10.
「お疲れさまです」
「お疲れ。気をつけて」
「はーい」
学生アルバイトの久保を先に見送って、パソコンの勤怠画面で退出時刻をチェックする。女性店員の「いらっしゃいませ、おはようございまーす」をぼんやり聴きながら立ち上がると、ワイシャツの上に制服を羽織りながらオーナーが入って来た。
「おはよ」
「あ、おはようございます」
慧斗の返事に頷いてから、事務用机の上の書類をめくり上げながら口を開く。
「ケイトさあ」
「あ、はい」
伝票の控えに何か不備があるのだろうかと不審に思ったが、続いたのは動作とは関係のない言葉だった。
「そろそろうちの子になんない?」
「はい?」
「社員にならない、いいかげん」
「その話っすか……」
彼はどうしてかこの古株店員を気にかけてくれていて、ここ一年くらいだろうか、思い出したように口説いてくる。責任と無責任を天秤に掛けて、慧斗はいつもこの申し入れをうやむやにしていた。
「ちょっと、考えさせてもらっていいですか?」
いつも通りそう言って、即答を避ける。
「ちょっとって、どれくらいよ」
「や、二、三日でいいんで」
あー、とか、うーん、とか、どうせ曖昧で気のない返事しか期待していなかったのだろう。慧斗の答えを受けて、オーナーが意外そうに片眉を上げた。
「お?」
「……なんですか」
別にい、と、被雇用者の口癖をオーヴァーに真似て、剃刀を丁寧に当てた顎を撫でる。
「こっちとしては、ケイトに本腰入れてもらえるとほんと助かるよ。いい返事を待ってます」
「はあ」
あまりの買かぶりと、うざったいとすら思っていた厚意。
そのどちらをもあまりプレッシャーに感じなくなったのは、つい最近だ。
現場、と言われて想像していたのと、実際の乾の仕事はずいぶんギャップがあった。技術系の、系、が含む意味合いは広いらしく、システム開発に関わるのが彼の仕事なのだと言う。いわゆる技術屋。慧斗には縁のない世界であり、理工学系、という漠然としたイメージしか抱くことができないけど。
乾が営業職から本格的に現場職へ移ったおかげで、ふたりの生活リズムは、時々ではあってもぴたりと合うようになった。特に、乾の夜勤明けと慧斗の定休日が重なると、睡眠時間を除いても二十四時間以上一緒にいられる計算になる。
午前中の、自分にとっては早い時間に無理をして起きるのだって、そんなに辛くない。
腹ばいにベッドに寝そべり、理系男があちこち手を加えたノートパソコンで無料配信のミュージックビデオを観る。それまでろくにアップデートもしないOSを使っていた慧斗にとって、信じられないくらい快適なネット環境だ。
「……乾さん邦楽って聴く?」
夏だというのにファー付きのダウンを着たヴォーカルを下から仰ぐカットを、ぼんやり眺める。人気のインディーズロックバンドは、あと一歩メロディーにオリジナリティーが欲しいところだ。
「んー、そこそこ……バラードっぽいのはわりと聴けるよ、そいつら」
半分上の空でも、律儀に質問に答えて、なおかつ一言付け加えてくれるのが嬉しい。
「ふうん……」
難しそうな本に時々ボールペンで文字を書き込んでいる乾を、横目で見る。聞きなれない名前の資格を取るために、勉強中なのだそうだ。知らない数式や法律の名前がひしめく教本を、たぶん、真剣に読んでいると思う。
慧斗の視線に気付いたのだろうか、背中を向けていた乾がくるりと振り返る。
「この資格ね、持ってると給料上がるんだ」
「へえ」
「だから、ちょー真面目に勉強してる。仕事中も読んでるもん」
「へーえ、って、だめじゃないすか……」
んふふ、悪戯っぽく笑った男は、また、教本に目を落とした。
「腹減ったあ」
慧斗がうとうとし始めたのを察したように、のんびりした声が上がる。点けっぱなしのパソコンが、正午七分前を知らせていた。
「冷凍庫に、廃棄のおにぎりならありますよ」
ごろりと寝返りを打ってキッチンの方向を指差すと、憐れむような、咎めるような目線を寄越される。
「そんなんばっか食ってるから、がりがりなんだね中村くん」
「乾さんに言われたくない…」
