Novel >  KEITO >  泳ぐ鳥5

5.

「駅から、一回電話したんだけどね」
 ダウンを脱ぎながら乾が、テーブルの上の携帯電話を一瞥する。
「あ……マナーのまんま、寝ちゃってて」
 寝ている時、バイブくらいでは目が覚めない。それが事実なんだけど、何も知らない乾にとって満足できる答えではないだろう。寝てました、なんて、いかにも言い訳じみている。慧斗は寝癖のついた髪に指を通しながら、俯き、乾を見上げた。
「あの、俺、先輩とは別れてから一回も会ってないです。さっき急に来て、俺もびっくりしたんだけど……ほんとにそれまでは一回も。今回ちょっと……訳ありみたいで」
「その訳、話せる?」
 どこまでも穏やかなトーンで、でも行われているのは尋問だから。緊張のせいで、いつもの口下手が悪化してるみたい。
「話せる、けど……あの、何から話たらいいのか」
 言葉を探し当てる前に声に出してしまい、結局またうろうろ探すことになる。
「全部。順番なんていいよ」
 言い訳するようにぼそぼそと呟く慧斗に、きっぱりそう指定して、乾はベッドの端に座った。やっぱり礼服のまま、着替えずに来てくれたんだ。ダウンを脱いだ乾の姿に、そう確信させられる。彼は黒いスラックスに包まれた長い脚は組まず、腿の上で両手を組んだ。慧斗も隣に浅く腰掛けたのだが落ち着かず、両足をベッドに上げて膝を抱えた。
「変な噂信じたやつが、俺に会いに来て……えっと、その噂っていうのが」
 何度も倒置法を繰り返して、慧斗は今までのことを話した。
 今までと言っても、ほんの一週間程度のうちに散発的に起きた出来事なんだけど。ミトという男と、信広の関係。ミトが、一人なのか複数なのか、そもそも情報源と呼べるものがあったのかも分からないが、噂話を信じて慧斗と信広の過去形の関係を憶測するに至ったこと。その憶測から実際に、慧斗に攻撃的な態度で挑んできたこと。
「……そりゃ、付き合ってたのは事実だから、そのことは否定できないけど。けど、今さら持ち出されたって俺には関係ない話なのに。過去だよ、ほんとに……乾さんも言ってたじゃん、彼女、記憶の一部って」
「うんまあ……それに関しての疑問はないんだよな」
 どこか他人事を論じるような、落ち着いた口ぶりで乾が頷く。
 そう、慧斗にとって重要なのは過去形の噂話ではなくて、今回、信広が自ら慧斗に会いに来る動機付けがあったのだと、乾に対して証明することだ。それには今朝の出来事を隠さずに話さなければならなくて、コーヒーをかけられたことも、もちろん話すしかなかった。ベランダには今、洗濯されたジャケットがぶら下がっている。
 ――要領の悪い話をなんとか終える。
 時々、言いあぐねる慧斗をエスコートするように口を挟むだけだった乾は、顎先を撫でながら何か考えている様子だ。横目でちらりとそれを窺いながら、テーブルの上の煙草に救いを求めたい気分になる。伸ばしたのは意識だけだったのだが、不意に乾がこちらを見るので、見咎められたような気がして腕を縮める。
「今からかなり嫌なことも言うけど、俺の本心だから」
 そんな前置きをして、彼は話し出した。
「まず、怪我がなくてよかった。コーヒーで済んだのは不幸中の幸いと言うか……運が良かっただけだろ。手段選ばないやつだったらと思うと怖いよ……実際そうなのか、違うのか、そんなのはシュレディンガーの猫だから、想像しても意味ない」
 まだ寝癖が残っているだろう頭に、大きな手のひらが置かれる。
「次に、俺じゃ役に立ちそうになくても、困ったことがあったら話してほしい……分かち合いたいと思ってる。今回に限って言えばだけど、もし共有していたら防げた事もあったかもしれないだろ? きみの代わりにコーヒー被ってやれたかもしれない、その機会を俺から奪ったのはきみです」
 秘密主義のつもりなんてなかったし、彼を頼りないと思ったことなんて絶対にない。それでも言えなかったのは、乾が昔の彼女の結婚式に出席することを知った時の自分のように、過去と現在である限り何を比べても仕方ないと、感じてほしくなかったからかもしれない。
「最後に」
 乾は答えられない慧斗の髪を、くしゃくしゃっと大きくかき回して、乱暴な手つきで前に小突いた。思わずよろけてしまい、驚いて見上げると、もう一度頭を小突かれる。
「簡単に他の男を部屋に上げるな。きみには自覚が足りない」
 唖然とする慧斗に、乾は生真面目な顔で言った。
「それをされると、俺がひやっとする。そういう自覚がさ」
「……うん」
 咄嗟に答えられたのはたったその一言だったけど、ハの字眉になった彼がやんわり笑うので。
「もうしない……」
 慧斗は腿の上で軽く握られた乾の左手を、おずおずと握った。
「あと」
「ん? まだあんのか」
 含み笑いの彼に手を握り返される前に、素早く離れる。一瞬でも決心が鈍るとまた言い出せなくなるから、慧斗は目を瞑って、懺悔のために両手を組んだ。
「指輪……どっか、失くしたかもしれない」
 彼が息を吸うために必要な沈黙にさえ、心臓がぎゅっと小さくなる。
「いつから?」
「先週……店で気づいて、それからずっと探してるんだけど」
「そっか。言い出せなかったのか」
「なんとか見つけようと思って、色々探したけどもう、どうしたらいいか……」
 祈る気分で、乾の答えを待つ。組んだ手を解いて、そのまま両耳を塞いでしまいたい。
「気にしなくていいのに、そんなこと」
 ――ああ、ほら、やっぱり。
 思った通り、慧斗を許す寛容な言葉。ため息が漏れそうになり、口元を手のひらで隠す。安心している態度に見えなくて当然だろう。
「中村くん?」
 宥めるような顔で覗き込まれたが、目を合わせられず、横に逸らしてしまった。
「……全然、怒らないんですね」
「んー、まあ……きみがそんだけ落ち込んでくれれば、俺にとってはじゅうぶん」
「気にもならない?」
「気には……そりゃ、ならなくはないけどね。怒ってませんよ」
 語尾が、困ったような苦笑に揺れる。
 きっと慧斗の態度を持て余してるんだろう、だけど慧斗自身、自分を持て余している。感じているのは安堵ではなく、ショックだから。
「……言い出せなかった理由、色々あるけど。あなたはきっと、何でもないように許してくれるんだろうなって思うと、それが嫌で」
 嫌、と、はっきり言ってしまってまた、自分で戸惑う。取り繕いたいと思うのに、口を開けば、言葉になってしまうのはどうしようもない本音なんだ。
「俺にとってはすごく重大なことなんです。指輪なくしたってこと、全然、笑って済ませられなくて……なんか、ほんと、理解してもらえないと思うけど、世界の終わりにも感じるくらい」
 何言ってんだろうって、頭では思ってるんだけど。
「重たいってわかってます。けど、また買えばいいとか……絶対、言わないで」
 懇願口調の、それは呆れられて当然の我侭だ。聞かなかったことにして欲しい気持ちと混じって、ぐるぐる回っている。
「ごめんなさい……ほんと、重いな」
 まずい。
 鼻の奥がつうん、と、痛む。
 生温い感覚が右の目頭に集まり、慌てて拭う。
「何て言やいいのかな」
 やっぱり苦笑がちに言った乾が、頬まで垂れたその一滴をごまかそうとする慧斗の手を退かして、礼服の胸に抱きこんでくれた。
「言葉が見つからないなら、抱きしめりゃいいなんて……安易だけど」
「……ううん」
 クリーニング済みのにおいが強いが、今日一日の乾の行動を記憶したような複雑さも感じる。襟元に額をこすり付け、涙腺を緩ませる感情が過ぎ去るのを待った。

