6.
駅前の店でテイクアウトした、ハンバーガーとフライドポテト、それに冷蔵庫のビールが今夜のフルコース。フランス語らしき店名の、存在は知っているけど入ったことはない店だと言ったら、俺もそう、とあっさり言われた。ファーストフード店というよりレストランに近いと、潜入者の談。バターでつやつや光るパンが美味しかった。
それから「お土産」として、小指の大きさもないようなミニチュアサイズの万華鏡をもらった。ペンダントのチャームなのだが、片目を瞑って、集中して覗き込めば、笑ってしまうくらい小さな世界が広がっている。傾けるたび、回すたびに自由に形と色彩を変える世界だ。外の景色を取り込むテレイドスコープではなく、中にオイルの仕込まれたカレイドスコープだそう。万華鏡に種類があることさえ初めて知ったんだけど、興味とか関心とか関係なく、人間を没頭させる物だと思う。
「楽しい?」
隣で乾が苦笑する。
「うん」
「よかったよ、不評じゃなくて」
「や、好評。でもなんで、万華鏡なんですか?」
「んー、たまたま見つけただけなんだけど、なんか、あれを思い出して」
部屋の隅に積み上げた本に混じって、一冊の小説誌がある。ファッション誌でも音楽誌でもなく、確かに今まで一度も買ったことのない雑誌だ。最初、本屋で立ち読みをしていたのだが、その作家の小説をじっくり腰を据えて読むなというほうが無理で、購入に至った一冊。
「変わった名前だよな」
カレイドスコープという老舗のミステリ専門誌で、雑誌名の意味はつまり、万華鏡。まさかそんな答えだとは思っていなかったので、なんだか返事に戸惑ってしまう。
「……あ、うん」
「理由っつっても、まあ、せいぜいその程度です。でもきみにはなんとなく……なんとなくばっかだけど、万華鏡みたいに不思議なイメージが似合うと思うよ」
やはり返事に困るようなことを言って、彼は愉快そうに続けた。
「不思議なくらいが終始考えてられるしね……今度は栞を贈るよ」
「自分で買う……」
ほんと、明日にでも。読みかけの本は、開いたまま伏せておくのが自分の癖のはずなのに。一体どんなタイミングで、文庫本の間に挟まったんだろう。考えれば思い出せる種類の出来事ではない気がする。記憶にない、というやつ。
真剣な慧斗の答えを茶化すような微笑の後、ふゎ、と、小さく欠伸をかみ殺す気配がした。乾の横顔を見上げると、普段から眠たそうと穏やかの境界線上くらいに落ちている目蓋が、やっぱり一見わかりにくい位置まで落ちている。ここ一ヶ月ほど残業続きで、今日だって長距離移動の後なのだから、疲れていて当然だと思う。
「眠い?」
「んー?」
「寝ちゃう?」
重ねて尋ねると、大きな口元がほころんだ。
「寝ないって……それじゃ、何のための強行軍かわからん」
肩を抱いていた腕が、脇に差し込まれ、腰を抱く。引き寄せるような力加減は合図で、慧斗は乾の肩を借りて膝に乗り上げた。そのまま彼の背中をベッドのへりに押し付けて、キスをする。唇に吸い付きながら、身体を撫で合う。服の上からだって、手のひらを感じれば熱くなる。重ねた唇が少しずれて、ちゅ、と鳴る。追いかけてまた吸い上げると、下唇を軽く噛まれた。
「ん…」
へそのあたりが涼しく感じて、ジャージと下着のウェストをまとめて引っ張られたことに気づく。そのままくい、と下げられて、すでに色めいている自分が宙に浮いた。慧斗の背中をしっかり支えた乾が、急に身じろぐ。何?と意図を問う間もなく、股の下に彼の長い片脚が挿し込まれて、慧斗はそれにまたがる格好になった。
ぴくっと正直に反応したのは何よりも、それに触れてしまう部分で、慧斗は思わず腰を浮かせた。彼の脚を包んでいるのは、黒い礼服だから。
「…や、だめ、だって」
「何?」
「つく、から…っ」
「いいよ、ついても」
ほんの数センチ距離をとったって、乾が曲げた膝の角度を軽く変えれば、簡単にまた刺激される。じわ、集まる感じだ…。
「よくないです、だって白、目立つ、し…落ちにくい、のに」
「よく知ってんな」
「ね、どけて…」
しっかりした厚めの生地の、ざらつく感触にこすり上げられて、どかせと言いながら乾の首にすがりついているのだから。上手な動きかといったら決してそうじゃないんだけど、紡織された生地の存在感とか、白と黒の対比を想像してしまったこととか、そんなことより久しぶりに触れてもらっていることとか、全部が混ざり合って。
「ぁ……ん…っ」
あっけなく、出してしまった。
「あ…拭かなきゃ」
スラックスを汚した罪悪感も、射精感でうやむやになりそう。頭の半分がぼんやりした状態で、黒い生地に垂れた白い精液を手で拭き取ったのだが、薄く広がるだけだ。その上、生き物みたいにぴくりと上下したそれから、また垂れて、乾の腿に地図を描いてしまう。どうしたらいいのか、慧斗はべたつく手を持て余して、自分のTシャツにこすり付けた。
「ケート」
不意打ちの呼び方に、全身に鳥肌が立つ。
「煽られた。ベッド上がろう」
あと一歩、どころか、ベッドのへりを背もたれにして抱き合っている。その提案に異存はなかった。
冷たいベッドに押し付けられて、乾が覆いかぶさってくる。タイピンの外れたネクタイに、ぺたり、と、顔を叩かれる。驚いて肩を縮める慧斗に、乾の微笑が降ってきた。
「お、ごめん」
