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2.

 正面少し上、歩行のたびにぶれるアッシュグレイに染め抜かれたよじれた毛束を、何となく眺めながら歩く。くすんだ灰色の髪はたてがみじみていて、ライオンのようだといつも思う。勤務先からこのワンルームマンションまでは、原付だろうが車だろうが、十分とかからない。エントランスから階段を昇ってニ階の角部屋に辿り着くまでにすれ違う面子は、平日ならばほとんど同じで、階段を下る同年代の会社員風の男女もそのことには気付いているだろう。
 廊下の一番奥、無記名の表札がかかるドアが開かれ、
「ほら、入んな」
 招き入れられる。
「……うん」
「おいおいここ俺ん家だよ、くらい言えよ」
「……うん」
 ふっ、冷笑気味に口元を弛めた信広(のぶひろ)が、慧斗の頭を撫でた。
「なにが、うん、なの?」
「…………ううん」
 曖昧に首を振る慧斗に構わず、運転手兼ドアマン兼恋人は、上背に合った大きなスニーカーを脱ぎ捨てる。そうして雑然と散らかった床を奥へ進み、当然のようにベッドを陣取るのだ。枕元に放置されたままの機械に気付いた信広がそれを取り上げて、無言で電源を入れた。
 慧斗は気だるげに寝そべる雄ライオンから少し離れた位置の雑誌をつま先で避けて、空いたスペースに尻を着く。パーカーの左ポケットから買ったばかりの水色の箱を取り出して、フィルムを剥いた。マイルドセブンのライト。
「だせえな、いつからそんな軽いの吸うようになったんだよ」
 一本を咥えたところで揶揄されて、唇の間に火を点けないそれを挟んだまま言い返す。
「……可愛いじゃん、箱の色が」
 ひとつひとつのパーツがきつい顔立ちが、ゆっくりと崩れる。受け売りの答えをお気に召した様子の信広もまた、ジーンズのポケットからセブンスターのケースを取り出した。信広が咥え煙草に火をつけるのを横目で見ながら同じように火を点け、ふう、吸って吐く。
「……あのさ先輩」
「ケイトお前、先輩って呼ぶなつってんだろ。治らねえなあ」
「……ノブヒロさん」
「なに?」
「あのシンってひと、大学の時の友達?」
 偏差値ランクの上位に入る国立大学出身の信広と、同級だと言った。
 一歳上の信広とは同じ中学と高校を出ているから、そこでの同級ならば顔か名前のどちらかくらいは知っているはずだ。
「ああ、お前と会わせたことなかったっけ。あいつの店で俺の名前出せば、半額くらいにしてくれるぜ?雇われ店長のくせに、好き放題やりすぎなんだよ」
 今度言ってみな、と笑って盛大に煙を吐く。
 信広といいシンといい、ここの国立大学はろくな人材を輩出していない。目の前の男は食うに困らない身分をいいことに、好き放題働いている。こないだまではキャバクラの送迎とかやってたっけ。
「ふうん……」
 目の前の男への物思いで返事がおざなりになるのを、信広は許さずに鼻を鳴らした。
「なに、シンがどうかした?」
「……べつに、どうもしないけど」
「俺よりいい男だったって?」
「言ってないじゃん」
「あいつ、遺伝子レベルで女にしか勃たないぜ?お前からY染色体がなくならない限り、そんなふうにエロい顔しても無駄」
「……してない、そんなの」
 本気なのか揶揄われているのか、どちらにしろ言いがかりには違いない言葉に不快感を表してやっても、
「……してるじゃん、俺もう、こんな」
 信広は薄く笑うだけだった。皺の具合とかではなく、ジーンズの分厚い生地が持ち上がっている。
「来いよ」
 ビニール傘をさして歩く機会を今朝の自分から奪った男への鈍い苛立ちは、同じようにぼんやり鈍く、いつの間にか消えている。雄ライオンを目の前にした自分は、XY染色体を持つ雌ライオンでしかなかった。
 三百円くらいで買った球体の灰皿に煙草を押し込み、それを持ったままベッドに乗り上げる。慧斗が手渡した灰皿に自分の吸いさしを押し込むと、信広はその球体をベッド下に置いた。雑な動作で衣服を脱ぎながら、もつれ合う。かすかに石鹸が香るのを感じて、慧斗は諦念にも似た思いで男の体重を受け止めた。
 セックスの前に風呂に入るようなエチケットは持ち合わせていない男だ。彼が風呂に入るのはだから、前ではなく後だった。伸びすぎた慧斗の前髪をごつごつした手がかき上げ、現われた額に口付けが降る。
「……ケイト、すぐいれたい」
 言葉通り力強いものが、内腿に当たる。欲望の強度には違いない、だけど、昨日の夜から今朝になって自分の番が回ってくるまでに、信広は何人に杭を打ち込んだのだろう。慧斗は鬱屈した気分のまま、逞しい背中に両手をまわした。
「……あぁ」
 慧斗の生まれ育った町は市町村合併で名前も変わり、今では市になっている。高校卒業と、町が市になるのと、何十キロか離れた政令指定都市に出て来たのと、駅前のコンビニでバイトを始めたのと、それから真上の男と始めてセックスをしたのは、全て同じ年の出来事だった。

