2.
前回クリーニングから戻って来た状態で、そのまま収納されていたのだろう。クローゼットから出された一着のスーツは、透明なビニールが被さったままで、タグも付けっぱなしになっている。そう頻繁に着る種類のものではないから、今回着たらまたクリーニングに出して、同じようにそのままの状態で再びしまわれることになるんだと思う。ライトに照らされて艶やかに光る、それは真っ黒な礼服だった。
クローゼットのへりにハンガーの先を引っ掛けて、乾が振り返る。礼服姿は見たことがないのだが、やや痩せ気味とはいえ長身の彼は、スーツの似合う体格と言ってよかった。
「週末、ごめんな」
穏やかな眉を少し下げた乾に、笑いかけられる。
何を謝られているのか戸惑ってその顔を見返すと、彼は大きな口元に手をやって、宥めるような目瞬きを寄越した。
「こっちにいられなくて」
「あ。そんな、全然」
今週の金曜と土曜の都合が悪いことは、もう一ヶ月以上前からわかっていたことだ。それより前に、慧斗が珍しくも土曜に休暇の希望を出していたとしても、仕方ないと思えるだけの理由がある。乾は金曜の仕事が終わるとそのまま、最終の新幹線で地元に戻ることになっている。土曜日に行われる、学生時代の友人の結婚式に参列するためだ。土曜の始発に乗るよりは金曜の最終で実家に戻り、一泊したほうが体力的に楽なのだそう。年末ということもあって、特に最近の彼は残業続きで疲れた様子だ。招待状が届き、出席の文字にマルをつけた時から今週末の最優先事項は決まっていたはずだし、不満は感じていない。
「全然って。中村くんさ、少しは残念がってくんない？」
苦笑しながら、乾がテーブルの向かいに座る。表情も口調も冗談めいているが、その反応を素っ気ないと感じたのかもしれない。慧斗は慌てて、弁解のための言葉を探した。
「でも、土曜日……休み取れたから。帰って来るんでしょ？」
「もちろん」
「とんぼ返りさせちゃうから、なんか、そのほうが申し訳ないっていうか」
金曜に出発して、土曜の昼間に結婚式に参列し、夕方には戻って来る予定。それに合わせて慧斗が土曜日の深夜勤務を休むのは、乾の意向なのだが。長距離往復の強行スケジュールに一役買ってしまったことに、気が引けている。
テーブルの上で中途半端に組んでいた手に、大きな手が重なる。
「浮かない顔させたいわけじゃないんだが。迷惑？」
「違います、あの……」
ああ、上手く伝えられなかった。困惑を持て余す慧斗の顔を覗き込んで、けれど彼は、楽しそうに破顔するのだった。
「なんつって。ま、きみが考えてるよりはタフですよ、俺だって。俺の都合にきみが合わせてくれたんだから、それ気にしてどうすんの」
骨格の、ひとつひとつの関節を楽しむように撫でていた動きを止めて、乾は慧斗の左手を持ち上げた。丸みのある指先が、薬指の付け根をなぞるから。どき、と言うより、ぎく。肩を縮める慧斗を面白そうに見て、くく、喉の奥を震わせる。
「まーた、どっか置いてけぼりにしたな？」
これに関して初犯ではないことを強調されたが、怒った様子はない。けれど言い訳の余地がないのも確かで、慧斗は気まずく目を逸らした。実は、と、心の中で告白する。もう何日も、思い当たる限りの場所を探しているのだが、指輪は見つからない。きっと彼は、今時点で指輪をし忘れているだけだと思っているはずだから……そう思うとやはり、言い出せなかった。
「……ごめんなさい」
以上でも以下でもない単なる謝罪に、乾はあっさり頷く。
「はは、俺もよくやる。忘れないように意識してないとさ、すぐどっかに置きっぱなしにしちゃうんだよな。まあつまり……そうやって意識し続けなきゃならないってことが、何よりの効果なんだろうけど」
