1.
ゴト。
運搬用のケースはどんなに注意を払っても、床に置く時には重たくて鈍い音が鳴る。長方形の中にぎっしりと詰まっている、500mlの紙パック。一ケースの総重量は考えたことがない。控えめに流れる有線放送のJ-POPナンバーに半分気を取られながら、結露に薄っすら濡れた紙パックを掴む。そんなにてきぱき動かなくたってどうせ、監視カメラの映像を監視する目もない夜のコンビニ。今日みたいな週のど真ん中に深夜のシフトに入っているのは二人きりで、陳列棚の向こうにちらりと見えるレジ番の後輩も、客が切れたタイミングで大欠伸をしているところだ。
……お、売れてんな。
心の中で呟きながら確認するのは、陳列棚のすき具合。予想以上に減りが早い季節限定のパインアップルティーは、この調子なら発注個数を増やしても間違いないと考える。これから暑くなってくるし、何故か女の子はこのメーカーのフレーバードティーが好きなのだから。
待遇は単なるバイトだが、専門学生時代から四年近く働いていれば、すっかり深夜帯のチーフ扱いだ。この、生活できればいいだけのフリーター稼業にも、別段不満はなかった。
「いらっしゃいませー」
自動ドアが開くのに先に反応したのは、レジ番の後輩だ。
「いらっしゃいませー……」
後輩に続いて、声を出す。語尾が曖昧になるハキハキしない喋り方だと、自覚症状はあるのだからどうか許して欲しい。
駅前にいくつかあるコンビニの内の一軒、のこの店。今は、時間からいって最終の電車で帰って来た客、立地から言って地元の大学生、この二層が一番多いはずだ。特にここの系列のコンビニを贔屓にしている客もいるだろうし、何しろ選べるだけの件数が立ち並んでいるのだから、単に気が向いて入ってくる客だっている。
入り口から寄り道もせずに、すい、と横合いに現われた茶色い革靴の持ち主がどちらかなんて判らないし、いちいち想像して楽しむ趣味もない。真横に立たれて、すいません、とかぼそぼそ口の中で言いながら、少しだけ左にずれた。
「……ねえねえ」
「あ、はい……」
柔らかく角のない男声に呼ばれて、しゃがみ込んだまま彼を見上げる。それだけの動作が思ったより大変だったのは、その長身のせいだった。茶色い革靴から、黒のスラックス、上着は手持ちの鞄に仕舞ってあるのだろうか、ピンストライブのワイシャツの真ん中を通る赤っぽいネクタイを過ぎてようやく顎先に当たる。唇の少し下に、ひとつだけ吹き出物。
「これってうまいの?」
捉えどころのない声色によく合った、とぼけた顔つきの男が笑ってパインアップルティーを指した。
「夕方、うちの女の子が飲んでたんだよね。気になっててさあ」
独特の間の抜けた発声の理由が判り、内心で苦笑しながらほろ酔いのサラリーマンに答えてやる。
「……女の人には人気ですね」
「きみは?飲んだ?」
「や、飲んでないっす」
「半分あげるよ」
ひょい、と陳列棚から最後の一個を取り上げると、男はレジに向かった。
大股の、少しがに股。伸びた背筋と細身のスラックスとあいまって、バレエダンサーのように体重を感じさせない脚の運び方だ。
「……あ、ありがとうございます」
レジ番の後輩が他の客に応対中だと気付いて、遅れて後を追う。
お決まりのせりふがけれど、半分あげる、の部分を受けているようで一瞬戸惑うと、そう思ったのは数歩先の客も同じなのだろう、肩越しに振り向いた彼にやんわりと笑われた。大きめの口が薄い頬の肉を引っ張って笑い皺を作るのに、気まずくなって足早にレジにまわり込む。
ピッ、名札のバーコードをスキャンした後、レジ責任者欄に自分の名前が出るのを確認して、次にパインアップルティーのバーコードに機械を当てる。
「眠たい?」
