Novel >  KEITO >  泳ぐ鳥3

3.

 そう言えば煙草を持たずに出てきてしまった。
 手前のドアを開けるとすぐに自販機があるので、煙草を一箱買う。奥に続く次のドアを開けて店内に入ると、マニュアル通りのフレーズが飛んできた。
「いらっしゃいませ、一名様ですか?」
「や、後から一人……」
 ぼそぼそと答える慧斗に、店員はにこやかに頷く。
「空いてるお席へどうぞー」
 午前九時のファミレスの店内は、禁煙席も喫煙席もぽつりぽつりとしか埋まっていない。左手側の喫煙コーナーに進み、入ってすぐの席に座った。コーヒーを注文して、煙草ケースのフィルムを剥く。備え付けのマッチで火をつけ、吸い始めてからそれほど経たずに、待ち人が現れた。入り口を振り返る慧斗に横目で気づいたのだろう、片手で店員を制した彼が、颯爽とした足取りで近づいてくる。脱いだハーフコートを簡単に折りたたみながら、二見は明るく微笑んだ。
「ごめんね。待った?」
「全然……すいません、急に呼び出しちゃって」
「はは、会おうって言ったの俺だもん」
 そう言ってまた、色鮮やかな笑顔を見せる。
 乾の二年先輩に当たる人物で、友人であり、エリートのつく営業マンでもある。良く見れば混血と判る容貌の、しかしその他人に比べてわずかに薄い色素を差し引いても、じゅうぶん人の目を惹くだけの魅力を持つ男。今朝……土曜日の朝に電話を掛けるのは迷惑だと思ったのだが、迷った上、彼の携帯電話にコールした。おそらく慧斗の電話に起こされたのだろう、少しくぐもった応答の後に、おはよう、と笑われた。時間を考慮できなかった慧斗の状況を察してくれたんだと思う、電話口で要領を得ない説明を始めた自分に対して、今から会おうと言ってくれたのだ。
 二見が同じくコーヒーを注文するのを眺めながら、はっと気づいて、煙草を揉み消す。
「二見さん、席、替えます?」
 当然のように喫煙席で待っていたが、二見は嫌煙家である。慧斗自身、喫煙家とはっきり判らない相手の前では一言断ることにしているし、例えば二見のように嫌煙家と判っていれば、吸わないように気をつけている。そんな、いつも通りのことさえまともに考えつかないなんて。
「いいよ、このままで……あ、慧斗くん誕生日だったんだって?今さらだけど、おめでとう」
 慧斗の申し出を軽く断って、一ヶ月以上遅れているとはいえ誕生日祝いまでしてくれるのだから。十二月八日が最初から意味を持つ人にとって、その日付はとても憶えやすいのだ。
「プレゼントなしでごめんね。あ、俺がそんなことしたら、また乾の機嫌悪くなるか」
 と、悪戯っぽく言った二見が、冗談はおしまいというように口元から微笑を消した。
「慧斗くん仕事明けだっけ……全然寝てない?」
「……休憩中うとうとしてたんで、だいじょぶです」
 隈でもできてるんだろうか、思わず下目蓋に手がいく。
「指輪、失くした……あー、見つからないんだって?」
 勘の良い口調で彼が、そう言い直してくれたから。慧斗は頷いて、左手の甲を撫でた。
「ずいぶん探したんですけど……家だけじゃなくて、店ん中も。でも見つからなくて」
「他に思い当たる場所は?」
「可能性があると思えるのは、家か店なんで。それこそ道端とかだったら……探しようないし」
「そう……そうだよね。乾に言っ――てたら、俺になんて相談しないか」
 コーヒーカップに口をつけながら、二見は思案するように空中を睨む。
「……一緒に探してあげるぶんにはいくらでも構わないけど。ずいぶん探したんでしょ? その顔だと」
「はい……それに、今夜会う約束してて。それまでがリミットかと思うと、焦るばっかで全然、見つかる気配もないっていうか」
 結婚式の参列を終えて、今夜、乾はこちらに帰って来る。
