Novel >  KEITO >  飛べない魚4

4.

 一人暮しに冷静になってくると、平日の夕方以降とか、土日に時間を持て余す自分に気付き、アルバイトを意識するようになる。
 仕送りだけに頼って生活するつもりは最初からなかったから、情報誌や学校の掲示板はこまめにチェックしていた。自然と店頭広告なんかにも目が行くようになっていたのだろう、たまたま立ち寄った駅前のコンビニの、アルバイト募集の広告がきっかけだった。
 インスタントの証明写真を貼った履歴書を携えて、その店のオーナーという人物と面接をする。履歴書の内容をただ復唱し、確認するようなやりとりの後、後日連絡とかいう面倒なことはなく採用が決まった。主に深夜のシフトに入ることになったが、元々が夜型の上、学校も早い日では三時、遅い日でも四時半には終わるので、それほど辛いようなことはない。原付バイクをローンで購入し、当面はその返済が目的になりそうだった。

 

 六月の半ば、はっきりとした境目などなく、梅雨は始まっていた。
 最後のコマが終わっても慌てて帰る理由はなく、慧斗はざわつく講義室から人が退くのを待っていた。生徒が一斉に帰ると、ホールや正面玄関、それから階段さえ、さながら話題作を上映した後の映画館みたいな混雑になるからだ。
「中村は?今日、原付?」
「歩き…晴れない方に賭けた」
「負けじゃん。俺もだけど」
 同じように人ごみを避けたいクラスメイトが、机の上にどかりと座ってこちらを振り向く。
「なあ、明日、土曜日ってバイト入れてる?」
「えーと…」
 出勤日は不規則で、すぐには答えられない。携帯電話を操作してカレンダーを表示させると、何のマークもついていなかった。
「入ってない。なんで?」
「ライブやるけど来ない?OZっていうライブハウスなんだけど」
「ああ、知ってる。お前どんなのやってんだっけ?」
「ハイスタとかのコピー」
 そんなキーワードだけで、容易に音が想像できる。正直、あまり好みではなかった。
「券だけ買っとくよ。行けるかは判んない」
 慧斗がそう言いながら財布を取り出すと、彼は済まなそうに笑った。
「悪いね」
「どういたしまして。いくら?」
 本気か遊びかに関係なく、アマチュアバンドを組んでいる奴はたいてい、チケットさばきに苦労している。千円札と交換に引き取ったチケットを札入れに仕舞い、連れ立って講義室を出た。玄関の前で彼と別れ、歩きながら音楽プレーヤーのイヤホンを伸ばす。リモコンの電源をオンにするより早く、携帯電話が鳴り出した。
「…もしもし」
『ケイト、明日空けとけ』
 開口一番、ぶしつけな命令。
「バイトあるんだけど」
 咄嗟に嘘が口をつくが、慧斗の言葉が真実かどうかなんて関係ないのだろう。
『バイトバイトって、そんなに働いて家でも建てんのかよ。休めよ、たまには』
 キリギリスは途端に不満そうな口ぶりで、慧斗を責める。
 バイトを始めてから、信広の誘いに乗る回数が少し減った。実際にバイトがある時もあるし、今のように、それを口実に断わることもある。信広一人と会うだけなら気が楽なのだが、社交的な性格ではない自分は、社交性の塊のような彼のコミュニティーを苦手にしていた。慧斗の心を読んだように、信広が声色を和らげる。
『駅前の居酒屋。合コンとかじゃねえし、男メンバーばっかだからさ。来な』
 言い方が優しくなったからって、命令性が薄れるわけじゃない。財布の中のチケットは、やはり無駄になる運命のようだった。

 

