Novel >  ベイビー、ベイビー >  絶対服従1

1.

 朝から降っていた雪が、昼頃に一度止み、夕方にはまた降りだした。
 外塀、植え込み、屋根の上、それから大きなクリスマスツリーも雪を被っている。永遠の命を象徴する緑に、天使の白、自然のオーナメントが何よりも美しいと思う。敷き詰めた砂利の上にも雪が積もっていて、最初についた足跡を後からやって来る人は不思議と辿ってしまうのだ。蟻の行列をイメージさせるラインは、門から礼拝堂まで続いている。それとは種類を異にする轍が、教会に乗りつける車を誘導する役目を果たしていた。
 クリスマス・イブの礼拝は、夜の七時から始まる。
 レーンになった轍を丁寧になぞりながら、良く見知った一台の車が入ってくる。日曜礼拝の遅刻常習犯が、今夜は実に三十分の余裕を持ってやって来たのだ。ノアは駐車スペースをじゅうぶん与えるために数歩後ずさり、車体が何度かの切り替えしを経て慎重にバックし、停止するまでを見届けた。サイドミラーがゆっくりと折りたたまれ、エンジンが止まる。ライトの消えた車の中から、運転手がわずかにドアを開けた。そのドアに手を添えて開き、彼の降車を手助けする。片足を地面に下ろした摂が顔を上げ、しばらく無言で、視線のキスを交す。無声の吐息だけが、冷たい空気に白く広がる。
「…クリスマスおめでとう」
「Merry christmas」
 二カ国語同時放送のようなタイミングで挨拶が重なったのに二人して失笑し、ノアは運転席に屈み込んで、小さく摂の唇を啄ばんだ。
「いらっしゃい」
「うん、イブの礼拝なんて、二十年振りくらいかも」
 忍ぶように笑いながら立ち上がり、勢い良く車のドアを閉める。キーをかざしてドアをロックし、摂はそのまま両手をダウンのポケットに突っ込んだ。毎年のことながら、ホワイト・クリスマス。寒がりな彼だから、ほんの短い間でも素手を外気に晒したくないというところだろう。
 礼拝堂に、続々と、と言っていいペースで参列者が入っていくのを見て、摂が感心したように呟く。
「みんな早いなぁ…」
「摂も早いよ」
「そりゃあ、そのつもりで来たから」
 誇らしげに言うから、笑ってしまった。
「あ、ねえ、やっぱり劇とかやるの?東方の三賢者?」
「はは、劇はないよ」
 マタイによる福音書の、クリスマス劇のシナリオとしてもあまりに有名なストーリー。三人の博士がイエスに贈ったのは、黄金、乳香、没薬、古代のクリスマスプレゼントだ。昼間に行われた子供達のための礼拝には演劇がプログラムに組まれているが、今から行われる礼拝に演劇はない。家族で参列する信徒も多いのだが、夫婦や恋人のカップル、それに友人どうしといった大人達の数の方がずっと多いのが実際のところ。この日だけは、と普段の礼拝には来られない信徒が久し振りにやって来る時期でもある。
 簡単にそう説明すると摂は、ふうん、と気のない生返事をした。
「じゃあ。なにすんの?」
「…クリスマス・イブはね、燭火礼拝」
「しょくか?」
「んー、キャンドルサービス」
「あぁ」
 ようやく満足する回答を得たのだろう、機嫌良く頷く摂のウェーブヘアーがゆるやかに揺れるのを観賞しながら、話題をより日常に戻す。
「どう…忙しかった?」
「あーもー、ちょー忙しかった!毎日、忘年会のはしご」
「ああ、そうだね、そんな時期」
「はしご、やったことある?それぞれの立場で気の遣い方変わるから、すっごい疲れる。社風で呑み会の感じ全然違うし、ふつうにイッキやるとことかあるし、信じらんないよ体育会系」
 こんなふうに喋っていると、嘆く口調は呆れるくらい子供っぽいのだけれど。彼は大手電機メーカーの営業マンなのだ。想像するしかないのだが、おそらくかなりのエリート。彼が給料を顧みないほどのカー・マニアでないのなら、まさに今乗りつけた車がステイタス・シンボルのひとつになる。
「お疲れさま…」
「うん」
 形式的な労りの言葉にも、摂は嬉しそうに頷いた。
 期末テストの採点が終わり、終業式が済めば、自分の職種も忘年会モードに加速する。これまでに参加したのは、バスケ部の後援会関係と職場の忘年会だけだから、すぐ横の営業マンにかけてやれる言葉はどうしたって、模範例を出ないものになってしまう。
「あ」
 小さく声を上げた摂が、その、すぐ横のポジションから進み出る。礼拝堂の入り口で、本日のオルガニストが両手を広げて笑っているのに気付いたのだ。
「セツ」
「ララ、クリスマスおめでとうございます」
「おめでとう」
 この外面の優雅な男を、母は最近一番のお気に入りに指名している。彼女は外国人の気安さで始めから摂をファーストネームで呼ぶし、人見知りのない摂は何度か呼ぶうちに、彼女への呼称から”先生”を取ってしまった。ノアは苦笑しながら、二人のハグ、そして頬へのキスを眺める。
「来てくれてありがとう」
「こちらこそ、お招きありがとうございます」

