Novel >  ベイビー、ベイビー >  絶対服従2

2.

 計算ミスがあったとすれば。
 もちろん不可抗力なのだけれど、車のガソリンを、職場までの往復分に少し足りない程度しか残しておかなかったことだ。月曜日は出勤する予定なので、途中のガソリンスタンドで給油すればいいと考えていたのだった。一度キーを回したところでそれに気付き、車を降りて母屋へ引き返す。キーは投げ捨てて、ニット帽とマフラーを拾い上げ、靴のランクをワンランク下げて履きなおした。
 下り坂なので、駅まではせいぜい十分だろう。十時台の半ばで最終電車が出てしまうローカル線だが、終電までにはあと数本の余裕がある時間。時刻表は確認せずにいたのだが、雪による多少のダイヤの乱れによって奇跡的に、滑り込んで来た電車にすぐ乗り込むことができた。
 無理に合い席するほどの混雑ではなく、二人掛けのシートの片側に座る。終点であるその駅まで、左隣は空いたままだった。プラットホームに下りて、階段を上がり、自動改札を出てから携帯電話を開く。メモリーを探すよりは着信履歴を辿った方が早い摂の携帯番号をコールすると、しばらく待たされた後、声より先に息遣いが耳をくすぐった。
『…Hi』
「Hello」
『駅?』
「そう。どうしたらいい?」
『車で来たの?』
「いいえ。電車」
 衣擦れの音がやけに近いのは、彼がベッドかソファーで寝返りを打った気配だろうか。ふふっ、失笑の後に、舌足らずのせりふが続いた。
『もしそうなら。迎えに行こうと思ってた…ほんとだよ、でも、お酒呑んじゃったから行けないなぁ』
「アー、ハー、お構いなく。住所だけ教えてくれる?」
『怒った?』
 ああ、今さらそれを訊く。
「怒ってない。住所教えて」
 ぷりーず、を最後に付け足すと摂は快く、タクシーの運転手に伝えるためにもっとも適当なフレーズを教えてくれた。待ってる、と一言残して電話が先に切れる。掛けた方が遅れて切るのが礼儀というものなので、些細だが、彼のマナーの良さが嬉しい時だ。
 チノパンの尻ポケットに戻した携帯電話が、また、すぐに震える。
 確認する必要のない着信画面を一瞥だけして耳に当てると、ノアにハローの一言も言わせず、相手は切り出した。
『ねえまだ駅?』
「…おかげさまで」
 んふっ。
『みすた・さんたくるーず』
 さっきよりずっと甘えた声色の、典型的なアメリカ英語。
『アイスが食べたい』
「はは。いいよ、何がいいの?」
『ハーゲンダッツのミニカップ、全部の味』
「…かしこまりました」
 発音ほどその内容がティピカルでないのが、この男のセンセーショナルなところだ。ノアはそれだけ応えると、相手より先に電話を切った。タクシー乗り場に向かう前に―――デパートは閉まっているからコンビニで、冷たくて甘いプレゼントを買い込まなければならないようだ。

 