やんわりと言葉を切って、乾は自分の左手に目を落とした。彼の薬指には今もちゃんと、同じモデルの、彼のための指輪が嵌められている。
「ひとつのシンボルっていうか、記号でしょう、こういうのって。結婚式にして行こうと思うんだけど、いいかな」
「……なんで訊くんですか？」
急に許可を求められて、何かの核心なのかそうでないのか、まるで掴めずにまごつく。嵌めた指輪をきゅっと回してみせて、乾は伏し目がちに笑った。
「仲間内での結婚でさ、知り合いいっぱい来るからね。しょうもねえ生き物ですが、俺にとってこれは、誇示する意味が非常に強かったりするわけだ」
言い終わってもまだ黙っていたら、
「――なんか言ってよ」
頭を小突かれた。
対の指輪って、お互いにとってはお互いを意識させるツールであり、第三者にとってはパートナーの存在を意識させるツールなんだ。彼がわざわざ言葉にしてくれたのはそのことで、柔らかいテノールに疼いているのは、左の薬指と、罪悪感だろう。同時に、意味深な指輪を仲間に示すという彼の予告が、慧斗を密かに喜ばせている。
けど、もちろん嬉しいんだけど。なんとなくらしくないとも、どこかで感じていて。まるで自分に、それから慧斗にも言い聞かせるみたいに予告するのは何故かと考えると、訊いてまで知ることではないと思っていた一つの想像にどうしてもたどり着いてしまう。
「あの、今さらなんですけど」
「うん」
「新婦さんと……前、付き合ってたり、します？」
「なに、いきなり……」
確かに唐突な質問だったから。片眉をひょいっと上げて、乾は面食らったような顔をした。けれどすぐに、その表情は元の涼やかさを取り戻す。
「って。即答しないってことが、答えだよなあ」
ゆっくり緩められた唇から出たのは、肯定の言葉だった。
「付き合ってたよ。俺らの歳で早いか遅いかはわからんけど、中には結婚するやつもいるよな、そりゃ。彼女のこと、気になる？」
「ごめんなさい……変なこと訊いて」
やっぱり言うんじゃなかったと後悔する。ただ、確か十月の半ば頃だったと思うのだけど、乾宛に届いた招待状の差出人が女性の名前だったから……少し、引っかかっていたのだ。推測なんかじゃなくて、ただの勘繰り。慧斗は両膝を抱えて、額を押し付けた。自己嫌悪のポーズ。向かいで身じろぎの気配がして、その気配はすぐに、触れ合うほど近くに落ち着く。慧斗の横に座り、肩を抱くと、乾はやはり鷹揚に笑った。
「今んとこ、特に変なことは訊かれてませんが。で、何から答えたらいいのかな？」
「前のことは……だって、気にし始めたらきりないから」
「時々思うんだが。きみは俺を、一体どんな人間だと思ってんだ？ そんな、際限なく過去があるような男に見えますか？」
ふふ、微苦笑の振動を感じたと思ったら、頬を摘まれていた。くに、と伸ばすから、言い訳が不明瞭になる。
「ほうひゃなくて」
そうじゃなくて。
「……前のことじゃなくて。今、っていうか……招待状が届くまで、進行形で思い出したりしてましたか？」
「してないな」
ごく自然な即答。
「忘れたわけじゃないけど、思い出すってこともなかった。卒業してから一度も会ってないし。体験とか記憶の、まあ、一部だよな。招待状届いて、あいつ結婚すんのかぁとは思ったけど」
慧斗の頬を撫でながら、思案するようにちらりと目線を天井に逸らして、戻す。
「中村くんは？」
「え？」
「進行形で思い出したり、しないの？」
