Novel >  KEITO >  Dec.8 1

1.

 誕生日は?と訊かれた時の常套句がある。
 気付いてもらえればちょっと仲間意識みたいなものを感じるし、気付いてもらえなかったらそれで構わない。興味のない人にとっては、歴史になるには新しすぎる、過去のセンセーショナルな出来事にすぎないのだと思う。自分だって別に、彼の信奉者というわけじゃない。
「もうすぐだね」
「…はい?」
 お互いのどちらの部屋でも冷蔵庫にはビールが常備されていて、特に慧斗は、冬に飲むビールの方が好きなくらいだ。慧斗がプルタブを開けるのを待って、その缶ビールにクヮン、自分のビールを軽くぶつけて乾が言う。
「ジョン・レノンの命日」
「あ…そうですね」
「おーい?」
 こうやってせっかく揶揄ってくれているいうのに、気の利かない返事しかできない。愉快そうに笑う恋人は、ノーヒントで慧斗の誕生日を当てた人物の一人だ。
 乾は一口、二口、ビールを飲んでから、回想するように目を細める。
「…中村くん、ジョン・レノンが生きてるうちに生まれてないもんなあ」
「乾さんだって…」
「そうだっけ」
「そうだっけって」
「まあまあ、そんなことより」
 大したこだわりはないのだろう、無責任に言って、話題はさらりと本筋に乗った。
「なに欲しい?」
「や、別に…」
 ぬっと手が伸びるのに驚いて首を竦めると、耳たぶを摘まれる。きゅ。
「ピアスは―――もうできないもんね。アクセ系?それとも靴とか、服とか…CD?CDはないかあ」
 高校二年の夏休みに開けた、左耳のピアスホール。二十歳を過ぎたくらいまではしていたのだが、なんとなく外してしまって以来、気が向かず一度も付けていない。その内に穴は塞がり、今では見た目にその存在は判らない。けれど皮膚の下には小さなしこりが残っていて、彼はそのしこりを触るのが好きなのだ。こんなふうに指で摘むこともあるし、時々は、歯を立てたり唇で挟んだり。
「別にいいです、ほんと、そんな」
 彼の手から奪い返した耳をさすりながら、乾を睨む。その眉間の中心を今度は指先で突付いて、乾は仕方ないなあと大きな口元を弛めた。
「考えといてって、言わなかった?」
「だって…」
「ねだっていいのに」
「うん…」
 アルミの冷たい縁に唇をつけて、上目遣いで乾を見る。アクセサリー?服?靴?それともお気に入りのアーティストの新譜とか?狙ってるアルバムがいくつもあるから、純粋に嬉しいかも、と思う。けれど、どれもとても魅力的なのだけど、何か一つを決めてもそれが一番欲しいものだという自信がない。困り果てる慧斗に、乾は穏やかな印象の眉を少し下げて返答を催促した。誕生日までもう間がないのだから、と。
「ほらあ。俺が勝手に決めちゃうよ?」
 そう。自分にとっては冗談混じりのその言葉のほうがよほど、心強い。
「それがいい」
「んっ?」
 普段落ち気味の目蓋大きく開き、もう一度お願い、の合図。フレーズは簡潔すぎて、彼にしっかり届かなかったよう。
「あの。乾さんが考えて、決めてくれたら…いいなって」
 今度はちゃんと組みたてた文章だったのに。乾は破顔するのと渋面を作るのとの中間、実に複雑な顔つきになって、片頬を撫でた。うーん、と唸って、小首を傾げる。
「…きみは、ズルさせてくれない子だ」
「ズル?」
「はは。俺の宿題だな…うん、ちゃんと考えて決めるから」
 訊き返した慧斗には微苦笑を向けて、彼はそうとだけ約束してくれた。
 それが、一週間と少し前の出来事だ。

 

 午前七時に、夜勤シフトの仕事が終わる。
「おはよー」
「おす、おはよ」
 レジ裏の事務所で、出勤した昼勤の店員と挨拶を交わす。
「あ、中村くん」
「ん?」
 パソコンの勤怠画面を開いて名札をスキャンしていた彼女が、ユニフォームのポケットを探り、取り出したものを慧斗に向かって放る。
 慌てて差し出した手でそれをキャッチすると、年上のベテラン店員はにかっと笑った。
「それプレゼント。おめでと」
 彼女からのプレゼントは、鮮やかな青色のケース。愛飲の煙草だ。
「お。サンキュ」
 慧斗はそれを軽く振って見せて、自分のユニフォームに仕舞い込んだ。
 愛煙家へのプレゼントは、実にシンプルなものである。一個目は深夜シフトの同僚から、二個目はさっきレジに入った昼勤の店員から、そして彼女からの贈り物で三個目。日付が変わってすぐにもらった一箱はもう、数本を残すだけだけれど。
 事務所の壁掛けカレンダーには、店員の休日や、変則の出勤時刻が書き込まれている。そして本日の日付には、赤いサインペン書きのダイナミックなハートマークでデコレーションが施されているのだった。ナカムラ休み、と慧斗が書き込んだその下に、女の子らしい強い癖字で、ナカムラさんbirthdayの書き込み。慧斗だけの特別扱いではなく、店員同士の恒例行事なのだ。
「いくつになるのかなあ?」
 この間彼女とは、その話をしたばかり。
「ナイショ。お疲れ」
 揶揄い口調にはとぼけて返して、慧斗は事務所を出た。
 バックルームでユニフォームを脱いで、店を出る。朝の冷気に、真っ白い息が大げさなくらいに広がる。ゴーグルを嵌め、ヘルメットを被ってバイザーを下ろし、パーカーのフードを上げる。両手には分厚いグローブを嵌めて、冷たいシートに跨った。
 溶け出す寸前の、凍ったアスファルト。
 ウィンカーを右に出して、走り慣れた路面に滑りだした。