 

 式次第を受け取り中に入ると、礼拝堂は既にずいぶん混雑していた。聖壇の近くにはこだわらず、後ろの方に二人分のスペースを確保する。七時までのほんの二十分程度の時間は、取りとめのない話をしていればすぐに過ぎてしまう。
 ジャスト七時、聖壇に牧師が現れ、礼拝堂のざわめきはフェードアウトする。普段はラフな恰好の父だが、今夜はもちろん正装だ。
「みなさん、クリスマスおめでとうございます」
 おめでとうございます、控えめな唱和に、牧師は軽く頷き微笑んだ。
「今年も雪に降られてしまいましたが、大勢の方と、イエス様のお生まれになった日をお祝いできることをとても嬉しく思います。どうぞリラックスして、最後まで楽しんでくださいね…お説教はまた、後程たっぷりと」
 失笑の余韻を引き継ぐように、オルガンの前奏。プログラムどおりの進行だが、式次第の紙面に視線を落とす摂は、その先、その先に何が起きるのかを楽しそうに待っている様子。
「キャンドルサービスは、いつ?」
 オルガンの音に紛れるよう、声を潜めて耳元に囁いてくるので、同じように囁き返す。
「ま、だ」
 リタルダンド、そしてフェルマータで前奏が終わり、牧師がまた口を開く。
「エフラタのベツレヘムよ…」
 から始まる、ミカ書のごく短い一節を唱えると、ここで燭火を灯すための儀式が行われるのだ。各列の端から、一人一人に蝋燭が手渡される。全員に行き渡ったところで礼拝堂の電気は消え、聖壇の左右に灯る数本の蝋燭の明かりだけが頼りになった。切った画用紙をゆるく巻きつけて単純なガードを施してあるこの蝋燭に、端からやはりリレー形式に、炎を移していくのである。
 ぼう、ぼうっと、小さな明かりが、礼拝堂のあちこちで灯り始める。
 ノアの列でも右端から炎がリレーされて、自分がその火を受け取れば、次は摂だ。
「素手?」
「そう」
「熱くない?」
「大丈夫」
 蝋はたいてい途中で冷えて固まるし、そうならなかった時のために画用紙が巻いてある。
「…ね、やって」
 危険はないという言葉を信じない彼は、疑い深く、怯えた目つきでノアを見上げた。納得するまで言い含める時間がないので、薄明かりの中でもそうと判る白皙の、繊細な手から蝋燭を取って、自分の蝋燭から火を移す。じり、芯の燃えるかすかな音と同時に、ぼんやりした色合いの火が灯り、またひとつ教会に明かりが加わった。これをこのように片手に持って、最後までいなければならない。
「ありがと…」
「どういたしまして」
 うっとりと燭火を見つめる摂の横顔が、ゆらゆらと、柔らかい色に揺られてる。
 普段は黒に近い紫色の布を基調にしている聖壇は、今日と明日だけ、全面が真っ白な布に変わる。蝋燭の明かりがよく映えるという、素晴らしい副作用もあるのだった。
 イザヤ書から一節の聖句。それを聞き終えると、賛美歌の合唱になる。94番、久しく待ちにし。
 ―――進行の基本は、新旧の聖書からイエスの降誕にまつわる一節を読み上げ、その後に賛美歌を合唱する、この二つをワンセットにして何度も繰り返すことにある。この教会を練習拠点にしているゴスペル・クワイアのアマチュア団体が、聖壇の前に並んで盛り上げてくれるので、賛美歌を知らないからといって恥ずかしがる必要はない。摂にはどうやら五線譜を読む能力があるらしく、初見で賛美歌をさらりと歌って見せるのだから、驚いてしまう。
 聖書と賛美歌のローテーションを何度か繰り返し、賛美歌109番、彼がたとえ五線譜を読めなくても歌えるだろう、清しこの夜へのイントロダクション。
 一番を歌い終わり、短い間奏に差しかかった時だ。
 肘を軽く小突かれ、
「…ん?」
 声を聴き取り易いようにと彼の口元に耳を寄せる。
 摂は無言で手に持った蝋燭を押しつけると、仕方なくそれを受け取った恰好のノアを置き去りに、席を立ってしまった。慌てて、けれど一瞬考え込み、結局は両手の蝋燭の火をそれぞれ吹き消して、ノアは礼拝堂を出て行く背中を追いかけた。
「摂っ…」
 ごく小さな叫びだが、静かな夜空の下に自分の狼狽えた声が響く。ダウンのジッパーを上げながら振り返る摂の肩を、執り成すために掴む。
「…何か、気に入らないことが?」
「ううん、すごく楽しい」
 なぜそんなことを?と言うように、摂が目瞬いて、微笑む。
「けど帰るよ」
「飽きてしまった?」
「ちょっと眠くなりそうだと思ったのは認めるけど、違う、言っただろ楽しいって。ねえ、あとどれくらいかかるの?」
「…礼拝自体は、そうだな、あと三十分くらい」
「そのあと何かあるってこと?」
「茶話会が…でも強制じゃない」
 考え直して、と戸惑って挙げた右手は、摂によってあやすように握られ、押し返される。彼の行動を正確に予測することなんて、自分には不可能だ。摂は素早くノアの唇を盗み、笑うのだから。
「…摂」
「俺は先に帰るけど。遅くなってもいいから、来て」
「…うん?」
「ただし、悪い子になっちゃだめ。最後まで礼拝に出て、パパとママと、ちゃんとイブを過ごして。それから…今夜は帰らないって上手に説明してから、来て」
 理解するのに、少しの時間を与えてもらう。
 やがて、
「…難題だな」
 破顔するノアに、摂はもう一度電光石火のキスを寄越した。ちゅ。
「道判る?」
「駅前までならね」
「そう、じゃあ、駅に着いたら電話して」
 摂は指で作った電話のジェスチャーを耳に当てて、軽く振って見せると、積もった雪に小さく足を取られ、笑いながら車へと戻って行った。