目的語が抜き取られているが、抜かれているからこそ、意味が通る。すぐに否定できなかったのは、数日前の一件があったからだ。信広を慕う青年が突然現れたことを、慧斗は彼に話していない。一瞬答えに詰まった理由を乾が知るはずもなく、
「口ごもるか。そこで」
ちらりと嫌な顔をされてしまった。
「や、違」
「思ったよりショックなもんだな」
「乾さん」
長い腕の中でもがいて、顔を見上げる。
「はは、嘘。意地悪してごめん」
翻弄されるふりを楽しむ男の性癖に、いつも翻弄されている。ほっとした気持ちで抱きつく慧斗を、彼は拒むようなことはしなかった。一日着ていたワイシャツからは、かすかな汗のにおいと、煙草の残り香がする。パーフェクトなにおいだった。
しばらく抱き合い、ワイシャツの胸を押し返す。
「……そろそろ行かなきゃ」
言いながら、慧斗は立ち上がった。
「そんな時間か……後でさ、電話入れてもだいじょぶ？」
あと数時間で、明日になるのに？
「寝る前に声聞きたい」
「……あ、うん」
「つうか、電源入れといてね。で、電源入れた携帯を、所持しておくように」
「はい……でも無理しないで、寝てください」
笑い返しながら、ドアノブを握る。
「寝ないって……繋がんなかったら、店に掛けるぞ？」
ドアと、胸板に挟まれて、慧斗は差してくる影を見上げた。鼻先が近けられるので、少し首を傾けて、より良い角度に。
かさついた唇と、唇が重なる。軽く吸って、
「もうちょっと……」
「ん」
軽く吸っただけで離れられるなんてことはできなくて。
振り向きざまの身体を捻った状態まま、乾の首を抱く。さらに屈み込んでくれた彼と唇の内側を重ね合い、舌を絡め、ねっとりしたキスをする。永遠に続ける訳にもいかず、渋々放すと、ちゅ……未練がましい音が立った。
「行くから……」
「はい、行ってらっしゃい」
午前零時を数分まわった時刻に、ユニフォームのポケットの中で携帯電話が震える。画面を見ると、ところが友人からで、単なる呑みの誘い。了解、の二文字のみを入力して返信していると、今度こそ着信があった。
「タイスケさん、一瞬、外出ていい？」
「おー」
今日同じシフトに入っているのは一歳上の副業バイト店員で、返却用の週刊誌に夢中な泰祐は、こちらを見もせずに頷くだけだ。自動ドアから出て、駐車場脇の倉庫に寄りかかりながら通話ボタンを押す。
「はい」
『まずい、落ちてた』
言葉通り、寝ぼけた乾の声。
「はは、無理しないでって言ったのに」
『するさ。これで今日の夢にきみが出てくる』
「……なに言って」
『ほんとだよ』
堪えきれずに口元が緩んでいることは、たぶん、電波に乗って伝わってしまってる。
不意に、喧騒がフェードインしてくる。気が逸らされて前を見ると、大学生風の集団が店の前を横切ろうとしているところだった。酔っているんだろう、大声で笑い、時々ふらつき、それにまた笑い合っている。別段珍しくもないその光景の、一部に気づき、携帯電話を耳に押し付けていた手からわずかに力が抜ける。
この間と同じ、夜に溶け込むように真っ黒な、つやのあるダウン。前髪の隙間から、射抜くように鋭い目線。
慧斗は頬に落ちかかる髪を払って、慎重に彼を見返した。
ある形に口が開き、その悪意あるメッセージを確信させる、最低なジェスチャー。……はぁ、思わず漏れたため息を拾ったのは、電話の向こうの人物だった。
『どうした？』
「あ……なんでもない」
携帯電話を持ち直し、もう一度前方の歩道を見ると、もう誰もいない。
「乾さん、明日、気をつけて」
『ありがと。土曜日なるべく早く帰るね』
「……うん」
乾が通話をオフにするまで待つ。ツー、ツー、ツー、無愛想な音に耳を傾けながら、慧斗は左手の薬指を握り締めた。