 学校が週休二日なので、土日はバイトさえなければ完全フリーだ。
 朝から降っていた雨は夕方近くに止み、雨が降ってるから行かない、なんて言い訳さえ慧斗に許さなかった。現地集合の居酒屋には、時間より少し遅れて到着する。早くに着いてしまって一人でまごつくくらいなら、全員揃ったところに遅れて行った方がマシだと思っている。好奇の視線が一度に注がれても、仕方なかった。
「電話しようと思ってたんだけど?」
「ごめん…」
 信広の隣りに腰掛けると、頭を小突かれる。
「ケイトって、その子か」
「ノブヒロの後輩」
「そ、手ぇ出すなよ」
「ははっ、出さねえよ」
 笑い合う彼らとは、全員と初対面だ。と言うか、ほとんど毎回が慧斗にとって初対面のメンバーで、いつになったら一周するんだろうかと呆れた気分にもなる。
 メンバーが変わったからって、慧斗にはあまり関わりのない仲間内の話題に終始しがちなのは変わらない。そもそも仲間内での集まりなのだから、それも仕方ないのだろうけれど。それでも今夜のテーブルは、かなりまともだと思う。自分も含めて六人の小編成で、全員男。酒に酔ってやたらにハイテンションになる奴もいないし、結構、落ち着いた感じだ。思い出したように誰かが慧斗に話題を振ってくるのが、ありがたくも迷惑だった。こんなふうに細かいフォローは、慧斗をこの店に呼び出した張本人にはできないとは言え。
 アルコールの分解が早い体質らしく、後半になるとトイレに立つ回数が多くなる。
 トイレが混んでいたためしばらくドアの外で待ってから、中に入る。用を足していると、隣りに、見知った人物が並んだ。
「楽しんでる?」
 この、坊主頭に鼻ピアスの男が、メンバーの中で特に気配りのできる人物らしいと気付いていた。横合いから訊かれて、曖昧に答える。
「まあ…楽しんでます」
 遣り取りはたったそれだけで、慧斗は手を洗い、トイレから出ようとする。
「あ。ケイト」
「なんすか」
 信広が基準になるので、彼の友達からは名前を呼び捨てられる率が高い。何気なく振り返ると、軽く肩を掴まれる。
「ケイトって、実際どうなの?」
「どうって…」
「ノブヒロと」
「は?」
「俺、両方いけるんだけどさ。どうせなら、きれいな子がいいじゃん」
 言っている意味が判らない。わずかに背の高い相手を、胡乱に目線だけで見上げる。
「…避けねえのな」
 彼は可笑しそうに笑うと、慧斗の頬に唇を寄せた。熱い鍋の取っ手を掴んでしまった時と、原理は同じだ。反射的に腕が動き、胸板を肘で突く。反撃を受けて息を飲み、次に咳込んだことに、同情などできる理由がなかった。
「ってえ…」
「ふざけんな」
「なぁ、今さら純情ぶる?」
 冗談の範疇で収まると確信している、茶化すような口調。慧斗は無言でドアを開けた。今さらって、純情ぶるって、俺をどんな人間だと思ってるんだ。イメージ撤回、やっぱろくな奴いない、最低。

 

