5.
トイレ掃除は当番制で、特に決まった時間が設けられているわけではない。客が少なく自分の手が空いているような時間、慧斗の場合、深夜のシフトならば仮眠の前か後の明け方に行うことが多い。
洗ったモップを堅く絞って、バケツの中に立て掛ける。ゴム手袋を外し、後は手を洗うだけだ。ハンドソープのポンプを押しながら、ちらりと鏡の中の自分に気付き、目を伏せる。水道の水を出しっぱなしのままバシャバシャと手を洗い、蛇口を閉めると、視線は抗い切れずに鏡の中に誘導された。
明け方近くの、ぼうっと冴えない顔。
目にかかって邪魔な前髪の房を、濡れた指先で摘んでまとめる。慧斗はそのまま手の甲で、唇をきつく拭った。一度では足りず、何度も。
確かな記憶なのか、それとも単なる幻覚なのかは判らない。生温かい柔らかさが唇を這う感触とか、痺れを伴う吸引力とか。たとえば鏡に一瞬映る、そんなふとしたきっかけで意識がそれらを追い掛け出して、その度にこの感触を打ち消す方法はないのだと思い知らされる。
シンメトリーな世界を睨みつけ、下唇を強く噛む。それさえキスを想像させずにいられない感覚だなんてバカげてる。鏡に飛び跳ねた水滴をユニフォームの袖口で擦り落とすと、慧斗は鏡に背を向けた。
｢ケイト｣
カウンターに戻ると、同じく深夜シフトのバイト仲間に呼ばれる。首だけ傾げて用件を促すと、彼は休憩室を指差して言った。
｢さっきケータイ鳴ってたぜ｣
｢…いいよ、ほっといて｣
｢切っとけばいいじゃん、出たくないなら。俺ならそうするけどね｣
｢ごめんね、バカで｣
｢拗ねたよ、かわいー｣
｢むかつく…｣
慧斗より少し遅れて入った、一歳年上の男だ。フリーターの泰祐(たいすけ)とは、シフトがかぶる日が多いこともあってかなり打ち解けていた。
こんな時間に慧斗の携帯電話を鳴らす人物なんて一人しかいないし、もう実際に何度か、彼からの電話を無視している。泰祐の言うように、その一人の人物からの電話に本当に出たくないのなら、電源ごと切っておけばいいのだと思う。自分自身をこれほど持て余ます経験は、今までなかった。
その週の金曜はバイトのない日だったので、授業を終えるとフリーの身になる。クラスメイトたちと呑みに行く気分でもなかったので、バイクを言い訳にして誘いを断わった。バイト先から持ち帰って冷凍してある食糧で適当な夕食を済ませ、早々にシャワーを浴びた後は、寝転がりながら買い置きの小説を読むことにする。
分厚いミステリ小説の、膨大な文字の中にダイブすれば、時間感覚なんてなくなってしまう。最大ボリュームで鳴り出した携帯電話によって現実に引き戻された時、目覚し時計の針は0時を少し過ぎていた。チカチカ光るディスプレイに佐藤信広の文字が浮かび上がっているのを読み取ると、慧斗は反射的に終話ボタンを押した。
また、切ってしまった。罪悪感、そして、もう一度鳴らされることを期待する気持ちと拒絶する気持ちがない交ぜになり、喉元に胸焼けに似た苦い熱が集まる。携帯電話を握り締めたまま緊張し続けることはできず、その情況から逃げ出すように電源をオフにした。
｢あー…どこまで読んだっけ｣
思わず閉じてしまった単行本に向かって尋ねても、答えはない。
ベッドから降りて水を飲むと、何となく気持ちが萎えてしまう。テレビの深夜番組を十五分ほどザッピングしていたが、特に面白い番組もなく、再びハードカバーに手をやったところで物音を聞いた。ドン、重々しくドアが叩かれ、
｢ケイト｣
静まりかえった廊下に低い声が響き渡る。慧斗は焦って立ち上がり、ドアを開けた。
｢響くから、声…チャイム鳴らせばいいじゃん｣
常識的な非難は、無視される。信広は蹴り遣るようにサンダルを脱いで部屋に上がり込むと、プラチナブロンドの頭を振って笑った。
｢チャイム鳴らして？これ以上居留守使われたら？たまんねえっての｣
決めつける口調は、慧斗に弁解を許さない。
｢あ…｣
｢キレるって意味だぜ｣
言われると同時に目の前に、リングの嵌った手のひらが迫り、びくりと首を縮める。ほんのわずかに感じた恐怖はけれど、勝手な思い違いだったよう。信広は、自然乾燥でぱさぱさの慧斗の髪を乱暴に掻き回すと、少し強い力で頭を小突いただけだった。けれど、ふざけ合う時のような仕種と裏腹に、見返した瞳の色はどこにも冗談じみたところがない。