 

 温かい指で慧斗の耳たぶを摘み、軽く引っ張ると、乾は耳元でくく、と笑う。
「きみを泣かすために、急いで帰ってきたわけじゃないよな」
「……ごめんなさい」
「愛されてるな、俺」
 もっともらしくさらりと言うので、急に頬が熱くなってしまい、慧斗は口の中で不明瞭にありがと、と呟いた。ギシ、ベッドが一旦沈み、浮かぶ。立ち上がった乾がざっと部屋を見回すような仕草をして、こちらを振り返った。
「もうちょっと探してみっか、指輪」
 つられて中腰になりながら、でも、と彼を止める。
「俺、部屋じゅうひっくり返して探したけど……なかったもん」
「見る目が変われば、また違ってくるかもよ?」
「そうだけど……部屋じゃないかも。店かもしれないし、全然、別の場所ってことも」
 慧斗の話を聞いているのかいないのか、目に付くものを一つずつ確認するような動作で、部屋の中をうろうろし始める。
「あ、風呂は?」
「最初に探した……けど、なかった」
 ふうん、と軽く頷くだけで、棚に手をかける。縦横自由、背表紙が手前に来ているとも限らない強引な方法で、ぎっしり本を詰め込んである段が気になったみたい。確かにそこはあまり探していないけど、そもそも最近読んだような本は、収納できずに床の上に積まれているから。乾は背表紙側から入れてある一冊の文庫本を取り出すと、左手に持ち替えて、ページをめくった。
「中村くん」
「あ、はい」
「あった」
「……はい?」
 ページのちょうど真ん中くらいだろうか、そこから摘み上げてみせて、指先でくるりと一回転させたのは……。何故そんなところに? まるで身に憶えのない現実に、絶句するしかない。
「間違いありませんね?」
「はい……ありません」
 しかつめらしい、裁判官の口調で念を押されるのに、神妙に頷く。見間違えようもなく、指輪。乾の左手薬指に嵌められているそれと、サイズ違いの同じやつだ。ふっ、と、こらえ切れない様子で破顔した彼が、声を上げて笑い出した。
「……つうか、栞代わりかよ!」

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