 

――切れ目なく続けられた行為の途中でたぶん寝てしまったのだろう、目が覚めた時、シングルベッドの中は一人減って定員ぴったりになっていた。時計を見ると習慣とは偉大なもので、今夜もいつも通りの起床時間だ。だるい身体でシャワーを浴び、変わり映えのしないジーンズを履いて、Tシャツをかぶる。点けたテレビに最初に映ったバラエティ番組を流れが判らないままに眺めつつ、パックに入ったゼリー状の栄養補給飲料と煙草を交互に吸ううちに、はたと気付く。
「……やべ」
 原付で走れば十分足らずの距離も、歩道と横断歩道に沿って歩けば二十分以上かかるのだ。カーテンと窓を開けて、晴れていることを確認する。財布と煙草とキーケース、それから迷って携帯電話も尻ポケットに突っ込み、慧斗は慌てて部屋を出た。

 

「うす」
「うす。ケイト遅いね」
「あー、今日歩きでさ」
「マジ?原チャリは?」
「昨日の帰り、雨だったから」
「あ、そっか」
 今の深夜帯のメインメンバーは慧斗と、慧斗より二ヶ月ほど遅れて入ったこの一歳上の男だ。背中で会話をしながら店をつっきり、バックルームのロッカーの中から自分のユニホームを選ぶ。首からハンガーを外してジップアップ式のそれを着ながら、今来た道を戻ってレジ奥の事務所に入った。デスク型パソコンの「勤怠」ボタンを押し、名札をスキャンすると「中村慧斗、21:03」と表示される。急いだ甲斐なく、十五分ぶんの時給はチャラになったようだ。
 事務所のドアにクリップ付きの磁石で貼られた一枚の紙には、”深夜組へ→0:00からキャンペーン開始 たれ暴 垂れ幕よろしく”と書いてある。はいはい。
 肩と首を回しながら事務所から出たジャストのタイミングで、
「お、発見」
 忘れてしまうほどには時間が経っていない、少し気の抜けた声がかかった。
「……あ」
 慧斗はレジから少し離れた位置にスタンスを取るひょろりとした長身に向かって、どうも、会釈と言い訳を返す。
「あーすいません傘、持ってきてなくて」
「あげるって、だから」
 曖昧に語尾を濁す慧斗を気にしたふうもなく、彼は小さく何度か頷くだけだった。
 酩酊状態で記憶をなくすタイプではないらしい。というよりも、二十時間くらい前に会った酔っ払いの彼と、たぶん酔っていない今夜の彼に大した違いはない。くっきり二重の目蓋が穏やかな印象で少し落ちているのも、大きめの口元が笑い出す前のように弛んでいるのも。違いと言えばネクタイの色とワイシャツの柄くらいだ。
 その紺色の格子柄のワイシャツがら出た手が、コトン、金地に紫のラインが入った立方体の箱を置く。滋養強壮と大きく書かれた、このジャンルの中で一番高い千円台のやつ。
「風邪ひいたー」
 なぜか楽しそうな声は、確かにほんの少し鼻にかかっている。昨夜の小雨と滋養強壮ドリンクに因果関係があることに気付けないほど、慧斗は鈍くなかった。
「……奢りますよ、お詫びに」
「いやいや。こう見えても俺高給取だからねって、嘘うそ。あと、煙草ちょうだい、マイセンライトのソフト」
「じゃ、そっち奢ります」
「お詫びにならないじゃん、それ。煙草は風邪に良くないでしょう」
 間の抜けた申し入れに、相手は破顔して言った。
 口篭もった慧斗が次の言葉を思いつく前に、ポータブルラジオのようにチープな音が鳴り出す。スラックスの右ポケットに手を入れた目の前の男が、取り出した最新機種の携帯電話をスライドさせた。ちょっと前に流行った洋楽ロックチューンは、慧斗もお気に入りのナンバーだ。日本盤のボーナストラックには、この曲の日本語版が入っていた。
「はい、イヌイです」