 

 言いつけを守って、礼拝堂に戻る。
 隣りに座っていたカップルからもう一度火をもらい、次に消すのは、礼拝が終わる時だ。前奏に対して後奏、エンディング・テーマが静かに鳴り止んで、今年の燭火礼拝も和やかに終わったことを知る。そこで帰って行く人もいるし、また、茶話会に出席する人もいる。ピアノ教室と英会話教室が開かれる建物は、同時に茶話会の会場にもなるのだ。
「ララ…お母さん」
「なに?」
 彼女の母国が流通の起源と言って良いだろう。東インド会社の最高の功績、透明な薄茶色の液体が入ったカップを唇から離して、ララが振り返る。
「あー、父さんは?」
「そこ。昔馴染みの信徒さん達と」
 一杯引っ掛けてる、のジャパニーズ・ジェスチャー。実際に呑んでいるのはシャンパンだろうけれど。
「弱いくせに好きなんだから。明日も朝からクリスマス礼拝なのに、牧師が二日酔いって、あり?」
「ありじゃない?それで、俺、今から出るんだけど」
「うん」
「帰らないかも。こっちも一杯」
 引っ掛けるから、と同じジェスチャーで嘘をつく。
「I see」
「…じゃあ、よいクリスマスを」
「あなたも、ノア」

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