Novel >  KEITO >  飛べない魚1

1.

 一番窓側の一番後ろの席に、優等生が座っている確率は少ないと思う。
 優等生だから、一番窓側の一番後ろの席には座らないという方が正しいかもしれないけれど、どちらであれ構わない。自分は優等生ではないし、少しくらい黒板が見づらくても問題ない、この席は絶好のポジションだった。ノートの上に広げた読みかけの文庫本の文字も、落ちかけた目蓋のせいでちらついて映るだけ。眠りに落ちる直前のひどく曖昧な感覚が、さっきからずっと続いていた。
「あ、佐藤だ」
 つまらなそうな呟きに、ふと、頬杖を突いたまま目線だけ上げる。
 横向きに座っている時点でまともに授業を受ける気はない友人が、慧斗を降り返って注意を引くように、窓の外に顎をしゃくった。
「重役出勤じゃん、あいつ」
「…誰?」
 ぼんやりした頭で前の席に座る友人に問い直すと、彼ではなく、慧斗の右隣に座る別の友人から答えが返ってくる。
「キチク佐藤」
 一列ずつ等間隔を空けて並ぶはずの机だが、彼の席は、ほとんど慧斗の机とくっ付いていると言っていい。二学期初日に行われた席順決めのくじ引きなんて、裏取引でめちゃくちゃになっているので、教室じゅうがそんな様子だった。
「…ああ」
 数秒遅れで小さく頷きながら窓の外を見ると、正門から続く道幅の広い通用路を、向こうからこちらに歩いてくる背の高い生徒がいる。
 自分達と同じ、男子用の制服。全学年共通のデザインなので、学年を知るためには胸ポケットの学年章を見るしかない。彼の場合であれば三年生のピンバッジを付けるべきなのだが、もし近づいて見たとしてもそれを確認できるかは判らない。慧斗でさえ、二年生の学年章は普段、他の缶バッジと同じような扱いでペンケースに刺してあるのだから。
 地面を力強く踏みつけるような重量感、そのくせ柔らかいクッションを感じさせる、動物的な歩き方。多めの髪の毛は重力に逆らうようにゆるく遊ばせるのが定番で、彼を見間違えるのは難しかった。
 他人のことは言えないが、中村以上にありふれた姓だ。けれどそれに「鬼畜」が付けば、そのありふれた苗字も全校の佐藤のうちたった一人を指す固有名詞になる。誰それの彼女を奪ったらしい、Y女の二年を妊娠させた、いやY女ではなくO学らしい。三股四股の挙げ句、一人が自殺未遂したらしい。なんて、どれも最低な噂。その最低男が全国模試の順位表には常連で、どうせ親の金に物を言わせているだなんて馬鹿馬鹿しい噂も漏れなく囁かれている。彼にまつわることなら、噂も事実も、ヤバいと決まっているのだ。佐藤信広(さとう のぶひろ)は、この学校で一番有名な男だった。
「そーいや。知り合いじゃん、ケイト」
「知り合いっつうか、中学ん時の先輩。バスケ部の」
 彼と自分の関係は、それだけで大体説明がつく。
 初耳というわけでもないその情報に友人達は軽く相槌を打って、人の悪そうな笑みをそれぞれに浮かべた。
「あいつが真面目に部活やってたとか、想像できねえわ」
「中学ん時どうだった?」
「普通だったと思うけど…俺が知らないだけかもしれない。あんまり噂とか、興味なかったから」
「ケイトらしいよ」
「悪かったよ…」
「怒んなよ、褒めてんのに。な?」
「そうそう」
「…そりゃ、ありがと」
 ひそめた声の内、タイミング悪く慧斗の声が拾われたらしく、
「中村ー」
 教卓から注意が飛ぶ。
 他の奴らは素知らぬ顔で姿勢を正し、慧斗は仕方なく、すいません…口の中でぼそぼそと謝る。特に追求はされず、再び窓の外に目線を反らすと、通用路は既に無人だった。
 慣性が働いているんだろうか、その無人の通用路から、そうと判ってもすぐには視線を外せない。
 ―――ぼんやりと考える。
 普段から黒板より外を見ていることの方が多い友人だとして。たとえば信広以外の生徒が、三時間目の途中から登校して来るなんて行動を取っただけで。わざわざ声に出して誰かに教えたりするだろうか。答えはたぶん、ノー。
 つまり、そんな男。彼に対してほとんどのやつが、無関心ではいられないから。だから噂も事実も、音速で広がり、掛け算で膨張するんじゃないか。
 慧斗の疎い耳にだって、簡単に飛び込んでくる程度には。

