3.
高校生になって三回目の夏休みも、それまでの二回と大して変わり映えのないものだった。
大学受験はせずに専門学校への進学を希望する慧斗にとっては、九月になって願書を取り寄せればほとんど合格したのと同じで、夏休みだからといって必死に勉強する必要はなかったから。学校から出た課題さえ終わらせればいいので、予備校通いの友人を見捨てて、夏フェスにも行ったくらいだ。
その夏フェスの影響で変えたばかりの着信音が、尻ポケットの中で鳴っている。
くぐもった音色が店内BGMと混じってしまって気付くのが遅れ、メロディーはすでに後半のサビに差し掛かっている。レンタル屋の階段を上りながら、携帯電話を引っ張り出して画面を確認すると、表示されていたのは暗号めいた11桁の番号、未登録のナンバーだった。
慧斗は迷いなく、終話ボタンを押してお気に入りの曲を強制終了させる。
―――たぶん、間違い電話か迷惑電話。友達の友達なんていう関係の人物が一方的に自分の番号を知っている可能性が考えられなくもないが、そんな電話はきっと面倒くさい用件に決まっているし。非通知設定や知らない番号からの電話には、出ないようにしていた。
コーナーを移動するためのL字型の階段を上りきっても、その覚えのない番号からは更に数回コールされる。無視を続ける慧斗に諦めたのだろう、ずいぶんしつこく鳴っていたのだが、やがて携帯電話からは何のメロディーも聞こえなくなった。
それが、その番号からの一番最初の着信だった。
共働きの両親がいない昼間は、自室のドアも窓も開け放してある。
クーラーが付いてないので、涼しく過ごすために慧斗ができることは限られてるのだ。団地の五階に位置するおかげで、風通しが良いのがせめてもの救いだった。
ベッドの上でごろごろしているうちに、眠っていたよう。じっとりと寝汗を掻いた不快感と、大きく膨らんではしぼむカーテンの端に頬をくすぐられている感覚、そして。耳元で鳴るフルボリュームの着信音。
またか。
予想通りの番号だが、誰からのものかは相変わらず判らない。時々、思い出したように掛かってくるこの番号からの電話には、辟易していた。やっぱり着信拒否にしとくんだった。寝起きの不機嫌さも手伝って、慧斗は初めて通話ボタンを押し、苛ついた声で返事をした。
「なに…」
『無視してんじゃねえ』
ぶっきらぼうで、命令調。
久々に聴いたその声に、ベッドの上で思わず身体を起こす。
「あ。ねてた…から」
『昼寝かよ。ケイト、お前、なんで出ないの?』
窓から入るきつい日差しの角度は、いくぶん浅くなっていて、時計を見るともう夕方近い。
「…うん」
『うん、って意味判んねえから』
くくく、喉の奥で笑うかすかな振動が、電波に乗って伝わってくる。
『番号変えたの教えんのに一週間掛かりってのも、意味判んないけどな』
「…俺、知らない番号出ないから」
『知らねえよ。ほんとめんどくせぇな、お前は』
あざやかにポリシーを否定されて、何も言い返せなかった。彼の立場になって考えれば、携帯番号の変更を知らせるのに一週間掛かる相手なんて、確かに煩わしいだけだ。慧斗がこの番号を「佐藤信広」のデータに登録し直すためには、一分もかからないだろう。
『元気?』
突然、一般的な質問をされて戸惑う。
「あ、うん。普通」
『そうゆう時は、元気って答えりゃいいじゃん。お前勉強してんの?』
「あんまり、してない」
『バーカ、そうゆう時に、普通って言えばいいんだよ。進路決めた?』
「一応」
『大学?』
「…専門。四年もガッコウ行くのめんどくさいし」
さっきから愉快そうなトーンで喋っていた信広が、ははっ、我慢できずにといったように吹き出した。
「なに…」
『いい――いちいちツッコミ入れんのもめんどくせぇわ。専門って、そっちの?』
「…一応、そっちの予定」
『ん?どっち?こっち?』
「あ、うん、そっち」
それぞれの指示語が交錯して、一瞬の混乱が生じる。
日本の経済中心地のひとつでもある、海外の大物アーティストのツアーに組み込まれる程度には知名度も規模もある政令指定都市。わざわざ東京に出なくても、と考えるのは自分だけでなく、また、上京しないのならせめて政令市には出たい、というのも自分だけの考えではないだろう。
ふ。またかすかに笑う信広の気配に、馬鹿にされているのだと感じる。現在その都市に住む大学生にしてみれば、片田舎の高校生が思い描くビジョンなんて、そうやって鼻先で笑う程度の安物なんだろうけれど。