 そのまま店を出てしまおうと思ったのだが、携帯電話を置き忘れたことに気付き、テーブルに戻る。少し遅れて何食わぬ顔で戻って来た男のことは、無視。財布から抜き取った三千円の上に、重石代わりに灰皿を置く。
「気分悪いから、帰る」
 火を着けたばかりと見える、まっすぐに長い煙草の灰をどこか神経質な手つきで落としながら、信広が笑う。
「…ザルのお前が。酔った?」
「平気」
 それだけ言って、慧斗は席を離れた。通路を曲がろうとしたところで、Tシャツの後ろ襟を、くい、引っ張られる。
「おい」
「何…」
「俺だって気分悪いっつうの。何だよお前、勝手に帰ってんじゃねえよ」
「気分悪いってだけじゃ、帰る理由になんないのかよ」
 ハイスタのコピーバンドでも観てたほうが、まだマシだった。苛々と言い返すと、信広はペンダントのチェーンを直しながら、男っぽい眉を下げる。
「何が気に入らないの。言ってみな」
「…あいつ、名前忘れたけど、坊主で…鼻ピの」
「ああ、シゲ?」
「知らないけど。あいつに、変なことされそうになった」
「変なことって?」
「キス」
「されたの?」
 その眉が不愉快そうにきつく上がり、
「ほっぺたに…」
 慧斗の答えにまた、下がる。
「なんだ、未遂かよ」
「未遂じゃねえよ」
 十八歳になってもキスさえ未経験だってことを、奥手と笑われても反論できない。だけど。好きでもない、嫌いと思える相手の唇が、たとえ唇にでなくても自分の身体のどこかに触れることが、これほど不快なことだとは知らなかった。
「バカだねケイト」
 左の頬を何度も擦る慧斗の手を、信広が強引に剥がす。
「どうせ」
 苛立った気分のまま睨みつけると、ひりひりと熱い頬を、ペチ、叩かれた。
「ちょっと待ってろ」
「マジで、帰る」
「いいから、待ってろ」
 そう言って信広は、両ポケットに指を引っ掛けたやや猫背の姿勢で、のそりと大股で歩いて行く。待ってろ、の一言に束縛され、慧斗は突っ立ったままその背中を見つめることになった。
 テーブルの一人が、戻って来た信広に気付き何か話しかける。軽く頷き返しながら、信広はごく自然な所作で、シゲと呼んだ男の肩を抱く。楽しそうに言葉を交わしているように見えた光景は、信広が手にした中ジョッキの中身を坊主頭にぶちまけたことで、様相を一変させた。
 まるでサイレントムービーのよう。慧斗の耳に入るのは居酒屋のざわめきだけで、シゲが何を喚き、信広が何を言ったのかは全く聞こえない。掴んだ坊主頭をゆっくりテーブルに押しつけると、もう一度耳元で何か囁き、次にテーブルの全員を見渡すような動きをすると、信広はまたゆったりした歩調で慧斗に近づいて来た。
「ビールかかった」
 ちっ、いまいましげに舌打ちして、濡れた手をジーンズで拭いている。
「…何やってんの」
 呆然と呟く慧斗の顔も、もちろんテーブルに残された面子のことも、お構いなしと言った様子。
「白けた。帰ろうぜ」
 誰のせいだよ。思ったが、慧斗はその言葉を呑み込んだ。
 店を出ると、雨上がり特有のむっとした湿度と温度、そして湿り気を帯びたアスファルトの臭いが立ち込めていた。駅前の歩道だが、深い時間なので人通りはまばらだ。無言で歩く、せいぜい十数メートルの距離でさえ何となく重苦い気分になり、慧斗は自分から口を開いた。
「――先輩。俺のことで、怒ったの?」
「だったら?」
「…そんな、大したことじゃないのに」
「あっそ、キレて悪かったよ」
 不機嫌なトーンに、失言だと気付かされる。
 自分にとってはショックな出来事で、今だって腹立たしさは少しも薄れていない。ただ、一般論として未遂で終わったキスがあれほどの報復行為の対象になるかというと、そうは思えない。もちろん信広が怒ってくれたのだとしたら嬉しいけど、それをバカみたいに喜んだら、きっとまた白けるんじゃないか。
 そんなふうに気持ちはバランスを失っていて、無理に冷静を装おうとしたって、上手くいくはずなかったのに。
 本音ではない言葉へのフォローも、それ以上自分から話しかける話題も思い浮かばず、慧斗は再び口を噤んだ。ふと、汗と煙草と香水が混じり合った匂いを嗅ぎ取る。複雑なその匂いを近くで嗅いだのは、筋肉質な腕が肩に乗せられたからだ。抱き寄せるというほど力強い動作ではなく、腕を休ませるための台にでもされているみたい。
「なに、先輩…」
 戸惑って見返すと、信広に顔を覗き込まれる。くっきり彫り上げられた造作の顔立ちの、口の端を片方だけ歪ませる意地悪い笑みが寄越された。
「お前はぁ、隙だらけなんだよ」
「え…?」
「手ぇ出すなって忠告したのにな。身の程知らずなことしてんじゃねえって、あいつに言っといた」
 アルコールを含んだ息に乗って囁かれた言葉の意味を、問う暇はなかった。鼻先どうしが触れ、生温かい唇が重ねられる。
 ゆっくりと吸われているのだと、受けとめた柔軟さと湿り気で感じる。唇が離れる時、ちゅ、確かに合わさっていたことを思い知らされるような音が立った。
「何、してんの…?」
「キス」
 ちろりと下唇を舐める舌先が、生々しく映る。
「…は、なんで?」
「キスくらい?大したことじゃないんだろ?お前が言ったじゃん」
「くらい、とは、言ってない」
 しどろもどろの反論は、
「喜べばいいじゃん」
 乱暴に遮られる。
「お前、俺に惚れてんだから」
 ―――そうして。乱暴な口調で言い渡されたそれに、反論できなかったことだけが事実だった。
「だから。してあげる」
 なんて、ひとを見下した言い方。
 もし、彼の目が言葉と裏腹にけしかけるような色を帯びていなければ。背中を力強く支えられていなければ、息が柔らかく頬にかかっていなければ、理性的でいられたかもしれない。
「なあ…キス。初めてだった?」
 仮定法など意味はなく、触れ合う睫毛の奥、悪戯っぽい瞳に囚われる。
「ラッキー」
 一人で答えを導き出した信広は、満足そうに両目を細め、もう一度慧斗に口付けた。舌の動きに誘われて恐る恐る唇を広げると、自分のものではない煙草のえぐみに口じゅうが痺れる。
「――ん、ふ」
 両手で、縋るようにコットンシャツにしがみ付く。伸縮性のない生地が傷むほど、きつく、握っていたと思う。酔っ払い同士のじゃれ合いでは、決して済まされないようなキスだった。

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