｢俺のことさんざ振り回して、そんなに楽しいの｣
｢何、言ってんの…｣
｢言葉通りだよ。どういうつもりかって、訊いてんの｣
低いトーンに、ちらりと苛立ちの抑揚が混じる。それを感じても、慧斗にとっては何故自分が責められなければいけないのか、その理不尽さに対する不満の方が大きかった。
｢――そんなの、俺が訊きたいんだけど｣
俯き、裸足のつま先を睨みつけて、顔を上げる。
｢電話されたって、どうやって出ればいいか判んない。なに話せばいいの？あんなことあった後、俺、普通になんてできないし。先輩がどれだけ本気なのかとか、全部が冗談なのかとか、考えたって判んないし、正直関係ない。俺は、普通になんてできないから｣
｢だからなんで――そうやって自己完結してるくらいなら、電話出ろって言ってんだよ｣
｢出れるわけないじゃん！｣
感情の高ぶりに任せて両腕を振り下ろすと、
｢出なかったら話せねえだろ、俺だって！｣
信広もまた激高したように、ユニットバスのドアに拳を叩きつけた。ドッ、鈍い音がして、簡単な造りのドアが衝撃に耐えられず不安げに振動する。気に入らないからと物に当たる、幼稚で乱暴な行為だ。慧斗は半袖のＴシャツから剥き出しになっている力強いフォルムの腕を一瞥し、俯いた。
上目遣いで見た信広は、はぁ、オーヴァーなため息を吐いて、ごわごわの髪を指で摘んで捻る。
｢…じゃあ。どうしたらよかったわけ、俺は｣
唇を突き出すような、子供っぽい言い方。指先はしきりに髪の房を摘んでは捻り、落ち着かない様子に思える。
｢…何？｣
動物的な勘で、窺う慧斗の視線を感じたのだろう。けれど、縦の瞳孔が見えそうなほどぎろりとした目で睨まれても、平気だった。
｢先輩、困ってんの…？｣
探るように呟くと、目瞬きの合間に見える信広の表情が動く。
｢だったら、何｣
｢…べつに｣
ふふ、慧斗が笑うと、眉間にきゅっと皺を寄せて、信広がしかめ面になった。
｢――お前の。そういうとこが、ほんっとわかんねえ｣
両手で肩を掴まれ、一度、その力が後ろに押すような作用で働いた後、逞しい胸に引き寄せられる。長身を屈めるようにして信広は、自分の額を慧斗の額に合わせた。
｢俺のこと好きだから、拒まないんだろ？｣
｢なに、自惚れてんの…｣
｢ぁん？｣
精一杯の強情も、語尾が震えてしまったら意味がない。きついきつい眼差しがゆっくりと細まって、耳元にそのフレーズが吹き込まれた。
｢好きだよ、ケイト｣
軽く噛んだり、舌先でなぞったり。唇がふやけてしまいそうなキスをする。口の端から溢れた唾液をぺろりと舐め取られ、信広の首に巻きつけた腕に力を込めると、腰を掴む力も強まる。自然に、凹凸を合わせるように身体は密着の度合いを増していき、太腿の付け根あたりに押しつけられたその存在が慧斗を我に返らせた。
｢ちょっ…先輩｣
｢何？｣
｢俺、そんなつもりないんだけど｣
｢俺はある｣
｢マジで、待ってよ｣
腕を解いて、信広の胸を押し返す。ジーンズの生地越しでもわかる臨戦モードの信広の硬度は、慧斗がストップをかけたくらいでは柔軟さを取り戻せなかった。
｢なんでだよ。好きって、エッチしたいって意味じゃん｣
｢意味じゃねえよっ｣
また擦りつけられて、反論が上ずる。
｢したい。お前としたくて全然、他のやつだとノらなかった｣
｢…誰｣
｢バカ。ノらなかったから、やってねえの｣
Ｔシャツの裾から侵入した指が、背筋の数センチを往復する。たぶん、鳥肌が立った。
｢なあ、俺、順番だって守ったろ？｣
｢順番？｣
｢ちゃんと、好きって確かめて、キスして――ケイト、しようぜ｣
むちゃくちゃな理論展開の意味は、つまり理屈じゃないってこと。何故か得意げな顔をするから、笑ってしまった。
ベッドに乗っていた単行本を、手で払って落とす。ゴト、フローリングが大きく鳴ったが、Ｔシャツを脱ぐのに夢中で構っていられなかった。上半身裸になって、手脚を絡め合うようにしてもつれ込む。蒸し暑い夜の、健康的に汗ばんだ信広の胸が、慧斗の胸にぴったりと合わさった。
｢あ…これ｣
｢ん？｣
覆い被さる信広の左耳に気付き、手を伸ばす。肘がシーツを擦る時によそよそしい冷たさを感じ、その感覚に不思議な気持ちになりながら、二つのピアスをつけた耳たぶを引っ張った。
｢あげたんじゃなかったの？｣
