煙が目に染みる
毎日の違いといったら、曜日くらい。曇天時々雪、が続く週の真ん中。
駅前の大通りには、今朝もちらちらと雪が降っている。スクランブル交差点で、赤信号に引っかからないことはほとんどない。駅へ向かう通勤や通学の、色とりどりの傘の流れをぼんやり眺めながら、寒気に肩を縮めた。
フルフェイスのヘルメットではないので、バイザーの下にゴーグルを嵌めて、ダウンの襟を引っ張って口元を隠しても、他のパーツより少し隆起した鼻だけは隠れない。冷気につうんと痛むので、必要以外に鼻から息を吸うことはしたくなかった。信号が青に変わり右折を終えても、カチッ、カチッ、カチッ、信号待ちの間じゅうずっと点けっぱなしにしていたウィンカー音が、ドップラー効果のように頭蓋骨の中に取り残されている。
しばらくはメイン道路を、車の横をすり抜けながら走り、細い道に入る。アパートの手前の十字路には一時停止の標識があるので、速度を落として、一時というか一瞬停止してまた発進した。屋根に霜が降りた駐輪場に、エンジンを切ったバイクを停める。車輪をチェーンで固定するだけの作業が、分厚いグローブをしていると大仕事になってしまう。留め具を捻り、一度引っ張って外れないことを確認してから、慧斗は階段をいつもそうするように一段抜かしで上った。
右手のグローブを外して鍵を開け、狭い玄関でスニーカーを脱ぎながら額に手を当てる。冷え切っているのであまり参考にならないが、それでもたぶん、熱はあるんだろうな。
年明け早々に、風邪を貰ったらしい。
薬箱というほど立派な存在ではなく、キャビネットの一番浅い段に、薬や絆創膏、それにおまけのフィギュアとかが放り込んである。普段の風邪はたいてい喉に来るので、常備薬にはラベルに大きく「喉の痛み」と書いてあるものを選んでいる。総合かぜ薬、というやつで、その下には小さな文字で、鼻水、鼻づまり、せき、くしゃみ、たん、発熱、悪寒、頭痛…と延々続き、風邪の諸症状に効くらしかった。水道を捻り、水を出す。手を洗って、うがいを入念にしてから、瓶入りの白い錠剤を三錠、水道水で流し込んだ。
唇を手の甲で拭って、もう一度、その手を額に当てたのは単なる気休めだ。ジーンズの尻ポケットの中身が震え出したことで、右手はすぐにそこから移動しなければならなくなった。ポケットに押し込んだ携帯電話を取り出して、開く。
「もしもし」
『おはよ』
「あ、今日。夜勤明け、ですか?」
ヒーターのスイッチを押し、ベッドの上の読みかけのハードカバーを退かして、腰を下ろす。
『うんそう。もう帰ってる?』
「帰って来たとこ…」
『あそう、俺まだ車なんだけど』
「えっ切ってください」
こうやって慧斗を動揺させておいて、
『平気、まだ動かしてない』
取り澄ました口調で乾は言うのだった。
言い返せない慧斗の沈黙を埋める行為のように、ふふふ、息遣いで耳をくすぐる。
『…ちょーさみいよ車ん中。そっち行っていい?疲れてる?』
お互いの余暇が重なれば、一緒に過ごすのは自然なことだと思う。質問ではなく確認の意味合いが強い言葉に、けれど慧斗は曖昧に答えた。
「あー、疲れてはないけど…」
『うん?』
「風邪っぽい、かも」
こういう時、要領を得ないことを言うなあと自分でも自覚している。そうかぁ、と相槌を打って、乾はごく軽い調子で訊いてきた。
『インフルエンザじゃない?だいじょぶそう?』
「うん…薬呑んだから」
『呑む前になんか食った?』
「や、特には」
『食欲ない?』
「あんまり…」
『そっか。あ、なんかさ、問診みたいだね』
電話の向こうの楽しんでいる気配に、はは、つられて笑ってしまう。
『食えないなら無理に食わなくていいけど、水だけ多めに飲んどきな?胃ぃ悪くなるから』
「…あ、はい」
『直行する。お見舞い行くよ』
暗に来訪を拒否したつもりが、会話の流れは正反対へ。誘導ミスをした慧斗は当てが外れた思いで、声しか伝わらない相手につい、右手を上げてストップのジェスチャーをした。
「いいですそんな―――乾さんあの」
『ん?』
その先のせりふを用意していた訳ではないから、どうせ口篭もってしまっただろうけれど。呼びかけておいて言葉を切った理由は、そればかりではなかった。
「ごめん切る」
予測もしなかった突然のことに、感じの悪い言い方になったのを許して欲しい。正確に終話ボタンを押せたかどうか判らない。ベッドに携帯電話を放り投げると、慧斗はユニットバスに掛け込んだ。