 後部座席の窓から外を眺めて、なるべくなら道を憶えてしまおうと努める。
 途中裏道でショートカットを行ったようだが、メインの道路を走ればたぶん、摂の住むマンションには着けそう。料金を払ってタクシーを降りる。集合エントランスのインターホンを押し、入り口を開けてもらい、エレベーターを使うほどの階ではないので歩いて上った。
 ドアの前でもう一度、チャイムを鳴らす。
 中からそれを開けた摂が、絶句するノアを見上げて首を傾げた。
「どうしたの?」
「…ちょっと。目の前の…夢のような光景に感動してる」
 正直に打ち明けると、
「あっはっは」
 バスローブ姿の男は闊達に笑った。
「いつもってわけじゃないけど…嫌いじゃない」
 真っ白な、脛まで隠す長いバスローブだ。手触りを示すように胸元を撫でて見せて、摂はこちらへ腕を伸ばした。柔らかなタオル地の中の腰を抱き返す。今夜初めて、少しアルコールの染みた彼の舌を味わうことができた。
「…ん」
 ほのかに感じる、複雑な香り。生まれた瞬間から、彼の舌はこの味だったのではないかと錯覚してしまうくらい似合っている。そう、フルーツキャンディーの味だ。ゆっくり吸い上げてから唇を離し、うっすらピンク色に染まる頬にキスをした。
 にっこり笑った摂に、ノアは右手の袋を差し出す。
「献上品です」
「さんきゅー。みすた・さんたくるーず」
 ごめんねと滅多に言わない男は、ありがとうを躊躇わない性格なのだ。
 嬉しそうに中を覗き込んで、また、顔を輝かせる。
「もしかして、ほんとに全部の味?」
「さあ。店にあったのは、それで全部」
 ぎゅうっと、正面から両腕で抱きつかれて、テディ・ベアになった気分がした。しばらく胸に頬を擦りつけてからノアを解放し、摂はテディ・ベアを暖かい部屋に通す。
「コートはそこに。あ、帽子とマフラーもね。いつまでもハンサムを半減させないで」
「ははっ」
 ダイニングとリビングの境が曖昧な、広いフロアだ。キッチンがカウンターによって分けられていて、カウンターには呑みかけのグラスが置かれている。摂がそのグラスを取り上げて、呑みながらキッチンへ周って行く。新たに彼が作りなおす作業を覗き見したことで、グラスの中身が明らかになった。
 冷蔵庫の真ん中の段にアイスを放り込み、一番上から銀色の缶、一番下の段からボトルを取り出す。まず最初に黒ビール、次に、シャンパン。対比は単純に一対一で、それを混ぜずに呑むらしい。
「一杯いかが?」
「へえ、何?」
「ブラック・ベルベット…記憶違いじゃなければ、だけど。ねえ、俺の彼氏のイメージ」
「そんな、大層な男?」
「まあね」
 悪戯っぽく片眉を上げる摂に倣って、片眉で応え、カクテルを呑む。
「どう?」
「摂の味」
 弾けるように笑った摂が今度は首に抱きついてくるので、思いきりその痩身を抱き上げた。
「ベッドルームのドアは?」
「そこ!」

 

