Novel >  ベイビー、ベイビー >  Hot chocolate day

【1】
 息子の独立を待って、その夫婦はセカンドライフを送るために都会を離れた。別荘地として、また避暑地として名の通る山間の土地で、気ままに…時にスローライフの現実と直面しつつも、彼らの性格上、気ままに生活しているに違いないと確信している。自分にとっては「実家」と呼べなくもない家だが、実際には数える程しか行ったことがない。毎回カーナビと地図が頼りだった。
 母が一切の主導権を握って建てたのだろう、少女趣味のログハウス。ぼんやり外観を思い浮かべながら、固定電話のボタンを押す。しばらく待たされた後、受話器から聞こえたのは予想外にも男の声だった。
『もしもし?』
「Hi,Dad」
『Hi,Seth!』
 チャイルディッシュな息子の挨拶に、彼は弾けるように笑った。
『珍しいなぁ、摂から電話なんて』
「俺もそう思う。雪積もったみたいだけど無茶してない?元気?」
『もちろん。雪なんて、「相変わらず」積もってるだけだよ。お前も元気そうな声だけど、何かあったのか?』
 滅多なことでは電話ひとつ寄越さない息子だという自覚はあるが、まず相手を気遣ってみせるのは、一般的な電話でのスキットだ。父親の言葉に、しかし摂は大きく頷いた。
「そう!すっごい大問題を抱えててさ」
『わお、何?』
「――ママに代わってくれる?」
 何、との問いには直接答えず、本来用のある女性を指名する。電話の向こうでわざとらしいため息が聞こえ、さらにわざとらしい、悲しげな声が聞こえた。
『父親とは悲しい存在だ。子供はいくつになっても、ママがいいんだね』

 

【2】
 インターホンが鳴る。
 予定より早い。コンロの火を止めて、少し焦ったのかもしれない、なぜかキッチンを見回してしまう。今やるべきことは、インターホンの受話器を取り上げることだ。無意味な自分の行動に苦笑しながら、カウンターから上半身を乗り出し、受話器に手を伸ばした。
「はろー?」
『Hello』
 そのたったワンフレーズさえ完璧な、イギリス英語。
「開けたよ」
 摂はそれだけ言って、受話器を置く。カウンターを回ってキッチンから出る。しばらく待っているとドアが開き、長身をやや屈めるようにして入って来た男がこちらを見て、器用に片眉を上げた。
「摂、何してたの?」
 部屋じゅうに充満している匂いに、気づかないほうがどうかしている。ハンサムな顔に良いアクセントを加えている黒縁眼鏡の奥、揶揄うような目を見返して、摂は笑った。
「い、い、こ、と。してたの」
「What?Please,tell me」
 言語を変える作戦には乗らず、ノアを手招く。分厚いジャケットに包まれた大きな背中を押しながらキッチンへ通すと、ミルクパンの中を見た彼が楽しそうな声を上げた。
「ホットチョコレート?」
「の、作りかけ。誰かさんが早く着きすぎたから」
 そーりーと笑って、ノアはフィルムを剥がしかけのチョコレート片に気づいたよう。
「つまみ食い、したね?」
「その憶測、立証できる?」
「…では遠慮なく」
 冷たい手が頬に添えられ、唇が重なる。ちゅう、と吸い出し、味わうような数秒の間の後、微笑の鼻息がかかった。ふふっ。

 

【3】
「子供の頃、冬の寒い日っていえばホットチョコレートだったんだよね」
「ええ、わかります。ココアじゃなくて」
「そう、ホットチョコレート。もー、今日みたいな日は絶対でしょ?ネットで調べたり、さくらちゃ…姉に訊いたりしたんだけど、その通りに作ってもどーしてもイマイチでさぁ。とうとう母親に電話した」
「ははは、執念だ」
「Ya」
 最後、表面に浮かぶツブツブを茶漉しで漉して、マグカップに注ぐ。牛乳、生クリーム、チョコレート、砂糖、シナモン。そこまでは完璧だった。
「答えられないってわかってて訊くけど。何が足りなかったと思う?」
 摂の言い方に怒るでもなく破顔して、肩を竦める。家庭科に疎い男の子の典型、ノアは最初からギブアップだ。彼にマグカップを渡しながら、秘密兵器を明かすことにする。
「黒胡椒だって。粒をね、ひとつだけ」
「へぇ」
 穏やかな相槌を打って、カップの中に視線を落とす。
「頂いても?」
「どうぞ、召し上がれ」
 唇をつけたノアが、お約束、熱そうに眉をしかめる。彼に続いて自分もカップに口をつけ、熱い熱いチョコレートを舌に乗せた。少しざらついた、でも滑らかな液体が、喉を伝って腹の中に流れていく。熱さだけが取り残されたような感覚の後、甘くてスパイシーな風味が広がる。シナモンの辛味だけでは足りないのだが、ではどのあたりが黒胡椒かと考えても、はっきりその存在を探し当てた自信はない。ただ、この味でなければ、この寒さが心躍るような温かさには変化しないのだ。
「おいしい」
「ありがと…ねぇ、ノア」
 カップを置いて、彼の腰を抱く。素早く察したノアも飲みかけのカップを置いて、摂の肩を抱き寄せた。ココア色の液体のついた唇を舐めあって、舌を絡める。ミルクたっぷりのキスが終わる頃には、ホットチョコレートが適温になるだろう。

 
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