おかしそうに言うから、ネクタイを緩めた首元に指を入れて引っ張ってやると、結び目は変化せずに彼の顔が近づいてくる。
「そこ違います」
「あ、ごめんなさい」
ふふっ、笑いながら慧斗の頬にキスをして、ぐいぐいと結構強引に解いていく。一本の布になったそれを慧斗が奪い取って、放り投げる。乾はベルトを外し、ワイシャツの裾を出すので、その前ボタンを外して彼の胸を撫でると、またふっと温かい息がかかった。着痩せするタイプだから、実際触れて確かめると、胸板とか背中とか、ちゃんと厚い。慧斗のTシャツも胸までたくし上げられて、乳首を吸われた。
「ふぁっ」
感じた声が鼻から抜ける。もう片方も、強く吸われて、また。
「はっ…」
顎の下でうごめく乾の頭を撫でて、耳たぶを引っ張ると、彼は上半身を起こしてまずワイシャツ、それからスラックスと下着を脱ぎ始める。慧斗もTシャツを首から抜き、すでに膝まで下りて下着と絡まり合っているジャージを蹴りやった。裸になった乾が、慧斗を抱きしめながら笑う。
「さみーな」
「…ヒーター点ける?」
「あったまることしてんのに?」
「うん…」
寒いと言い出したのは自分のくせにと反論するより、彼を急かしたいから。手を伸ばして、ごわごわの下の毛を掻き分けて、硬くなった乾に触れた。温かいそれを握って、手を上下に動かす。先端のくぼみに人差し指の先を挿れると、気持ち良さそうにお腹をぴくりとさせた。
「あ…ケート」
とろ、少し粘り気のあるのが出てきて、状態の段階を伝える。慧斗は膝を立てて、ポーズをとった。
「はやく」
「わ。録音しときたい、今の」
「…言わないよ、一回しか」
今にも達してしまいそうな気分なのに、乾の冗談に笑っている自分もいる。その冗談の余韻にまぎれるように、乾の指が後ろに挿し込まれる。最初きゅっと眉を寄せて耐えなければならなかったが、そのまま違和感を受け入れた。中をかき回して、それは抜かずにもう一本を挿し込む。柔らかくなるころには、もう、それだけじゃ足りなくなっている。
「いぬいさん…ユーヒさん…」
腰をくねらせて、催促する。
「はは、どっち?」
「ユーヒさん…」
ぷつ、指が抜かれる時、小さな音が立つ。乾の先端が、入り口を数ミリ押した。
「あっ…う」
圧迫感がスムーズに奥まで届き、遠のく。
「は…んっ、あっ、あっ、あ」
助走をつけながら、だんだん、速くなる。ベッドの中が揺れていて、離されないように背中に抱きつく。
「…んゃっ……そこ…いい」
「ここ?」
「うん…ぁっ、あっ、あっ、あっ、ふぁんっ」
「んっ…俺もいい、ここ」
うっとり呟いた乾が、さらにスピードを速める。
何か意味のある言葉を発することはできなくなる。重さと、温度と、息遣が身体の中と外に満ちていて。激しく呼吸する音とか、繋がり合った場所が立ててるゼリーをスプーンでえぐるみたいな音とか、どんどんあられもなくなっていくのに、同時にすごく静寂で。
「――ゃあんっ、あ、あ、あんっ」
「……ケート」
うめくように慧斗の名前を呼んで、どくり、乾が弾ける。
「……ひぁ…ぁっ」
下腹が痛いくらい張り詰め、次の瞬間に、生暖かいものが広がった。はっ、はっ、はっ、はあ…折り重なって呼吸をしながら、慧斗は中に注がれたどろどろの後味に身を任せた。
鈍い冷たさに、目が覚める。
上掛けからはみ出していた腕が、冷凍寸前になってるらしい。布団の中に引き戻すと、熱い湯船に入った時みたいにじわじわと温まる感覚がする。しばらくそうしていたのだが、なんとなく目が冴えてしまって、慧斗はベッドから降りた。熟睡している乾をこごえさせないように、しっかりと上掛けを閉じる。つられて一緒に寝ていたけど、その前にずいぶん寝てしまったので、自分には昼寝程度の睡眠が限界だった。
コンポの時計は、深夜と早朝の変わり目くらいの時刻を示している。どうりで、一番寒い時間帯だ。カーテンを少し開けて外を見ると、暗い景色に大粒の雨が光って見える。降り始めがいつかは分からないが、じきにやみそう、という印象はない。今日は、冷たい雨の一日になるでしょう。
壁際のヒーターを少し手前に引っ張って、スイッチを押す。少し経って着火が始まり、チキチキ…その小さな音でも心配になって、ベッドを振り返ってしまった。大丈夫、寝てる。
部屋着のセーターを頭から被って、座り込む。テーブルの上から取り上げたのは煙草とライターで、火を点け、深く吸い込むと、ニコチニズムの幸福に全身が満たされるのだった。
夜中まで、たくさんした。
シャワーで流したけど、感覚はまだ生きていて…なんて思い出してしまうと、煙草を咥えた唇が震え出すのだから、結構、病的、かも。
ふと無意識に、左手の薬指を触る。こうやって無意識に手をやった時、何も嵌められていないとどれだけ心臓が痛くなるか…嫌ってほど思い知らされたから。今はちゃんと、硬くて冷たいものがヒットすることに安心して、慧斗はゆっくり煙を吹き上げた。
ふーっ。
指輪の行方をはらはら見守ってくださって、ありがとうございました。もーほんとに、気をつけなきゃだめだよ。何にどう感じるのか、とか、地雷のありか、とか、お互い少し知る機会にもなったんじゃないかと思います。月日を重ね、少し変化した部分なんかも感じていただけると、嬉しいです。
(2006.12.23)