床に膝をついて、便器の蓋を開け、胃からせり上がって来たものを吐瀉する。消化途中の食べ物と、水分、胃液、それらが交じり合い、食道や喉を逆流し、勢い余って鼻の奥を蹂躙しながら口から吐き出された。
ケホッ、ケホッ…ケホッ、咳き込みながら切れ切れに嘔吐する度に、喉がかすれて焼けていく。滅多にないことだが、悪酔いした時にはこんな状態になる。今の原因は酒ではなく、いつもなら喉に来るはずのウィルスなんだろうか。風邪で吐くのは初めてなので、ただショックが大きい。
ゴホン、最後に一段と強い嘔吐感がして、またリバース。ひくつく喉や横隔膜が治まるまでしばらく、便器の縁に顎をつけた状態で待つ。これでラスト?たぶん、ラスト。自問自答してからトイレットペーパーで口を拭い、コックを引いた。ジャー。
直視はしなかったけれど、出たとすれば休憩時間に食べたピザまんと、セール中のホットミルクティーしかない。すえた息苦しさのなかでそう考えながら、口に残るひどく不味い痰を、吸い込まれていく水の中に吐いて捨てた。
特に潔癖症ではないが、コンスタントに風呂に入る習性くらいはあるので。臭いを落とすためにもシャワーを浴びて、歯を磨き、ドライヤーで髪を乾かす。デジタル体温計は38.5℃で止まり、慧斗は気だるい身体を持て余しながらベッドに潜り込んだ。むかつく胃のご機嫌を伺いながら、寝やすい姿勢を模索している途中でチャイムが鳴る。
ピンポーン。
それを無視して、上掛けの中で背中を丸める。もしもほんとうに自分に用事がある人ならば、施錠されたドアを開けるためのアイテムを持っているはず。ガチャン、想像どおりドアは外から開けられて、最初に目に入ったのは深い色の、ユーズド加工のジーンズだった。
「無事かー?」
間延びした声の主を見上げて、慧斗は同情を訴えた。
「……吐いた」
「かわいそうになあ」
ともすればギャグになりそうなせりふも、穏やかなトーンが彼の真意だと知らせてくれる。そして万事に腰の軽い乾は、やって来た早々にドアを指差して提案するのだ。
「病院行く?連れてくよ」
「今はちょっと…寝てたい」
「そうだね、今日は様子見ましょうか。熱計った?」
「…八度五分」
「わ、たっけえなぁ」
乾は慧斗の申告に嫌そうに顔をしかめて、手に持った、コンパクトな白い装置を床に置いた。
「あ、これね、加湿器の出前」
説明されればそうと納得できる品物だが、彼の部屋でこれを見たことはない。
「…持ってたっけ」
「持ってるわけないじゃん。二見さんち寄って強奪してきた。まだ出勤前だったから」
「…強奪」
途方に暮れて呟く慧斗を、あっさり笑い飛ばす。
「うそ。きみ、あいつのお気に入り」
何かあったのだろうと推測することしかできない、あいつ、のところだけは眉根を寄せて、加湿器から給水タンクを取り外す。
キッチンに立って水道を捻る後ろ姿を眺めていると、振り向いた彼にやんわりと笑いかけられた。
「見てなくていいって。寝ててください、勝手にやるから」
「…うん、あの」
「んー?」
「あ、べつに…」
看病されるんだ。
急に覚えた実感が、慧斗を不思議な気分にさせる。被った上掛けの隙間から、なお乾の作業を盗み見て、彼がこちらにユーターンするのと同時に目を瞑った。
シュー…かすかな加湿器の音。
目蓋から額にかけて、ぬるい温度としっとりした重さを感じる。知らない感触が濡れタオルだとぼんやり思い出し、それを少し上にずらして目を開けた。蛍光灯の点いた部屋は明るく、窓の外は変わらない曇天。それだけの情報では自分がどれくらい寝ていたのか判らず、寝返りを打って時計を見る。午前十時を少し過ぎたところ。まるで感覚がないのだが、時計はゆっくり進んでいたみたい。
乾はローテーブルに頬杖を突いて、文庫本を読んでいた。棚から適当なやつをチョイスしたんだろう、書店名の入ったカバーのせいでタイトルは判らないが、自分の読んだ本をひとに読まれるのは、ごく私的な日記を読まれているような恥ずかしさがあった。ベッドから上半身を起こして、読書中のひとに呼びかける。
「…乾さん」
「あ、はいはい」
真剣に読みふけっていたよう。思いがけず声を掛けられた、という体で、ぱっと顔を上げる。
「タオル貸して。冷やすから」
彼の用件の方が先。ありがと、と呟いてタオルを手渡し、離れていく背中に話しかける。
「時間、平気なんですか?」
今日も夜勤なら、あまり長い間ついていてもらうことはできない。シンクでタオルを濯ぎながら、乾は小さく何度か頷いた。
「んー、まあ五時間眠れれば上等だから。まだ平気、全然」
「…乾さん」
「ん?」
「…煙草ちょうだい」