 単純に、会う度に指輪をし忘れると思われることだって嫌だし……その振りをいつまでも続けることなんてもっとできない。じゃあどうすればいい? 一番の解決方法はやっぱり指輪を見つけることで、でも、探し出したい気持ちばかりが強くて成果は上がっていなかった。呪いたいのは、自分の部屋の乱雑さだ。物を整頓する習性さえあったらと、こうなってしまえば悔やんでも何の意味もないんだけど。
 落ち着きなく左手を撫でていたことに、二見の目線で気づく。ばつの悪さを感じて視線を逸らすと、彼はゆるいウェーブの前髪を耳に掛けて、柔らかく目瞬いた。
「せっかく相談してもらってんのに、大したこと言えないんだけど……そういうのは、早めに打ち明けちゃったほうがいいねえ」
「もう……ちょっと、言い出すタイミングじゃなくて」
 慰めるような優しいトーンでそう言ってもらうことを、きっと期待していたくせに。まだぐずぐずと、首を横に振る自分がいる。
「どれくらい?」
「一週間……くらい」
「遅くないって、全然。謝っちゃいなよ、できるだけ可愛く」
 にっこり笑って首を傾げる二見の仕草は、とてもキュートだ。
 ふっと彼がその仕草を解いて、腕時計に目を落とす。細めのフォルムとプラチナシルバーの色が、こういう優雅な人には似合うと思う。
「今日っていうか、今から行ったら? 時間ある? 送ってこうか?」
 反面の行動力を裏付けるように、言いながら腰を浮かす勢い。慧斗は慌てて、二見を制した。
「や、今日結婚式で、昨日から地元に……戻るのが今夜なんです」
「そっかぁ」
 乾がいるはずの方向、東に首をめぐらせる彼につられて、ガラスの向こうを見る。その横顔に話しかけるべき言葉を探していると、尻ポケットの携帯電話が震えた。引っ張り出して画面を見ると、日勤の店員の名前が表示されている。彼女から電話が掛かってくることは滅多になく、怪訝にその文字を見つめてしまう。
「どうぞ?」
「あ、すいません」
 二見に促されて、通話ボタンを押す。
「はい」
『中村くん? ごめんねー』
「うん。どうしたの?」
 申し訳なさそうな声に首を傾げて、慧斗は用件を尋ねた。
『中村くんにお客さんなんだけど、もう上がったって言ったら、番号知らないから教えてくれって言うの。でも一応私から連絡取ってみるって言って、待っててもらってるのね。えーと……何て言ってたっけ、ノブヒロさん? の知り合いだって。判る?』
 自分の知らないところで、知り合いから、知り合いの知り合いに、携帯番号が流れるなんてよくあることだけど。彼女の慎重な判断に、感謝しないといけない。
「あー……知らないやつじゃないけど、番号はちょっと」
 まるでキーワードのように信広の名前を出して、何を感じろって言うんだろうか――嫌な予感以外に。
『じゃ、どうする?』
「行くよ。今駅前だから……五分で行ける。待っててもらって」
 まだ他に、何の用だ……げんなりした気分で、携帯をしまう。向かいでコーヒーを飲んでいた二見に、ちらりと目で謝罪する。
「すいません、俺、一回店に戻んないと」
「あ、そう? じゃあ出ようか」
「……あの。聞いてくれてありがとうございます、ほんと」
「あんまり参考にならなかったよね」
 滑らかな手つきで伝票を抜き取ったのは二見で、こういう時自分には反射神経というものがない。
「二見さん、俺払います」
 財布から抜き出そうとした千円札は、やや強引に押しとどめられる。
「そのお金で、今度またゆっくりお茶飲もう」
 二見はそうとだけあっさり言って、コーヒー代を清算してしまった。駐車場で別れて、原付のウィンカーをアパートとは反対方向、店の方向に出す。大通り沿いのファミレスから、同じ大通り沿いのコンビニまでは一直線だ。対向車が途切れるのを待って駐車場に滑り込むと、車止めにしゃがみ込むような格好で、彼はこちらを見ていた。

