Novel >  KEITO >  泳ぐ鳥1

1.

 気づいたのはさっき。
 洗面台で手を洗いながら、いつもの癖で、左の薬指を触った時に。
 何故そんな癖がついたか、それがまさに答えなのだ。仕事中だったら掃除の後や、食品を扱う前に。家だったら風呂に入る時とか、例えば服を着る時に引っかかりそうになったからなんて理由で。
―― 一度外指輪を外すと、すぐに見失ってしまう。
 時々薬指の付け根を確かめるのが、いつか癖になっていた。触ってみて硬い輪っかに当たらなければ、どこかに置き忘れているというわけ。店の洗面所には、客が指輪やピアスを置き忘れていくこともある。探してみた限りでは、その手の忘れ物も、また、見慣れたプラチナメタルの指輪もなかった。たぶん部屋のどこか…洗面台か風呂場あたりに高確率で、置きっぱなしになっているんだろう。頭では判っていても、一方に残る不安が、チリチリと胸の中で焦げついている。部屋に戻って実際に見つけ出すまでは、この感覚に甘んじていなければならないのだった。

 

「中村さん聞いてくださいよ」
 慧斗の後ろで陳列ケースに煙草を充填しながら、久保がのんびり話し出す。二年目になる深夜シフトの学生アルバイトで、まだ慧斗がバイト店員だった頃からの付き合いだ。慧斗の知る限りでは、深夜シフトのメンバーはそれほど入れ替わりがない。
「ん?」
 作業の手を止めずに、相槌だけ打つ。
「俺さっき、半年振りくらいに切手売っちゃった。一瞬ビビりますね、うわ切手ってどこだっけーとか。たぶん客も、あ、こいつ切手なんて言われて焦ってるよ…と思ってたと思うんですけど。夜中って、あんまり特殊なのなくないすか?」
「あー、かもね」
「聞き流すし」
 上の空の態度を、注意されてしまった。これ以上考えるのをやめないわけにはいかないだろう、まだ当分、仕事は終わらないのだから。
「…聞いてるって。で、ちゃんとやれた?」
「一瞬半泣きでしたけど。一人でできました」
 茶化すように言って笑う久保を肩越しに振り返り、慧斗は握っていたボールペンを指先で回した。
「伝票書きも、一人でできる?」
 現在行っているのは、宅配便の伝票処理。切手、もちろん葉書に、通販の決済、振込業務全般だって、扱っていない事を挙げる方が難しいほど、コンビニってのは何でも請け負っている。事務作業の嫌いな彼はわざとらしく顔をしかめて、そそくさとレジを出た。
「ペット補充してきます」
「よろしく」
 零時を目安にペットボトルを補充するのは、元々個人的な習慣みたいなものだったのだが。慧斗をチーフにしたシフトでしか働いたことのない彼にとっては、それが当然のタイムテーブルなんだろうと思うと、不思議な気もする。中断していた伝票書きを終えてしまおうと、慧斗は再び複写紙にボールペンの先を押し付けた。近眼予備軍というか、文字を書く時、顔と紙との距離はほとんどゼロになる。ゴリゴリと日付を書き終えて顔を上げると、ふと、頭上に影が差した。
 自動ドアのセンサーを聞いていたから、客が入って来たのはわかっていた。
「あのさ」
「あ、はい」
 地元の大学生ってとこだろう。
 ファー付きの真っ黒なダウン。ポケットに両手を突っ込んで、寒さに赤くなった耳たぶには、きんきんに冷えているだろうピアス。彼は長い前髪の隙間から、ちら、一瞬横に視線を走らせて、きつくこちらを睨みつけてきた。
「ケイトって、誰」
 語尾が上がらないから、疑問形ではない。慧斗はレジ台に屈み込んでいた姿勢を正して、背筋を伸ばした。
「…俺だけど」
 いくらか背の低い相手が、上目遣いに、びっしり生えた黒い睫毛を瞬かせる。可愛いタイプだろう、間近に見ると強烈なくらい。大きな目が零れそうだなんて思いながら、その強い視線をかわすように目を伏せる。見られる方にとってあまりに気まずいと感じるだけの時間を置いて、
「大したことないじゃん」
 まるで脈絡のない言葉が投げつけられた。
「…は?」
 反応と言えるほどの反応ができず、無反応に終わる。それが相手の不況を買ったよう、またきつく睨まれ、さらに告げられたのは予想なんてできるはずもない名前だった。
「ノブヒロさんのお気に入りだったってゆうから、どんだけきれいかと思ったけど。全然、大したことないのな」
「はぁ」
「他になんか言えねーの?」
「ノブヒロって…佐藤?」
 慧斗にとっては、必要な質問だったのだ。
 突然聞かされた名前は、もうずいぶん、誰かの口から聞くことがなかったから。そんないちいちの反応が気に入らないといったふうに、彼は床に向かって吐き捨てる。
「他にいんのかよ」
「俺にはいないけど…お前、誰?」
 なんとなく、見えてきた。
 昔は時々あった、場所はともかく、こういうシチュエーションは初めてじゃない。特別な質問ではないはずの慧斗の一言に、混毛のファーまで逆立ったように感じさせるくらい殺気立つ。臨戦モードから、戦闘モードに変わったってとこ。
「あんたには関係ない」
「ムチャクチャ言うじゃん」
「そ…関係ないだろっ」
 外と中との温度差のせいで最初から赤かった頬に、一際の赤色が走る。まともな反論ができる状態なら、そりゃ、最初から思い込みでこんなことしてないだろう。慧斗はなるべく相手を興奮させないように、静かなトーンで言った。
「何しに来たのか知らないけど。俺、先輩とはもう切れてるから」
「信じるかよ、それで」
 瞬発力を持つ反駁に、無意識に左の薬指に手がいって、そう、今は示せる物がないのだと思い出す。でこぼこのない付け根を撫でながら、でもほんとうに、それ以上説明できる事実なんてほとんどないのだけど。
「信じないも何も…昨日今日の話じゃない、一年以上前。解ったら、帰んな」
 慧斗はそれだけ付け足して、顎先で自動ドアへ促した。彼の、どこか甘えるような雰囲気の顔立ちが、苦々しく歪められる。
「くそ、最悪」
 ドカッ、振動と同時に、力任せに蹴りつけられたレジから派手な悲鳴が上がる。
 バックルームにまで破壊音が伝わったのだろう。裏側で冷蔵ケースと繋がるその扉が開き、確認の声が飛んできた。
「中村さん、どしたんすか?」
「…なんでもない」
 乱暴な足取りで去っていく黒いダウンの後姿を見送りながら、慧斗は久保に手を振った。
 呆気に取られた気分はまだ余韻を引きずっていて、遅れてかすかな不快感が追いついてくる。
 ふぅ。ため息が出た。