 驚いて、栄養ドリンクをスキャンする手が止まる――名乗った苗字にではなく、今さっきマイルドセブンのライトちょうだい、と言った声色とあまりに違う発声に驚いて。張りのある声は集音機能に優れた携帯電話の電話口にあって、必要以上に大きい。隣りのレジの客が一瞬こちらに顔を向けたのが見えた。
「はい……はい、はい。出しました、えーと、八時なん分くらいの送信時刻だと思います」
 ああ、社会人だなあ。縁のない人種に妙に感心しながら、煙草と栄養ドリンクを袋に入れる。
「はい、はい、お疲れさまです」
 短い電話を終えて財布を出すと、彼はレジの会計表示とぴったりの紙幣と貨幣を置いて、悪戯っぽく首を傾げた。
「俺の苗字、どういう漢字で書くと思う?」
 口調は元に戻っている。
「イヌイ、すか?」
「うん」
 出て来たレシートを手渡しながら、慧斗は戸惑って目瞬く。
「え、乾杯とかの乾、じゃないんですか」
 乾のほかに、イヌイと読む漢字を知らない。犬井とか?
「乾杯、いいね。この質問するとほとんどの奴が乾物のカンか、乾燥のカンって言うんだよね。中村くんナイス」
 嬉しそうな乾の答えに、脱力する。悩んで損した――ほんと、マイペースな男。会計を済ませても立ち去ろうとしない男に仕方なく、ほかにレジに並びそうな客がいないのを確認してから訊いてやる。
「乾さん、この辺で働いてるんすか?」
「この辺も何も、駅前のビルだもん」
 告げられたのは慧斗でも知っている、国内、ひょっとしたら国外でも大手かもしれない企業の名前だった。
「家も近いんだけど、この店とは反対方向かな。昨日酔っ払ってて、歩道逆に歩いて来ちゃった」
「地理は疎いみたい、すね」
「四月の終わりに来たばっか。俺、この前まで千葉にいたの。転勤これで三回目だけど、どんどん本社から遠のいてくわ」
「……営業のひとですか?」
「うん、たまに現場入ったりするけど」
 「あたたかい飲み物」と書かれた保温ケースに、平べったい手のひらが置かれる。へえ、横目でそれを見ながら頷く慧斗に、今度は乾が質問する番だった。
「中村くんは?地元民?」
「そこそこ地元、です。もっと全然、田舎のほうから出てきてるんで」
「この辺栄えてるよね。別に東京とか出てく必要ないもんなあって、そう言えばこれ本職?」
「バイトですけど……四年目、です」
「どうりで」
「?」
「制服似合ってるわ。さすがの着こなし」
 なんて誠意のない賛辞だろうか。そう思った次にはもう、
「……ははっ」
 堪えきれずに噴き出していた。全国共通の既製品を褒めた本人も、可笑しそうに口元を撫でている。
「ケイト」
 不意に、談笑を破る声が隣りのレジからかかる。横合いの同僚が指差す先、乾の斜め後ろに客が並んでいるのに気付いて、慧斗は慌ててスキャナーを握った。
「すいません、どうぞ」
 すい、大股に一歩レジから退いた乾が最後の質問をする。
「中村くんさ、いつもこのシフト?」
「だいたいは……あ、明日は休みですけど」
 付け加えてしまった余計なセンテンスを一瞬で後悔する慧斗に、
「じゃ、明後日来よ」
 乾は茶目っ気のある目配せ一つを残して行ってしまった。

 

「ありがとうございましたー……」
 一度混んだレジというのはなぜか、すぐには解消しない。まるで道路の渋滞みたいだ。最後の客を見送って、ようやくすいた手で頬を強く押す。ぐに。
「なに、どした?ケイト」
「…なんか、顔が痛い」
「だいじょぶかよ、それ」
「判んない……」
 答えながら推測する。珍しくたくさん喋ったからかもしれないし、特にどれという訳でもないのに思い出し笑いがこみ上げそうな頬を一生懸命統制しているからかもしれない。日ごろあまり使っていない自覚のある、表情筋だから。

 明後日来よ、だって。

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