肘を突いて本を読むためのスペースのほかは、雑然と物が乗っかっているテーブルだ。リモコン、鍵束、ケータイ、灰皿―――ライターと煙草。慧斗の物はダウンのポケットの中なので、乾の所有物だろう。戻ってきた乾は空中に伸ばした慧斗の手のひらに、代わりに冷たいタオルを乗せた。
「だ、め」
「……一本だけ」
「だーめ」
「じゃあひとくち…」
「あのなぁ」
苦笑がちに、けれど、きつく睨まれてしまった。願いは叶わず、パタン、上半身をまたベッドに落とす。上から、くっくっくっ、愉快そうな忍び笑いが落っこちてきた。
「吸ってこよ」
濡れた手をジーンズで拭きながらわざと言うのは、意地悪というよりは悪戯。
恨めしい気持ちになるのには変わりなく、慧斗は彼がベランダに出るのを未練がましく見つめ、一瞬流れ込んだ冷気に鳥肌を立てるほかなかった。
カラカラ…ガラス戸を隔てた向こうは、冷たい世界だ。
さみ、たぶんそうひとりごちて、乾はすらりと長い手足、抜群のプロポーションをこころもち猫背気味に曲げる。
彼が真新しい一本に点火する時、慧斗の目線がフォーカスしたのは、煙草ではなくそれを挟んだ指だった。二本の指のうち一本、薬指には指輪が嵌められているから。白っぽく光る細い銀色は、肌色から際立って見える。シンプルなほど、単なるアクセサリーじゃないってことを主張して、目を惹いてしまうんだ。客観的に彼と自分の指輪について考えることはできないけれど、それでも感じる。
美味そうとか不味そうとかいうよりは、どこか所在なさげに乾は煙草を吸っている。吹かす瞬間だけ煙草の先端がぼうっと赤く光り、吐き出した煙は風に乗って、すーっと流れていく―――それら全てがぐにゃり、と歪み、五秒後か六秒後、水槽の向こうで乾が慌てた顔をするのが判った。
吸いかけのそれは、室外機の上のに置いた灰皿で揉み消され、ガラス戸が勢い良く開けられる。
「おおい…そんな、吸いたかったの?」
「…べつに」
慧斗はタオルで両目を隠して、涙声を上げた。何が熱くて何が冷たいのか、判らない。
ベッドの端が沈む感じがして、隠れ蓑は取り去られた。一瞬、指先から煙草が香る。乾は慧斗の湿った前髪を分け、目元を拭い、頬を撫で、また目尻の残滓を拭き取った。一連の動作の間じゅう、黙ってにやにやしているのものだから。
むっとして睨みつけても、彼に堪えた様子はない。そうして、まるで当然の成り行きのように言うのだ。
「キスしよっか。じゃあ」
「…じゃあ、って」
脈絡のなさに戸惑って、おうむ返しになる。
「煙草の代わり。あ、大して有り難くもないと」
「言ってないけど…」
口の中での不明瞭な反論が、結果的にYESの合図になってしまう。こちらに屈み込んだ乾の鼻先が小鼻をかすめるので、驚いて顔を背ける。
「しなくていい、です」
「うん?」
「伝染るし…インフルエンザかも」
「そのほうが平気。予防接種したもん」
慧斗の言葉は説得力を持たなかったらしい。強引なキスは、けれど額へ贈られた。きゅう、押印して、離れる。
「熱いなやっぱ…」
感心したような口調が、慧斗を気恥ずかしい思いにさせる。
「だから感染るって…」
「そしたら、看病してね」
「はは」
その言い種には吹出してしまって、弱った臓器が軋む。また顔に影が差すので、今度は唇を少し開け、誘った。柔らかい唇を受けとめて、吸う。渇望した、煙草の味だ。
…ちゅ。
唇どうしが離れ際、小さな音を立てる。
舌で自分の唇を舐め取った乾が、
「ワクチンが効きますように」
可笑しそうに破顔する。必ず効くわけではないと非難したとしても、そうと判ってやっているのだからどのみち効果はなかったのか。この顔と…身体の火照りが、何を原因にするのかは曖昧なところ。
「お粥。どんなのがいい?」
「…塩味の全粥に、甘い梅干。ないけど」
「買いに行くさ。できたら起こすから、寝てて」
ひょい、拾い上げた白いダウンの袖に腕を通して、両ポケットの中身を確認。テーブルの、携帯電話も忘れずに。
「なんか思い出したら掛けてください」
「うん」
「じゃ。行ってきます」
本編で乾さんは季節外れの風邪を引いているので、今回は慧斗がダウン。(…症状がやけにリアルですが、これ青虫の経験談でございます。)ふだん甘えないんだから、こんな時くらい駄々こねちゃおうよ。
今作のタイトルは、耳馴染みのあるものかと思います。ジャズのスタンダードナンバー「Smoke gets in your eyes」の邦題。英文だとyourをmyに変えても、少しイメージが変わってしまいますね。乾さんの煙が、慧斗の目に染みた訳で。
(2006.1.9)