Novel >  拍手おまけ >  2015年末~2016年始 不定期SS4

 リビングに入ってすぐ、ページの開かれたままの本が目に入る。テレビの音だけが響く無人の空間で、まるで「待て」の命令を忠実に守るような佇まい。この秋に訪れた芸術家のグループ展で手に入れた、「礼央さん江」のサインまで入った絵本だ。床から拾い上げ、繊細な線と淡い色使いのページをぱらりとめくる。
「ケーイチー、いるー?」
 程なくして、奥のキッチンから持ち主に呼び掛けられる。
「いるよ」
「ちょっと、取り来て」
「はいはい」
 恵以知は閉じた絵本をテーブルに置き、キッチンを覗き込んだ。
 うなじを隠すほどに伸びた金髪を、今は後ろで一つに括った臨戦態勢。
「こっち、ケーイチの分ね」
 たっぷりと湯気を立ちのぼらせたどんぶりを、両手で受け取る。さっきからずっと、この出汁のにおいに五感の大半を囚われていたのだ。つられてふらふらと書斎を出てきたと言っていい。
「うまそうだね」
「蕎麦茹でて、つゆ作っただけだよ」
「だけって言わないだろ、それは」
「てんぷらは、買ったやつだし」
 なぜか拗ねたように唇を尖らせて、礼央が呟く。
「来年はてんぷらもやってみようかな」
 年越しそばなど作る内に、どうやら料理魂に火がついたらしい。野菜の皮さえ満足に剥けなかった幼い彼は、もはや記憶の中にしかいない。自分はと言えば、あの頃からほぼ変わらず、野菜の皮さえ満足に剥けないままでいる。
「早く。のびる前に食べようよ」
 しなやかな手のひらの感触が、感傷ごと恵以知の背中を押した。

※絵本入手の経緯は、現在委託販売中の「」にて書いております

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