二つのうち一つ、凝った銀細工のピアスは、片方を慧斗に、もう片方を別の人間に譲ったはずのアイテムだ。慧斗はそれを返した憶えがないから、推理するなら一つの仮説しか浮かばない。
｢取り返した。片方しかなくても、お気に入りだし｣
都合の良いストーリーに、ピアスの片割れの行方に一度は失望させられたことを忘れそうになる。慧斗は信広の頭を引き寄せて、重たそうな耳たぶを噛んだ。金具のえぐみが、口の中に広がる。
くっくっ、嬉しそうに笑う気配に、さらにきつく歯を立てる。
｢痛いって、ケイト｣
やっぱり喜ぶ口ぶり。
少しの間慧斗の自由にさせていたが、やがて頭を振ってそれから逃れ、信広は慧斗の前髪を何度かかき上げた。露わになった額に唇を当てると、鼻筋、鼻先、そして唇にキスを降ろす。
唇をしっかり合わせて、舌を結ぶ。鼻息がすぐに荒くなり、それを抑えようとすれば酸素が足りずに息が上がる。
｢は…｣
解放されて大きく呼吸をすると、喉がきゅうっと鳴った。火照った頬を撫でられ、息遣いに紛れるくらいの小声で囁かれる。
｢ケイト、俺の言うこと聞いてればいいから｣
イエスとかノーとか、ホワイとか、返事を期待されていないことはすぐに判った。ジャージと下着を膝まで下ろされ、
｢こっち、脚、上げて｣
誘導に従って全部が脱がされる。立てた左右の膝頭にもキスを受け、開かれると、信広の目線を意識して中心に熱が集まった。ふふっ、満足そうな忍び笑いを漏らしながら、信広が慧斗のペニスに触れる。
｢…ぁ｣
小さく声を上げてしまったが、
｢あっ、あ…｣
ちょうど良い握力で握られたままスライドされて、すぐにもっと露わな声になる。自分の左手、程度の違和感とは比べ物にならない快感。誰かの手で触られるのは初めてだった。下腹に力が入り、ぐるぐるとうねる。
｢んっ…あ、先輩｣
｢うん？｣
｢ふっ、う…んっ｣
どくり…とく……とろ。三回に分けて吐精し、射精感に全身が満たされる。胸で大きく息をしながら、慧斗は呆然と信広を見上げた。
｢…先輩、あの、ごめん｣
｢なんで謝んの。気持ち良かった？｣
｢うん…｣
｢じゃあ、俺の番でもいい？｣
｢…いいよ｣
頷くと、ペニスの下、慧斗の内部に進むならこの場所から入るしかない、小さな穴に爪先が挿れられる。
｢やべえ…小さいな、ここ｣
｢あ、ごめん｣
｢だから。なんで謝んだよ｣
呆れたように笑われて、指がゆっくりと指し込まれた。まずは道しるべの一本目。次に、内側の筋肉を掻き分けるように二本目。それを均すために三本目が挿れられて、その圧迫感は実際信広の指を咥えている部分だけでなく、脳みそまで窮屈にする。
ぼうっとその感覚に身を委ねていると、突然、栓が抜かれたように空気圧が下がる錯覚。
｢ケイト？｣
｢…あ、なに？｣
｢触って｣
｢うん…｣
下ろしたジーンズ、濃い下の毛の間からこちらに向かって突き出している、信広のペニス。くすんだ色と、体格に見合った太さのそれに、言われた通り指を這わせた。ナイーブな薄さの皮膚の下で、心臓と同じペース、今ならやや早く脈打っているのが判る。軽く数回手首を動かしただけで、信広は煩そうに慧斗の手を退けた。
｢いれるね｣
｢ん――あぅっ｣
予告の役割は果たさない、言葉と同じタイミングで挿入されて、うめき声が押し出される。
キャパシティを越えた異物感に、頭が働かない。なんか入ってる…判るのはそれくらいで、太さとか長さとか、そういうの、越えてる。信広が慧斗の中で収まり具合を確かめるように動くたび、きりきりと信じられないような痛みが走るのだった。
｢ケイト、すげえ、いい…狭い｣
｢痛っ…先輩｣
｢俺も痛い…なんか、お前に食いちぎられそう｣
うっとりと喘ぐ信広と、ただ異物感と痛みしかない自分の、温度差といったら酷いものだろう。ゆるゆるとグラインドしていたペニスが、ピストンに運動を切りかえる。
｢うっ…あっ、あっ、んっ！｣
｢ケイトっ…｣
胸に胸を添わせるように慧斗に覆い被さり、腰だけを激しく前後させる信広。
ノブヒロ先輩って、セックスの時、こんなふうにするんだ。ノブヒロ先輩とするって、こんなかんじなんだ。当事者になっているという、その事実だけが妙にリアルで、他のことは全部、夢心地に感じる。力の入らない両膝は揺さ振られるがままで、自分のパーツじゃないみたい。筋肉質の背中にしがみ付きながら、慧斗は目を瞑り、嵐が去るのを待った。