 

 アパートには戻らず、部屋に直接来るようにと言いつけられている。
 青い車が停まっているのを確認し、駐車場のデッド・スペースに原付バイクを留める。階段を上がる間にフードを下ろし、手袋を外し、ヘルメットを外してゴーグルを首にぶら下げる。203のドアホンを鳴らすとすぐに、内側からドアが開けられた。
「お帰り」
「…ただいま」
 簡単な挨拶を交わして、温かい部屋に招き入れられる。
 脱いだパーカーを受け取ってくれた彼が、少しこちらに屈み込んで、キス。長い鼻筋に自分のそれをくっ付けてやると、
「うわ、冷てえなあ」
 乾は眉をしかめて笑った。その冷たい慧斗の鼻を摘み、頬を撫で、髪をすいてくれる。
「髪の毛まで冷たい。外、寒かっただろ」
「うん、あ、でも…慣れてるし」
 外が寒かったから。なんて程度のことで労られるのは恥ずかしい。慧斗は言い訳するように、最後にそう付け加えた。そんな思考回路は、くっくっ、喉の奥で笑う彼にはお見通しなんだろうか。
「あったまってて。ごちそう出すから、あ、嘘だけどねごちそうは」
 問い返す間も与えずに完結させて、悪戯っぽく慧斗を見る。このペースが、乾のペース。一瞬口篭もり、慧斗はようやく彼の冗談に笑うことができた。
「…じゃなくて。乾さんが作ったんですか?」
「そこか。だいじょぶ、食ったら美味かった。前は凝っててよく作ってたし、俺器用だからねえ」
 事実なので、反論する必要はない。座ってて、そう指差すのに従って慧斗が大人しくベッドに腰掛けると、乾はキッチンに引き返して行った。
 コンロに火が点く音とか、食器の鳴る音とかを聴きながら、ぱたんとベッドに倒れ込む。柔らかい布団に頬を擦りつけ、抱きしめていると、長い脚の一部が視界いっぱいに広がった。咎めるものではない、苦笑の気配。
「おおい中村くん、起きてるか?」
「…寝てないです。死ぬほど仮眠とってきたから、元気」
「いいね、死ぬほど。食えないもの入ってないはずだけど、あったらごめんね」
 あらかじめの謝罪はさらっとしすぎていて、慧斗はまた、返事をするタイミングを逃してしまった。
 ローテーブルに並んだ皿の数は、少ないものだった。感激すべきは、一皿分の料理を作るための手間だろう。デミグラスソースから作った、牛タンの煮込み。丸ごとのキャベツ、にんじん、じゃがいも、かぶなどの入ったチキンベースのポトフは、セロリの良い香りがした。四、五センチに分厚くカットした食パンは軽くトーストされていて、これは買ったのだと乾は言ったが、駅ビルのパン屋はこの辺りで一番の高級店だ。
「すごい」
 慧斗はテーブルの前で体育座りになって、一品出されるごとに、そう感歎するほかなかった。
「すごい、乾さん…」
 普段沈んだトーンの自分の声も、この時ばかりは違ったと思う。俄かシェフは最後に、冷蔵庫から一本のボトルを取り出した。
「俺も詳しくないから。ちょっと調べて…良さそうなのを選んでみました」
 白ワインのボトルが、ゴトン、と置かれる。赤ワインが苦手な慧斗のためのチョイス。グレープジュースも苦手なので、筋は通っているはずと思っている。乾は銘柄を披露するような気障なことはせずに、あっさりコルクを抜いてしまった。コンッ、空気圧の高いボトルの栓が抜かれて、湯気のようなものが立つ。
「これ。グラス、買ったの?」
「買いましたが。なにか?」
 今日のために二脚のワイングラスを揃えたのだと、しれっと肯定して、透明なオフホワイトの液体を均等に注ぐ。最後少しボトルを高くして、捻り、口から垂れるワインを素早く拭き取るやり方はさながら給仕の仕草で。
「持って?」
 言葉どおりにグラスを持つと、向い合った乾も同じようにグラスを手にする。
 ふふっ、耐えきれずに忍び笑いを漏らすと、
「こら、照れない」
 叱られた。
「誕生日おめでとう。きみにとって、素晴らしい一年でありますように」
 軽く軽く、グラスを合わせる。
 唇を湿らせて舐めると、甘さのない、爽やかな辛味があった。

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