 ベッドに摂を下ろして、抱き合いながらもつれ合う。
 滑らかな手がニットを潜って背中を撫でてくるので、バスローブの袷から素肌の胸を探る。きゅっと目を閉じた摂がお返しにと首筋を咬み、ノアを弱らせた。
「セックスの経験は?ある?ない?」
「ある」
「何人?あぁ、正確じゃなくていいから」
 寛容なのか、過大評価されているのか、彼自身が恋人の数を把握しきれないほど奔放な人物なのか…どれであれその質問には苦笑するしかない。
「正確にもなにも、ひとり」
「そっか。相手は?男?」
 問い詰めるトーンではなく、摂はいつでもこんな調子なのだ。
「男だよ…生粋のロンドンっ子」
「留学生だったの?」
「ん?俺がね」
 ベルトの金具を外し、そこから強引に手を入れて臍を触っていた摂が、不審そうに眉を顰める。
「…What?」
「言ってなかったっけ」
「聞いてない、東京って言ったじゃん」
「ほとんどはそうなんだ。留学してたのは、一年半…二年弱くらい、あわせて」
「聞いてない、言ってない」
「ごめん」
 だって。会話の主導権はたいてい、この気移りばかりする男にあるのだから。ノアとしても、自分の話をするよりは、彼の事を聞きたい。
「留学してたのは、じゃあ、イギリス?」
「そう。祖父母の家に…ロンドン市内に住んでいたから、最初はそこに下宿して」
「ふうん。彼、どんな人だったの?あー、と、単なる好奇心」
 裾を割って太腿を撫でるノアの手に、摂の手が重ねられる。もっと大きく、と、心地よさげな薄目が注文をつけるのだ。腰を捻った彼から手首の上あたりに押しつけられた場所の感触で、下着を着けていないことを確信した。
「ウィンブルドンの美大生だった。ロンドンっ子だったけど、家から離れて、フラットをシェアして友達どうし五人で住んでた」
「大学生になって実家に住んでるやつの方が、おかしいって国だから」
「はは、そう。俺も結局一人暮ししたなあ…レストラン代わりに毎日、祖父母の家には行ってたけど」
 ジッパーが下ろされて、下着の合わせ目を、細い指が辿る。
「それで?フラットをシェアしてて?」
「…ああ、だから。彼の同居人のひとりが俺の友人で…うん、まあそんなとこ。俺がロンドンにいる間付き合って、帰国する時には別れたよ」
 一時の恋愛に満足していたし、同時に、その先の希望なんて持てなかった頃。今よりずっと自分は冷淡だったと、摂は信じないかもしれない。彫刻家の卵で、アマチュアバンドのベーシスト。髪の毛の先の方をいつも黄緑に染めてた。頬まであるそばかすの跡が、とてもキュートだったな。ぎゅうう、と、下着の上からそこを握られる。
「…摂っ!」
「思い出すの、禁止」
 不自然な沈黙で、彼の不興を買ってしまった。ほらこうやって、気まぐれに命令を変える。謝罪の代わりに鼻先にキスを贈って、中途半端に下がったズボンのせいでもたつきながら、ノアは少し身体を離した。
「…ひとつだけ、提案が」
「どうぞ?」
「コンドームを。お互いのために」
 くるり、瞳を動かして、摂が顎を引く。
「お互いのために。それがノアの主義?」
「そうだね、主義」
 愛し合う行為に危険があってはならないというのが、自分の考えだ。摂はノアの提案に反発こそしなかったが、顔をちらりと曇らせた。
「いいけど…俺は、持ってない」
「それが摂の主義?」
「主義ってゆうか、いいかげんなんだ…妊娠もしないしって、思ってる。失望した?」
「しないよ。それに、用意するのは俺の役目」
 急に心細そうにする摂の頬を撫でて、下がった位置の尻ポケットを探る。ほら、と綴りを出して振って見せるノアに、周到なことで、と笑ってくれてもよかったのに。摂はごく真剣な表情と、真剣な口調で言った。
「…よかった」
「うん?」
「今から買いに行くって言ったら、殴るとこだった」
 ポーズは、拳の握り方まで正式な右フックのそれだ。
「わぉ、恐いな」
「一番近いコンビニまで、片道十分。こんな雪ならもっとかかるかも。少なく見積もっても往復で三十分、そんなに待たせるようなこと、してみろ」
「摂」
「待てないよ…欲しいんだもの、ノア」
 声が潤む、これは文字表現に留まることではないと思う。
「俺も…欲しいよ」
 感じ入って答え、ニットと、その下のTシャツを脱ぐ。ノアの裸の胸元に摂が手を伸ばし、十字架の付いた鎖を指で巻き取った。
「…クロスは、外して」
 ホックを外し、脱いだ衣服の上にそれを落とす。
 改めて愛おしい身体をベッドに押しつけて、バスローブの腰紐に指を絡る。わずかに力を込めて、引く、プレゼントのラッピングを解く心ときめく行為だ。裸の胸、臍、そして髪の色と同じ、茶色の茂み。
 歯を立ててコンドームの袋を噛みちぎった摂が、ジェルに濡れたそれを渡すので、まずは自分で身に着ける。もう一度彼が噛みちぎったそれは、彼自身のために。
 こちらに向かって伸びるような、しなやかなフォルムの彼のペニスだ。慎重にゴムを嵌めると、まだ少し柔らかい、弾力。
「あ…」
 指先のわずかな愛撫に吐息を漏らして、摂は小さく首を振った。
 彼がそうするごとに模様を変化させる、枕に広がったゆるやかな髪のウェーブ。消えかけの蛍光灯のように強弱をつけて、目を細めたり開いたり。鼻をひくつかせ、顎を上げ、薄っすら開いた唇からすうう、はああ、吐息を漏らし続ける。
「摂…できるならこのまま、氷漬けにしてしまいたい」
「イヤ。寒いのはいや…」
 うっとりと、ノアより遠くを見つめている摂の目。茶色よりずっと金色に近い睫毛の間から、鈍く潤んだ瞳が光っている。ベストショットはコンマ一秒のレヴェルで更新されていき、その度ノアを感激させずにはいられない。
「信じられないくらい、きれいなんだ…」
 ありきたりな賛辞は、きっと聞き飽きている彼だろうから。
「おいで、ベイビー…」
 摂はバレエダンサーのようにまろやかに腕を伸ばし、絡め、脚を開く。
 ゴムの中の自分が、きつくなるのが判る。ノアは陶然とした気分のまま、摂に身を沈めた。
「darling」
「……んっ…あぁ」
 狭い内壁を、時間をかけて篭絡する。
 無理、と言われれば一度引き、角度を変えて慎重に挿入していく。時々は摂の素肌に唇を当てて、吸い、うっ血を作ってやりながら。
「せす、って、呼んで…」
「…うん?」
「S…E,T,H,Seth…Repeat after me」
「Seth」
 命令には従順なノアに、ふふふふっ、身をくねらせて摂が笑う。
「ベッドの中では、誰にも呼ばせたことないんだ」
「なぜ?」
 カインとアベルの弟の名前。セスのずっと遠い子孫には、ノアという男がいる。箱舟を造り、家族と、つがいの動物たちを乗せ、洪水を切り抜けた男だ。
「thをじょうずに言ってもらえなきゃ、萎えるだろ?」
「…英語の先生ですから、これでも」
 会って間もない頃、自由奔放にロサンゼルス訛りの英語を操る男に、嫌味混じりに言われた。BBCのアナウンサーみたいだと。拗ねた気配を察したのだろう、摂の柔らかい指の腹で、下唇を何度も撫でられる。
「…褒めてる。子音ふたつで、俺をこんなに気持ち良くさせる男って他にいない…」
 最奥まで届く自分の先端が熱く、腹に当たる摂が活き活きとしなる。ノアは背筋を丸め、恋人に請った。
「摂、セス。どうか、合図を」