 

 実験棟の屋上は、関係者以外立ち入り禁止になっている。
 このフレーズを文字通りに解釈させると、少し誤解を生むかもしれない。関係者というのは元々、実験棟に部室を持ついくつかの部や管理者を指すのだろうが、今実際に屋上に侵入している慧斗はどの部活とも関わりがないのだから。ここに立ち入ることができるのは、屋上の鍵を使用できる立場にある一人の地学部員の関係者、であることが条件だ。いつからそうなったのかは知らないが、今では絶対条件に等しく、暗黙のルールと言って良かった。
 実験棟には焼却炉が併設されていて、いつも焦げ臭い匂いと灰色の煙、有害物質が立ち昇っている。良い環境とは決して言えないから、そもそも、誰もが好んで入りたいと思う場所ではないだろう。
「おい、そこで何やってる」
 ぎい、錆びたドアが軋む音と、低めの男の声。
 咥え煙草を隠すこともできず背筋を凍らせる慧斗に、小馬鹿にしたせりふが投げつけられた。
「びびってんじゃねえよ、バーカ」
 声に続いて、覆い被さってくる長い影。顔を上げて見上げると、信広の尊大な笑い顔があった。
「…べつに。びびってないけど」
「あそ?」
 わざと飲み残しておいたmatchのアルミ缶の中に煙草を捻じ込んで、立ち上がる。ぼそぼそと反論する慧斗をそれ以上構うことはせず、信広はどっかりとコンクリートに座り込んだ。けれどすぐに、逃がす素振りは本当に単なる振りだったのだと理解させられることになる。
「おい、なんで行くの?まだいろよ」
 わざわざ立ち上がらせておいてから、引き止めるのだから。
 慧斗はため息を吐いて、言い訳ではなく事実を告げた。
「だって昼休み、終わるし…」
「そんなに俺といたくないわけ」
 会話での瞬発力がない慧斗は、信広らしい言い方にただ困惑するしかない。時間稼ぎに黙り込んでも特別なひらめきは得られず、そのまま信広の隣りに座り込んだ。
「――先輩は。つまんなくないの、俺といて」
 中学時代からの先輩後輩だが、バスケ部での上下関係が全体的にフランクだったことと、信広が以来慧斗を身内扱いする理由から、彼に対する口調は自然と砕たものになる。
「面白くはないけど、それがお前のキャラじゃん。ケイト、一本ちょうだい」
 授業サボるつもりはないんだけど、と遠回しに言いたかったのだけれど。思惑の外れた失望感と、信広からの人物評価が慧斗を不貞腐れた気分にさせる。差し出された手のひらに、セブンスターを潰れたケースごと乗せた。
「…はい」
 整えられた信広の眉が、左右アンバランスな動きをする。
「お前なあ、傷ついてんじゃねえよ」
「べつに」
 ふん、軽く鼻で笑って、特にフォローはなし。
 カチッ、とライターを鳴らして煙草に火をつけると、信広は盛大に煙を吹き上げた。焼却炉のお陰で煙草の臭いがうやむやになるのが、実験棟の屋上が煙草休憩に都合の良い一番の理由だった。
「結局、吸ってんのな」
 煙草を吹かしながらおもむろに、信広が笑い出す。
「おかげさまで…」
 吸殻の入ったアルミ缶を揺らして、慧斗はそうとだけ返した。
 慧斗が煙草を吸い始めてから、まだ半年経っていない。きっかけはゴールデンウィーク前に彼から貰った一箱のセブンスターで――正確には開封済みで中身は七本だったのだが、それまで煙草を吸う強い動機がなかったというだけの自分にとって、じゅうぶんな本数と理由付けになった。仲間内でも高校二年からのスタートは遅い方だが、遅かったからこそなのかもしれない、簡単には辞められそうになかった。
