた。
「――先輩」
「誰?」
「ノブヒロさん……俺、これからバイトなんだけど」
 そのまま顎から首筋へ下りる分厚い唇から、身を捩って逃れる。
「すぐ終わらす」
「……やだ」
「聞こえない」
 構わず押し倒してくる逞しい身体を、力の入りきらない腕で精一杯押し返した。
「ほんとやだ、勘弁して」
「ケイト?」
「俺今日調子悪いから、マジで…貧血っぽい」
「なんだよ、生理か」
「最低……」
 心から発した罵倒も、肉の削げた左頬をくすぐるだけで終わる。
 悪びれない男は、不機嫌に寝返りを打つ慧斗の髪をひと房つまんで、耳元に笑い混じりに息を吹きかけた。
「おい、怒んなよ、送ってってやるから」
「……いい、原付で行く」
「あ、そ?」
 信広は、こういうシチュエーションで食い下がったりしない。
 寝起きの悪い恋人のヒステリーなど、しばらく放っておけば鎮まると知っているから。

 

 いつもより二時間近く短かった睡眠時間に未練を残したまま、あてが外れた体の恋人を置き去りに部屋を出る。職場まで大きく迂回路を取って、途中、「新台入荷」の花環がいつでも飾られたその店に入る。雑音で溢れる巨大な喫煙ルームの、定番のスロット台に座ってぼんやり時間を潰してからまた、原付に跨った。
 夕方から夜のシフト組がまだ勤務中の職場に顔を出すと、入り口で発見される。
「おはようございまーす。今日はお客さん?」
「おはよ、これ買ったら入るよ」
 店員同士の挨拶は、いつでもおはよう、だ。稼いだ小金をチャラにする分の、チョコ・シュー、チーズ味のスナック、ミニドーナツ、かりかり梅他数点をレジに出すと、陽気に笑われる。
「もうかりました?」
「ぼちぼち」
「あ、あたしあれ食べたい、ラスク」
「了解」
 バイト店員の男子陣は、熱意の差はあれスロットを嗜むやつが多い。純利益の上がった時にこうやって幸運のおすそ分けをするのが、通例だった。
「中村さんはあ、勝ってるとこでやめるからえらいですよね」
「なんちゃって、だもん。これ、事務所に置いとくから」
「やった、おやつ確保」
 バックルームのロッカーでユニホームに着替え、事務所に入る。置いとく、と言った通り膨らんだビニール袋をテーブルに置いて、大した娯楽にはならない防犯カメラの映像を見ながらを出勤時間打ち出しのタイミングを計る。ベストは20:56くらいだ。
「おはよーございまーす」
「はよ」
 後から入ってきた後輩に片手を上げて応えると、ちらりと首だけでお辞儀をした久保が、
「あっ」
 眉をしかめた。
「傘、また忘れました」
「つうかあげるよ、もう」
 この二週間ほど、彼と顔を合せるたびに決まって繰り返されるやりとり。
譲渡したものがさらに譲渡されたと知ったら、乾は嫌な顔をするだろうか――たぶん、あそう、と言って澄ました顔で笑うだけだろう。勝手な想像ではなく、慧斗にはそう結論してもいいだけのデータがあった。
 モノクロに近い色素の画面のひとつ、入り口に設置された防犯カメラからの映像に、すらりと長いスーツ姿のサラリーマンを見つける。少し早いかなとは思ったけれど、名札のバーコードをスキャンすることにした。

 