 

 因果なんて感じたくないけど。
 指輪をし忘れた瞬間から、運命の方向が変わってしまったんじゃないかとさえ思えてしまう。休憩中も上手く仮眠が取れず、手慰みに煙草を吸い始めれば止まらなくなり、灰皿に吸殻を押し込むうちに朝になった。シフト交代の時間になると、事務所は一時的に混雑する。
「おはよ。道路凍ってるよー」
「まじかよ…」
 お互い身体を引いてすれ違いざまに、店員仲間からの情報提供。嬉しくもない交通情報に眉をしかめて、慧斗は店を出た。
 深夜の珍客、明け方に予報外の霧雨が降ったこと、そのせいで道路が凍ったことだって、連鎖だとしたら?一秒でも早く、指輪を見つけ出したい気分なんだ。
 パーカーのジッパーを一番上まで閉めて、ヘルメットを被る。この時期、ゴーグルと手袋も欠かせない。最後にフードを上げて、慎重にバイクを発進させた。

 

 車の横をすり抜けて走り、ウィンカーを左に出して細い道へ入る。駐輪スペースにバイクを停めて、少し凍っているかもしれない、冷たい階段を急いで上った。
 玄関のドアを開け、外した装備を放り出して、そのままユニットバスのドアを開ける…タンクの上にも、鏡の前にも、シャワーの近くにもリングはない。部屋に入り、ベッドの上を大きく撫でてみても、硬い感触はなくて。山積みになったCDケースをずらしても、落っこちていたジーンズをめくってみても。

「…ない」

 いつもの場所に置き忘れているんだろうと思ってた。予想の外れた落胆が一瞬で通り過ぎると、強い焦燥感だけが取り残される。
 冷え切った髪をかき回して、大きく息を吸う。
 落ち着け。
 とにかく、探さないと。

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