 

 朝から曇が多く、気温はあまり上がっていない。バイクから降りてヘルメットを外すと、頬は切れそうなくらい冷たくなっていた。店内からこちらを窺っていた女性店員に片手を上げると、彼女は小さく二、三度頷き、仕事を再開したようだ。
 被っていたダウンのフードを下ろして、混毛ファー以外全身黒づくめといった印象の彼が立ち上がる。両手に大事そうに缶コーヒーを握っているから、つい、それが口をついた。
「中で待ってたら」
 整った眉がぎゅっと寄せられる。
「関係ないだろ」
「解ってんじゃん…何から何まで、俺には関係ないんだけど?」
 呆れて言いながら、慧斗は両ポケットに手を突っ込んで、肩を縮めた。暖かい店内から一変、もろに風を受けてバイクを飛ばして来たので、とにかく寒い。彼と向かい合い、けれど目線は冷たいアスファルトの地面に落とす。
「なんでノブヒロさんに言わねえの?」
 すぐに強い口調で詰問され、顔を上げることになった。
「は?」
「俺のこと。言いつければ、守ってくれんじゃねえの」
「…だから。切れたって言ってんだろ。それ、先輩から聞いたの」
 慧斗の問いかけに、ぐっ、と、黙る。
「まず、本人に聞てみな」
「偉そうに言わないでくんない」
 そうかと思えば弾かれたような反発。慧斗は首を振って、同じ答えを、言い回しを変えて繰り返した。
「とにかく俺は関係ないよ…一抜けたから。俺、付き合ってる人いるし」
「皆言ってんだよ。オナチュー、オナコーで、ずっとノブヒロさんのツレだったやつがいたって。ケイト手放したってことは、もう男は飽きたんじゃねーのって。ケイトってあんたのことだろ?違うのかよ」
 事実と、嘘ではないが歪曲された事実、それに憶測がごっちゃになってる。聞かん気の強い、ひどく子供っぽい表情で睨みつけてくる彼に対して、柄じゃないんだけどと思いながらも慧斗は言葉を重ねた。
「違うかどうか、だから、本人に聞いてみな。お前…俺が先輩に言いつけたら、気を引けるとか思ってんなら間違い。俺の知ってる頃ならだけど…他人の噂で判断されるなんて、あの人許さねえよ」
 信広は噂話なんて無限に持つ男で、外野で囁かれる噂には鷹揚だし、自分自身でもそれを楽しんでいる節がある。一方でテリトリーの内側の人間にはそれを許さず、もし”内側”の人間がそんな無責任な噂話の方を信じていたりなんかしたら、とても、不快な顔をするはず。端整な頬に、かわいそうなくらい赤みが差したと分かったのに。
「自分から嫌われるようなことして、どうすんの?」
 最後そう付け足してしまったことが、余計だった。知らされたのは次の瞬間だ。
「何がわかんだよっ、あんたに」
 押し殺すようにも聞こえたし、ヒステリックに空気をつんざくようにも聞こえた。衝撃だったのはでも、そんなことじゃなくて。熱い感触が顔面に広がり、それが、胸元まで垂れる。
「…っ」
 一瞬遅れで身を捩る。
 顔を拭った手に、べたつく熱さ。睫毛に絡んだ液体が目に入り、一瞬、目が開かなくなる。腹のあたりに何か軽い物がぶつかったかと思うと、ッカン、アスファルトに跳ね返る。
「おい」
 静止したかったわけじゃなくて、半ば無意識にそう呼びかけただけ。それに対して彼は、
「最悪っ」
 捨て台詞と、空の缶コーヒーを残して、走り去って行った。
 まとわりつくコーヒーの甘ったるい匂いと、衣服に染みていく不快な重さ。慧斗はTシャツの襟元を引っ張りながら、ため息を噛み殺した。

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