「Go」




 汗に濡れる額を手のひらで拭い、かき分けた前髪の隙間にキスを落とす。
「…生きてますか?」
 白い肌を、真っ赤に上気させて、息の間から摂が言う。
「……死んだ。ここは天国?」
「近いかもね。どこか、痛む…?」
「そりゃあ。でもへいき…バカみたいに優しかった、最高」
「…それがこの男の、作戦かもしれない」
 本性は、暴君かも。照れ隠しの冗談に摂は笑いながら、気だるそうな仕草でノアの首を引き寄せた。
「そっかぁ、次が楽しみ…」
「次?」
「うん、次…いつかって訊きたそうな顔だね」
「まあ、それは」
「…シャンパンのボトル、もう少しだから片付けるのに協力してくれる?」
「ええ、もちろん」
「アイスも食べよう。一個は俺が無理だから、半分こね。クッキー&クリームって最初から決めてたけどいい?」
「いいよ」
「よかった。そうしたら……もう一度、して」
「…すべて、仰せのままに」

Merry Xmas to you…
ベイビー、クリスマス編。教会のイブ礼拝を織り交ぜて、お送りしました。ほんとうにここは居心地の良い世界で、いつまでもいつまでも、書いていたい…。(2005.12.24)

おまけ短編へのご案内。タイトルずばり「コンビニ店員の場合」

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