ピッ、控えめな音にかぶさって訊いてくる言い種は、生徒に甘い教師が居眠りを口先ばかり咎めるのによく似ていた。そのせいか、眠くもないのについ謝ってしまう。
「……や、すいません」
けれどやる気のない店員を注意する気などなかったのだと、次の言葉ですぐに判ることになる。
「俺は眠たいー」
「……そうなんすか」
「上司の誘いは断われないよなあ…仕事終わってビル出たら、入り口に向かって歩いてくる課長に出会っちゃうんだもん。おう、の手招きに、誰が逆らえると思う?しかも相手は九州男児。九州の男が酒に強いって、ほんとだよ?あとね、マイルドセブンのライト。ソフトケースで」
「……はい」
長い前置きの最後に、煙草の追加注文。アルコールがそうするのか元々なのか、マイペースな男だ。
「だって可愛いじゃん、箱。水色で」
なにが、だって、なんだ。
長身の客に背を向けながら、聞こえなければそれでいいやと思いながらコメントする。
「エコーも箱、可愛くないすか?オレンジで…」
オレンジ色のソフトケースは、他と比べて安価なのに滅多なことでは売れない商品だ。注文通りの鮮やかな水色のケースを手に振り返ると、男は取り澄まして言った。
「んーじゃあ、エコー」
「あ、はい」
尻ポケットからまずは間違えて最新型の携帯電話を取り出し、次に正解の長財布を出す。千円札を一枚を受け取って、1、0、0、0、そして最後に客層キーの「男」「29」を押す。「二十代男性」の意味を持つデータ入力。落ち着き払った酔っ払いはどれだけ年上でもせいぜい自分との差は四、五歳だろうという見立ては、果たして正しいだろうか。会計ボタンを押す代わりの作業は、店員の直感任せだった――そっけない短髪は、ワックスやジェルでつや光りしていない。薄めの眉はたぶんほんの少しカットされているけれど、あからさまではないので合格点だ。ワイシャツにも色が入っているし、若手の営業マンというところかな。
ぼんやり考えながら、ガチャンと出て来た下段からつり銭を取り、レシートと合わせて差し出そうとして、思わずそのままストップする。
そのニ十代おそらく営業職のサラリーマンが、首と、それだけでは不十分だったらしく腰を右側に傾けてユニホームの胸元を覗き込むのに、少し身を引く。
「?」
相手は構わずに、クアクリルの名札に中細の中性マジックで書いた中村慧斗の文字を読み上げた。
「なかむら、くん」
正確には、四文字の内最初のニ文字だけだったけれど。「中村」と「くん」の間の一拍はたぶん、慧斗(けいと)の二文字を正しく読み上げられるかどうか思案した一拍だろう。
「はい?」
「上がり何時?」
「?」
「あ、が、り」
「……八時っす、けど」
唇の隙間から不明瞭に答えながら見返した慧斗の目に、猜疑の色が浮かんでいることに男は気付かなかった。慧斗と目が合うより先に、ガラスの向こうに顔を向けてしまったからだ。
「朝までに雨止むかなあ。傘持ってる?」
「や、持ってないっす、けど……」
つられて首を左に向けながら思う。雨、降ってたんだ。
横目で見た店の外は、ライトに照らされた部分だけ雨が降っているのが判る。慧斗は裏口に停めた原付バイクのことを考えた。
「じゃ、俺のあげるよ」
「や、は?」
掴みやすいように取っ手を立てたビニール袋を、長細い指がさらう。二十五円のお返しですと言えないまま握っていた三枚の硬貨を慌てて渡すと、それはそのまま募金用の瓶の中へ放られた。チャリチャリン。
くるり、と軽い動作で自動ドアへ向かった彼は、外の傘立てから一目で安物と判るビニール傘を手に戻ってくる。それほど強い雨ではないようで、傘の先からは水が垂れたりしていない。
「ここ、置いとくね」