『部屋、探しといてやろうか』
なにひとつ決定されていない慧斗の未来を茶化す、彼の冗談。
「…いいよべつに」
むっとして答えると、
『はやく卒業して、こっち来い』
彼はどこまでも命令調で、まるで慧斗の心を読んでいるかのようなことを言うのだった。
長電話の趣味はどちらにもないので、その後、短い遣り取りをして電話を切る。うっすら汗のついたディスプレイをTシャツの裾で拭きながらふと思いついたのは、電話が通じないならe-mailで送ってくればいいのにという、ごく当たり前の提案だった。
反論するタイミングはすっかり逸していて、今さら思いついても仕方のないことだったけれど。
学科試験ではなく、小論文と面接の推薦入試を選んだ。
全然上手く書けなかった小論文と、それ以上に上手く喋れなかった面接。さんざんだったように思えたが試験の結果は合格で、無事、私立の専門学校に入学することができた。
広く言えばマスコミ関係になるのだろう、出版・編集学科という二年制のスクールで、どうせ勉強するなら少しでも興味のある分野にという理由で決めた学科だ。
去年はサボったが、自分自身の卒業式ではそういうわけにもいかず、今年は体育館でうろ覚えの校歌を口ずさむことになった。
三下旬には実家を離れ、ワンルームのアパートで一人暮しを始める。
実家のある町から電車で二時間弱。通えない距離ではないが、通うのは馬鹿馬鹿しい。同時に、いつでも戻れるという甘えた感覚もあって、ホームシックというほど感傷的になることは少なかった。
友人の中には同じ市内に住んでいるやつもいるし、学校が始まれば、喋る相手くらいはできる。元から過剰な期待はしていなかったから、学校の感触は慧斗にとって悪くなかった。そんな、漠然とした印象しかないまま、最初の一週間のカリキュラムが終わる。そうして初めて訪れた週末、金曜の夜は、信広と会うことになっていた。
駅前まで歩くという慧斗の主張は受け入れられず、学校の表玄関で三十分ほど待ちぼうけを食らわされる。相手は、時間にルーズな男。
階段にしゃがみ込んで音楽プレイヤーのコントローラーを弄っていると、黒いボディの車が横付けされ、助手席側の窓が下がった。
「ケイトくん?」
「…そうだけど」
知らない女の人に突然話し掛けられて、それだけでも答えられたのだから上出来だったろう。助手席より奥、つまり運転席から、記憶の中のそれと比べてわずかに違和感を感じる低い笑い声。
「ケイトー、相変わらずぼーっとしてんなぁ」
「ノブヒロ先輩」
空気だけを媒介に、直接声を聞くのは一年振り以上だった。
階段から腰を浮かし、目を凝らす。薄暗くて判り難いけど、髪の毛、ほとんど色入ってない。この一年間で相当苛めたらしい。
「早く乗りな」
「あ、うん…」
急かされて、慧斗は後部座席のドアを開けた。
「これから学校のやつらと呑むから、紹介してやるよ」
車を発進させながら、信広は彼らしい言い種で今夜のプランを告げる。
「うん…先輩、カノジョ?」
助手席からこちらを興味深そうに降り返っている初対面の彼女に、どう接していいか判らず、信広に救いを求める。お姉系と、お嬢様系の、ちょうど半分くらい。派手めで、信広の連れにはぴったりのタイプだ。
「ダチのカノジョ」
「ユカです。よろしくね」
人懐っこい笑顔に、こくり、少し顎を引いた会釈を返す。
「ノブヒロの後輩かあ」
「ジロジロ見んなよ、減るから」
「はぁ?失礼なんだけど」
ユカは楽しそうに笑いながら、前に向き直った。
大学生の運転する車として、不相応な車。不相応に高い車だ。信広は絵に描いたように単純な「金持ちの一人息子」という身分で、同じ制服を着て、似たようなスニーカーを履いていた頃よりずっと、そのステイタスは判り易くなっている。
「こっち、少しは慣れたの」
斜め前にちらりと見える、信広のシャープな頬のライン。昔から大人びていだが、もう、その横顔に幼さは残っていないように感じる。
「慣れた…かな、判んない」
ぼそぼそと答えると、快活に笑い飛ばされる。
「なんだそりゃ」
なんとなく、背中に当たるシートの柔らかさが、慧斗を落ち着かない気分にさせた。
慧斗にとってまるきり慣れない街。
どこをどう曲がって、どの方向に走っていたのかも曖昧で。夢でも見ているような気分のまま、居酒屋近くのパーキングで車を降りる。