思わず出た反論に破顔した乾が、きっと何時間か前から決めていたのに違いない、迷いなく宣言する。
「よし、うなぎ食いに行こう」
「……土用の丑の日だから?」
「お、さすが」
「や、だって、土用の丑の日に合わせて、蒲焼の特注とかやるんで」
狼狽えて弁解するのをまたふふふと笑われて恥ずかしくなり、俯いて、睨みつけた。
「乾さん、ベタですね」
「そうさあ」
楽しそうに肩を揺らした乾がベッドに向き直り、縁からだらりと降ろした慧斗の右手を恭しく持ち上げる。
「どうですか。まだ痛い?」
「全然……もう、だいじょぶ」
右手の中指の付け根より少し下、ちょうど手の甲の中心くらいの位置にできた、小さな青痣。消えかけの薄ら青いうっ血を、長い長い人差し指が軽く撫でる。
その青痣に唇が寄せられるのを、細めた目の隙間から見た。肌のきめや関節の位置を確かめるような、乾いた唇の動きを追う。
「俺」
ん?穏やかな上目遣いが、続きを促す。しばらく考えて、慧斗は恐る恐る告白した。
「オーナーの会社の社員になんないかって、ずっと言われてて」
「俺がオーナーでも言うな」
「……断わってた理由なんてほんと、しょうもない、モラトリアムな理由だけど。今は違う理由で、すげえ迷ってます」
「うん?」
「乾さんは、ちゃんと社会人だから。俺も少しはあなたに似合うようになりたい」
それを、自虐から出た言葉だと思ったのだろう。乾が今度こそ、少し強い口調で咎める。
「んなこと、きみが好きなようにすればいいよ」
「そうじゃなくて、社員になるの、今は全然嫌じゃないんです。あの…」
息継ぎには長い間を、辛抱強く待たれる沈黙。
「あの、俺が今みたいに身軽だったら、乾さんに着いてどこでも行けるけど…一回腰落ちつけちゃったら、そういうのできなくなりそうで怖い、から」
言ってしまってから後悔するまで、一秒もかからなかった。
「……やっぱ重たいな、すいません」
目蓋を下ろして遮断した外界から、
「俺も考えてんだ」
角のない声がする。
「で、考えて、今の現場に正式に着任できるように申請してます。形式上の申請だから、まず却下にはならないよ」
驚いて目を開くと視界いっぱいに、恋人の三割増真面目な顔があった。
「きみばっか、俺に合わせることはない。違う?」
崩れそうになる表情を取り繕う努力は、ほとんどする必要がなかった。横たわっていた慧斗の肩を押して仰向けた乾が、覆い被さってきたからだ。
「ね、違わないだろ?」
「……うん」
慧斗がきちんと答えてようやく、口付けが叶った。
「ん」
両腕で乾の頭を抱きながら鼻の位置をずらして、一番唇がくっつくポジションを取る。裏側どうしを密着させて、声も、息も、できるだけ漏らさないこのやり方が、慧斗にとってどれだけエロティックに感じるものか知っているだろうか。
「……ん、ふっ」
知らず痙攣した片膝に気付いたのか、乾がそっと唇を離す。間際に、んちゅ、湿った音が立った。
息遣いが意志を持つ寸前で、いつもこうやって解放されてしまう。拍子抜けするのとほっとするのとを同時に感じて、それから、ちょっとくすぐったくなる。
慧斗のことを、キスから先は何も判らないとでも思っているような扱い―――時間をかけるのを厭わないと言った男の、慧斗を初心な気分にさせてくれる振るまいがとても嬉しかった。もうしばらく、きっと先に焦れるのは自分の方だから、もうしばらくこのごっこを続けて欲しいと思う。
ベッドから身を起こして、はるか頭上を見上げる。
親指の腹で口の端を拭った乾は、その大きな口元をきゅっと引き伸ばして笑った。
「飯食い、行こっか」
平日の昼間。階段は、特別大きな音じゃなくてもよく響く。
タンッ、タンッ、タンッ、一段ずつ降りる二種類の靴音と、トーンの違う人声。
「うなぎでいい?」
「うん」
「どっかいい店知ってる?」
「全然」
「じゃ、おまかせで」
「うん、おまかせで」
「あ、そだ、あとで市役所寄っていいかな」
「……なんかあるんですか?」
「住民票移さないと、選挙に参加できないじゃん」
「はは、行くんだ選挙」
(2005.8.13)