4.
「あの」
「はい?」
「明日って、お休み、ですよね?」
少しおどおどした、それでいて決め付けるような付加疑問形。釣り銭を返し、ビニール袋を差し出す寸前のタイミングだった。年中無休、二十四時間営業のコンビニの営業日をまさか尋ねるものではないだろうと思いながらも、
「…俺?」
自分の胸元を指差すリアクションで正解かどうか不安がよぎる。うん、と頷く仕草は、慧斗を勇気付けるように力強かった。
「休み…だけど?」
「やっぱり」
敬語を呑み込んで答えると、彼女はほっとしたような笑顔を見せる。
週に数回、来店するのは決まって十時過ぎの、予備校帰りと思しき女子高生。店内で目にする比率の一番高い、私立高校の紺色ブレザーだ。
夜勤シフトのメンバーは少人数だし、それでなくても店員である以上、一瞬であれ客から注目される立場にある。こちらが憶えているくらいだから、相手に顔を憶えられても不思議はない。疑問なのは、何故、今、シフトの確認をされているのかということだけだ。回答を待つ態度の慧斗に気づいたのだろう、彼女は勢い良くブレザーの左ポケットを覗き込み、
「あの、これ」
中から取り出した物をレジ台に叩きつけるように置いた。パンッ。
「ちょっと早いんですけど、よかったら」
ビニール袋を引ったくると、彼女は足早に店を出て行ってしまう。一緒にいた子、外で待ってたのか。なんて思いながら、慧斗は女子高生二人組が、小走りに夜の向こうに消えて行くのを見送った。
淡いピンクの包装紙に、小さな花の飾り。長方形の箱は、手のひらにすっぽり収まるサイズだ。
「――あぁ。そっか」
レジの真正面にあたる棚にも、コーナーを設けてあったっけ。きれいに包装された、あるいはライターやマグカップや酒とセットになった、チョコレート。明日が終われば、それらのほとんどは割引のセール品になるけど。
「ケイト、鈍っ」
斜め後ろを振り向くと、同僚の泰祐が呆れ顔で立っていた。
慧斗の定休日で、乾が曰く強硬手段で有給を取った日。世間で言うところのバレンタインデーは、早朝、まだシフト明け前から深々と雪が降る、寒い一日になった。
店を出ると、駐車場の脇にはでこぼこの白い層が数センチできていた。欠伸の息が、煙のように大きく広がる。一番端に停まっている車の排気口からも、真っ白な煙が噴き出しているのが見える。助手席のドアを開けると、乾が苦笑いで迎えてくれた。
「お疲れ。寒いから、取りあえず乗って、閉めようぜ」
静かに滑り出した車は、そのまま朝の通勤ラッシュに合流した。ゆっくりと進み、すぐに信号に引っかかる。車内は、暖かい空気とFMラジオの小さな音、缶コーヒーの薄っすらとした匂いに満ちていた。シートの柔らかさも角度も最適。それぞれが生み出す相乗効果が、慧斗に奇妙な安心感を与えていて、否応なく助手席派を自覚させられるのだった。
「去年より降ってるよな、雪」
「あ…うん」
誰に言うともないトーンの呟きに、物思いから引き戻される。
「それ、収穫?」
膝に乗せたビニール袋の中には、帰り際に買った煙草の他に、昨夜から今朝にかけてもらった品が数点入っている。収穫と言うほど誇れる内容ではないと、慧斗は笑った。
「主に、うちの姉さん達から」
「主にって、ひっかかるなあ」
「…あと、女子高生とか」
「お」
「つーか、深夜から明け方って、そういう仕事のお客も多いから…ノリで」
「モテてんじゃん」
乾は少し遠くを見るような顔をして、それから、こちらに目線を向けた。
「あ。そういや、俺からもあげたしね」
「…え?ああ、空港土産?」
「そうそう」
帰国間際に空港の免税店で慌てて買ったので、イギリス土産ではなく空港土産らしい。甘い物は少しでじゅうぶんな慧斗は、個包装の一つをもらっただけだが、ドライフルーツが入ったミルクチョコは決して不味くはなかった。
「で、俺には?くれないの?」
「欲しいの?」
「そりゃ、男子なら欲しいでしょう」
「そうなんだ…」
「間違えた。好きな子からなら、欲しいでしょ」
「…ああ、そっか」
「あれ、揶揄ったつもりだったんだが」
素直に納得する慧斗に、あてが外れたよう。乾の、些細だが性質の悪い所だと思う。名指しされているのと同じことだと気づかなかった自分も、鈍感だけど。今さら照れようとする身体から抗うように、慧斗は前髪を引っ張った。
「じゃなくて。ほんとはちょっと困ってて。指輪とか、俺、してんのになって思ったんだけど」
「してない時も多いからじゃない?」
「そ…」
「いやごめん、続けてください」
「いいですよ別に…もう」
「ごめんごめん、口挟まないから。ちゃんと聞くよ」
左手の薬指が、今日は空いているのは確かだ。在り処はわかっている。ネックレスのチェーンに通すのが気に入って、最近は首からかけていたところ、今日はそのネックレスをし忘れたという真相。昨日までしてたのに、なんて威張ったって仕方ない。肝心な時にし忘れない乾のような人からしたら、大差ないのだろうし。
慧斗は左手の甲を擦りながら、もごもごと口の中で言った。
「俺はひとのものですけど、恋愛って、そういうもんだったなあって…思った、だけです」
「うーん。深い話になったな、なんか」
くぐもった声、笑ってる。
「忘れてください」
急激に恥ずかしくなって、ごまかせる勝算もなくFMラジオの局番を変えた。パーソナリティーのフリートークに代わって流れてきたのは、流行りのJ-POPだ。
慧斗が感じたのは、巡り合わせの偶然みたいなものだった。バレンタインになぞらえるならば、好きな人にあげる人がいて、好きな人からもらう人がいて、もらった相手とは別の人を好きな人がいる。その別の人はもしかしたらさらに別の人を好きかもしれなくて…エトセトラ、エトセトラ。繋がって枝分かれしていく色んな人がいて。その中で組み合わせになった二人であるということは、頭の中で閃いたイメージに率直であるなら、奇跡、のほうが近い。
やはり物思いの沈黙に、乾もまた、沈黙で付き合ってくれた。
ふと、窓が薄っすら曇って結露を始めていることに気づく。人差し指をあてると、とても冷たい。何をするつもりもなかったけれど、一筆書きで小さな魚をあしらってみる。下手くそな仕上がりのそれを、ぐるぐると指先で消し潰して、慧斗はシートに身体を沈めた。
「眠い?」
「ううん…」
「これから俺に付き合うんじゃ、リズム崩れるよな」
「なに…今さらっていうか、普通ですよ俺には。乾さんこそ、仕事だいじょぶなんですか」
「今日は一日、中村くんのために使うよ。埋め合わせ、とか言ってる時点で既にダメな空気ですが」
「そんなこと」
言ったもの勝ちとばかりに埋め合わせなんて言葉を使って、最後の最後で、どさくさに謝罪するのだから。それでも柔和なテノールに包まれた心地よさのほうが勝るのは、もはや自然現象なんだろう。
落書きの跡から透けて見える通りの様子に、少しだけ、そわそわする後ろめたさを覚えた。
(2008.2.26)