慧斗を迎えに来た時点で三十分遅れていたのだから、少なくとも三十分以上の遅刻のはず。思った通り予約席の一角では、すでに呑み会が始まっていた。
「ノブヒロ、遅ぇ」
男女入り混じった、派手で軽薄そうな集団。
「これ。ケイト」
「あ、どうも…」
もちろん自分も、そこに混じってしまえば傍目に大した違いはないのだろう。
「生二つ…ユカは?」
「カシスオレンジ」
慧斗には決定権がなく、生ビール二杯と、カクテルが一杯オーダーされる。向かいに座る一人が、慧斗に視線を合わせて笑う。彼を見返しながら、一瞬、あることに気付いて絶句してしまったが、もともと黙っていたのでそれを気付かれることはなかった。
「髪の毛黒いね。染めないの?」
「めんどくさいんで…」
「ははっ、訊いた?めんどくさいから染めないって。だめじゃん、いい若いもんが。あ、そう言やいくつ?」
「…あ、十八、です」
「十八かよ、やっぱ若い。なあノブヒロ、俺らの後輩になんの?」
「や。こいつ、専門」
「何て学校?」
慧斗が学校名を答えると、それでも数人はその名前を知っているようだった。
「なんで大学行かなかったの?」
「きつくない?今、不況だし」
「バーカ、専門の方がまだマシだろ。学校つっても企業だから、そのへん熱心。それにこいつ、勉強嫌いだし」
「てゆうかノブヒロ、この子に喋らせなよ。かわいそぉ」
「だめ、こいつ人見知りだから」
きゃらきゃらと周囲が沸いて、慧斗も曖昧に口元を緩めた。そう、信広の学校の友達ということは、彼らは全員国立大学生である。特別それにコンプレックスは抱いていないが、彼らには、無意識に慧斗を見下すような一面があるのかもしれない。そう思うのはやっぱり、コンプレックスのせいだろうか?
隣りから漂うきつい香りに、信広が煙草を吸い始めたことを知る。テーブルの上に無頓着に置かれたケースから、慧斗は一本を抜き取り、下唇に当てた。
「先輩、ちょうだい」
「ん」
手渡されたライターのボタンを押しながら、セブンスターを深く吸い込んだ。
話題と言えば彼らの大学のことが中心で、あとは、テレビドラマと音楽の話。どれも適当に相槌を打つのは簡単だが、それ以上の話題ではなく、反作用で酒が進む。
ちびちび呑んでいた焼酎ロックのグラスを空にして、席を立つ。
「ケイト?」
「便所っす」
用を済ませて、洗面台で手を洗っていると、ドアに頭を打ちそうな長身の男が入って来た。
「先輩」
多少、アルコールにぼうっとしているが、ろれつはきちんと回っていると思う。呼びかけられた方もしっかりした仕種で、鏡の中の慧斗と目を合わせた。
「なに?」
「あれ…あの人の、ピアス」
濡れた手で、自分の左耳を触る。
それだけの動作で、信広には伝わったようだ。軽く頷いて、右肩だけを竦めて見せる。
「ああ。片方お前にやったやつ。俺がもう片方だけ持ってても使えねえだろ?」
慧斗は左耳だけだが、信広は両耳にピアスホールを開けている。揃いのピアスの片方をなくした場合、普通、片方だけを付け続けることはしないだろう。それが自然で、慧斗に年齢を尋ねたあの男にもう片方が渡っていたからといって、信広を責めることはできないと思う。
「…ふうん」
散漫な思考で結論付けて、頷く。
「ふうんって。お前、捨てたとか言う?」
「言わないけど。お揃いにならなくてよかったなって、思って」
心からの本音だ。今自分が付けているのは、フープ型ではなく耳たぶに埋まるスタッドタイプだから、ピアスということ以外共通点すらない。その想像がよほど面白かったのか、ふふふ、信広が笑う。
「今度また、何かやるよ。お揃いにならないやつ」
「べつに。いらない」
「なんだよ。可愛くねぇな」
鏡の中の信広に向かって首を振り、慧斗は入り口のドアに手を掛けた。その手に、思いがけず火照った手が重ねられる。
「嘘。可愛い」
ピアスに、もしかしたら歯を立てられたかもしれない。それくらい近くで息の湿り気を感じた。振り返ったらどうなるのか、予測できない結果を証明する勇気はなく、ドアの木目を見つめたまま問いかける。
「酔ってんの…?」
「酔ってるわけないじゃん、ビールで、どうやったら酔えんだよ」
信広の体温は未練なく遠ざかり、
「つうか。酔ったら勃たねぇし」
訊きもしないことの答えまで知ることになる。
「…やっぱ。ユカさんってさ」
「ナイショ、ね」
悪戯を楽しむ、子供みたいな無邪気な顔で。
「最低…」
慧斗の呟きに、信広はやはり笑うだけだった。