男は白いカウンターのへりに傘の取っ手を引っ掛けて、今度こそ店を出て行ってしまった。小雨の中を、急ぐでもなくゆっくり歩いている。
「マジかよ……つか、あんたはどうすんだよ…なあ」
なあ、のタイミングで振り向いた隣りのレジでは、大学生アルバイトが面白そうに慧斗を見ていた。
「中村さん、ナンパされるの巻」
「……品出し、やろっか」
「あ、流しますか」
深夜帯の勤務には、仮眠がある。
夜の九時から翌朝の七時までのシフトは長丁場だし、何より午前一時から五時くらいの間は暇なのだ。レジの奥、事務所と名のついた休憩部屋では、寝つきのいい後輩が既に熟睡しているはずだった。
駐車スペースからにわかに光が射し、一台の車が停まる。しばらくして、ガコ……昼間よりずっとボリュームを下げたBGMだけが流れる客のいない店内に、自動ドアの開閉音が大きく響いた。カーキ色のズボンに包まれた脚を交互に動かして、サンダルをひきずりながら男が近づいて来る。白いタンクトップから出た腕は、ダンサーのように締まっている。ストレートの長髪を後ろで括ったその男が、素っ気ないトーンで予想外に自分の名前を呼んだ。
「ケイト?」
「…そうだけど」
レジに立ったまま目だけ上げる慧斗に、初対面で下の名前を呼び捨てた男が言う。
「すげえ、いいじゃん」
「………あんたは?」
「シン。東口の居酒屋で雇われ店長やってる、ノブヒロの同級。伝言頼まれたんだけど」
簡単な自己紹介の特に後半、その固有名詞で用件の大まかなところを悟る。
「……なに?」
「雨止まなそうだろ?上がりの時間きっかりに表に車着けるって。いつものじゃなくて代車だから、間違えるなってさ。色はおんなじ」
「……わざわざそんだけ、言わされに来たの?」
少しの憐れみを込めて伝令役に尋ねると、シンと名乗った男は肩を竦めて笑った。
「ケイト、ケータイどこやった?」
「……家」
「ノブヒロ切れてたぜ」
レジ番をしながらカウンターの下でメールを打っている奴なんでざらにいる。今事務所で寝息を立てている後輩にしたってそうで、携帯電話をユニホームのポケットに入れていたって注意されることはまずない環境だ。手近な連絡手段を不能にしたのはだから、ひとえに自分の無頓着な性格のせいだった。ふうん、と、気のない相槌を打つ慧斗の名前を、またシンが口にする。
「なあケイト」
「……なに」
「いくら出したらやらしてくれる?」
「は、死ね」
下卑た冗談に、下卑た応えを返す。
「つうか殺されるわな、ノブヒロの女に手ぇ出したら」
可笑しそうに上半身を揺らしながら、シンは自動ドアの向こうへ消えてしまった。
風変わりな客と伝言の主が言ったように、夜が空けて朝になっても雨は止まなかった。
自動ドアを抜けてひさしの下で立ち止まり、透明なビニール傘の白い取っ手を未練がましく握りなおす。雨降りの朝、傘を差してのんびり家まで歩くのも悪くない想像だったのに。
「……久保くん、この傘使う?」
「だってそれ、中村さんがもらったやつじゃないすか」
「知り合いが、ついでに拾ってくれることになったんだよね…」
語尾にかぶさって、ビッ、言葉通り七時ジャストにやって来た黒のエスティマが短くクラクションを鳴らす。スモークを貼った窓の奥に一寸気を取られた後輩が、気を取り直したように、遠慮がちに右手を差し出した。
「……つうか返しますよ。なんで、今日は借りていいすか?」
「どうぞ」
「助かります。じゃ、おつかれしたー」
「お疲れ」
安物の傘を手動で開いて、一足先に飛び出す後ろ姿を見送る。
助手席が内側から力強く開かれるのに急かされて、慧斗もひさしの下から踏み出す。雨粒が頬に吹きつけた気もするけれど、自動ドアから一番近い駐車スペースまでの目測1.5メートルの距離では、それもよく判らなかった。