「お、オアシス。学生ん時めっちゃ聴いてた。一度だけフェスで見たよ」
 スピーカーの方向に黒目だけ動かして、小さく流れるロック・チューンの演奏者を正確に当てる。
「中村くん的にはどう、オアシス」
「……好き、ですけど」
「やっぱなあ、そんなかんじ」
 本意の判りにくい相槌は、この男一級だ。
 乾がやって来るのはだいたい、午後九時から九時半の間くらい。毎日ではなく、三日に二日といった来店ペースはけれど、ただの客、の枕に常連がつくにはじゅうぶんなペースだろう。遅い晩飯を買いにという風体ではなく、五百ミリリットル入りの紙パックとか、ガムなんかを一点片手に持ってレジに置くのがパターンだ。残業中の食事代は福利厚生費になるので、わざわざ自分で買う必要はないらしい。
 訊きもしないのに教えてくれた情報によって、今夜のラインナップに違和感を感じる。
「珍しいすね、弁当」
 ミルクティーのパック、うな重、お新香セット。あと、ゆで卵。五大栄養素のグラフが正五角形を描くには決定的に何かが足りない気がするメニューを並べて、乾が嬉しそうに頷く。
「お、鋭い。今日はおうちでご飯だから、自腹。俺ひとり飯って苦手でさあ、中村くん今度一緒に晩飯食おうよ」
「……働いてますって、この時間」
「じゃ、昼飯。あ、あっためなくていいよ。でさ、デニーズ、ガスト、バーミヤン、サイゼリヤ、あとロイヤルホストか、どれがいい?」
 表情に困る言い種も一級で、ネクタイの結び目に焦点を合せて見返す慧斗に、すかさず茶々を入れてくる。
「中村くんそんな露骨に、ファミレスかよ!って顔されると」
「や、別に…」
「まだあんまり探険してないんだよね、地元の飯屋。とりあえず無難に、市内のファミレスは網羅した。どっか知ってる?旨いうなぎ屋とか」
「うなぎ、好きなんですか?」
「ううん、別に」
 塑像のようにすっきりした顔立ちの中で唯一アンバランスな印象の口元が、破顔する寸前みたいに引き伸ばされる。この独特のペースは、イコール、愛嬌というやつだった。
「……乾さん、煙草は?いつもの?」
「さすがあ」
 反射で口の筋肉が動いているのに違いない賛辞を背中に、レジ内の煙草陳列スペースからオーダーされると判っている銘柄を取る。「マイルドセブンのライトをソフトケースで」から「マイセンライトのソフト」を経て、とうとう「いつもの」。乾はこの、水色のソフトケースしか買わない――最初の一回を除いて。慧斗の推測によると、酔っ払って買ったオレンジ色のケースの中身は減ったとしても一本というところだろう。
 堅いボックスではなく柔らかいソフトケースを選ぶのは、ソフトケースの方が資源を使ってなさそうだから、らしい。同じソフト派の慧斗には、本当の選考理由はポケットや鞄の中でスペースを取らないからだと確信があるのだけれど、無責任丸だしの発言の方が断然面白かった。
「……1459円のお買い上げです」
 合計の出たディスプレイの角度を変えて、見やすくしてやる。
 一、二度デジタル表示の数字と財布の中身を確認した乾は、プレートではなく直接慧斗の手のひらに金を乗せた――千円札と、透明のフィルムに包まれた薄茶色のキャンディー。
「小銭ないから、これで勘弁して」
「あの……」
 呆れて見上げると、今度は目線の焦点が乾のそれとかち合ってしまう。やんわり、上下の目蓋のラインが三日月型になる。
「嘘うそ。飴でも舐めて、元気出しな?ライバル店で購入したことは内緒です」
 乾は語尾を自分で茶化しながら、さらにワンコイン、五百円玉を乗せてくれる。
「お釣りはそこ入れといてください。店のトイレットペーパー代とかになってんのかは知らないけど」
「役立ってますよ、スマトラ島沖地震とかに。あの」
「うん?」
「ありがとうございます、これ…」
 オールドファッションのバター飴を摘み上げる慧斗に、いえいえ、唇のモーションだけで言って、乾はくるりと軽い動作でターンした。
 たぶん、明らかに二、三日ポケットの中で忘れられていた飴玉を、体よく押しつける作戦というところだろう。だけどよりによって、今日みたいに浮かない気分を持て余す自分に、そんなことをしないで欲しかった。他愛ない冗談が手のひらに乗った貨幣価値なんてないアイテムを媒介に、受け取った側に都合よく変換されてしまったらどうするんだ――「はい、乾です」
 何度か訊いて耳慣れてしまったメロディーを最初のワンフレーズで切って、姿勢の良い後ろ姿の乾がよそ行きの声を出す。
「お疲れっす……うん、もう出ちゃったから無理だな。明日でいい?」
 気安い相手だったのだろう、すぐに戻ったいつも通り掴みどころのない話し声も、自動ドアに遮られて聞こえなくなってしまった。

Category :