「眩しいな。80%ってなんだよ」
「…は?」
 何について喋っているのかとっさに判らず、慧斗は怪訝に首を傾げる。ポロシャツの胸元をぱたぱたと扇ぎながら、信広は辟易した様子で真っ青な空を見上げた。
「なあ。今日ってほんとに雨降んの?」
「…知らない」
「使えねぇな」
 80%は、午後の降水確率のことだったよう。それが判明しても、普段から天気予報を気にしない自分には、肯定も否定もできない。確かに空に雨雲は見えないから、信広の言いたいことは理解できるのだけれど。
「…先輩なんでそんな心配してんの、傘ないんすか?」
「ケイト、敬語」
 一瞬口をついたぞんざいな敬語を咎められ、敬語を嫌う性格の彼の要望通り、最後を言い直す。
「傘、ないの?」
「バーカ。なんで俺が、傘の心配しなきゃなんねえんだよ。カノジョが持ってんだろ」
 どうせ馬鹿にするのなら、言い直しなんて要求しないでほしい。カノジョって、どのカノジョですか。うんざりして俯く慧斗の頭に、ふと、大きな手のひらが置かれた。
「頭、熱くない?」
「え…別に」
 また脈絡なく話がワープし、戸惑って信広を見返す。
「お前さ、髪の毛真っ黒だから。温まってんぜ」
「あー…まじで?」
「ブリーチしてる方が、熱くなりにくいのな。あ、でもお前はやんなよ、ブリーチ」
「やんないけど…」
「そんで、明日から日陰選べ、日陰」
 あれこれ命じると、慧斗のアルミ缶に煙草を捻じ込み、ひとり納得したように立ち上がる。信広は数歩歩いてから、不思議そうにこちらを振り返った。
「なに、戻んないの?」
「え?」
「教室。五時間目、出るんだろ?」
「あ、うん…」
 狐につままれたような気分を、標準で味わせてくれる男。信広の気分といったら、この、秋の空と同じくらい変わりやすくて予想できない。
 予鈴は鳴ったっけ?慧斗はよろりと立ち上がり、信広の背中を追った。実験棟の中に戻り、薄暗い階段を降りる。
「一応、俺だって受験生だし?」
「…重役出勤じゃん、今日。国立単願とか、ありえないし」
「ん?誰に聞いた?」
「噂」
「やるじゃん、疎いお前が」
 周りは大抵、慧斗のことを噂に疎いと思っている。もちろんそれは本当のことだから、腹を立てる必要はない。馬鹿にされたのは慧斗だというのに、なぜか信広自身が面白くなさそうに鼻を鳴らす。
「その噂は、たまたま正しいよ。判ってると思うけど、俺本人が目の前にいるんだからさあ。噂、簡単に信じるんじゃねえぞ」
「…うん」
 突然発動した信広の不機嫌に、慧斗は慎重に頷いた。
 こういう時、ひやりと身体が冷えるのと同時に、別の感覚を覚える。そう、圧倒的多数の、ただ噂を囁き合うやつらは。信広からこんなふうに苛立ちをぶつけられることはないという思いだ。時折感じるこの感覚は、特権意識、優越感。とにかく自分にとって不愉快でないのだから、性質が悪い。
 ――それらとはまるで関係のない、不意に思い出されたことが、反射的に彼の名前を慧斗に呼ばせる。
「あ。ノブヒロ先輩」
「なんだよ」
「…やっぱ、なんでもない」
 言ってから思い直す。自分で半分以上吸った後だし。渡したままのセブンスターのケースに執着してみせても、信広をさらに不快にさせるか笑わせるかのどちらかだろう。
「言いかけてやめんなって、気になるじゃん」
 口ではそう言っているが、気にもならない、どうでも良さそうなトーンだった。

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