Novel >  KEITO >  或る冬の風景3

3.

 静けさを押し上げるように、昼下がりの気配がひたひたと部屋に満ちている。カーテン越しに届く太陽の光は、うっすらと弱い。車の音や時々聞こえる人の声は、雑音と呼べるほど確かな不快感を与えるものではないが、子守唄代わりになるほど心地よいものではなく、どこまでも日常の音だ。
 浅い眠りの向こうの、いつもの気配。
 枕元で、くぐもった低い音がする。振動に付随した音ははじめ意味を持たず、少しの時間を要して、それが携帯電話のバイブ音だと悟る。慧斗は寝返りを打ち、震える機体を引き寄せた。
 ディスプレイに流れる着信中の文字とその下の人名を起点とした状況判断は一瞬、どうやったかなんて自分でもわからないまま、跳ね起きると同時にスピーカーを耳に押し当てていた。
「――はい」
『中村くんに通じてる?』
 独特の、どこか間延びして聞こえる温和な声。
「あ、うん…」
『ごめん。その声、寝てたよな』
 起き抜けの声は、部屋の乾燥が喉に与えたダメージと相まって、かなりかすれていた。
「だいじょぶ…乾さん、今」
『もう空港。あと十分くらいで快速が来るから、四十分後くらいには駅かな』
 四十分…と口の中で復唱して、コンポの時計に目を凝らす。会話のわずかな隙間を埋めるように、スピーカーの向こうで乾が言った。
『俺の言ったこと、憶えてる?』
「憶えてますよ…」
 即答できたのは、それが念頭にあったからだ。自分にとって懸念でさえある一つの約束(…提案と言ったほうが正確だろうか)は、乾の帰国を控えた昨夜あたりから、ずっと頭から離れないでいる。
『まあ、無理は言わないよ。冗談半分で言ったことだし、本気にされなくてもしょうがない。つーか中村くん、最初から乗り気じゃなかったもんなあ』
「…ううん。行くよ、行きます」
 あの時、乾の部屋でテレビを見ながら喋っていた時。ふと悪戯を持ちかけるように言った彼の言葉から、半分の冗談を差し引けば、残るのはもう半分の本気だろう。慧斗が乗り気でなかった理由は単純に、生活の中での移動手段を原付バイクにほぼ限定している自分が、いくら免許の更新はしているとしても、乗用車それもスポーツカーを運転するのは勇気がいるからというだけ。
 スーツケースを携えて徒歩で移動するには、少し距離が長い。行きは駅までバスを使うと言っていたが、自宅前にバス停があるわけでもなく、時刻表の間隔にも翻弄されがちな公共交通機関は、不自由な面が多い。
 帰りはもう少し楽をしたいというのが、動機の一つ。もう一つの動機が、タクシーという無粋な選択肢を除外させた。駅まで迎えに来てもらう、っていうシチュエーションがカップルらしくていいんだって。想像したわけじゃない、本人談。
 もし起きていたら、とか、もし時間が合えば、とか、もし気が向いたら、とか前置きがあったと思う。だけど、渡された車のスペアキーは、慧斗があの青い車で乾を駅まで迎えに行くことだけを可能にしているのだ。
『無理しなくていいんだぜ?』
 繰り返さなくても通じてます、と心の中で返事をする。含み笑いの顔がぼんやりと浮かんで、見えないその顔に向かって慧斗は首を振った。
「つーか、俺が無事に着けば、だよ」
『おいおい、怖いこと言うなって』
「うん…西口で待ってます」
『頼りにしてます。じゃあ、切るね』
 ホームはずいぶんざわついていたのかもしれない。電話が終わり、再び静かな部屋に一人になると、そのギャップを感じる。
 気まずい、少なくとも慧斗にはそう思える別れ方をして、思いつきみたいな口約束なんか反故になるだろうと思っていた。しかしどこかで期待する気持ちもあって、午後早くから起きていられるように、帰宅してすぐ寝てみたりしてた。携帯の充電だってしてたし。マナーモードのままだったけど、ちゃんと通じだだろう?
 ベッドから降りて、テーブルのキーケースを取り上げる。
 カバーを開くと左から順に、原付の鍵、アパートの鍵、乾の部屋の鍵、そして車のスペアキーが並んでいる。六連の金具のうち四つが使用中。達成率を競うアイテムではないとわかっていても、決して悪い気分ではないのだから、自分で思っているよりありふれた感性の持ち主なのかもしれない。

 

 原付で乾のマンションまで行き、そこで乗り換える。
 アクリルのブルーが、寒い冬、曇天の素っ気ない景色によく映えている。ドアを開いて、普段座ることのない運転席側のシートに収まる。車を運転する機会は、大胆に平均しても年に数えるほどしかなく、最後はいつだったっけと考えてもすぐには思い出せない。エンジンのかけ方を忘れていたら笑えるな、とか考えながらキーを回し、ミラーを見上げる。アクセルを踏んだ瞬間、4WDの力強さに驚いたりはしたけど。

 

 巨大な繁華街とオフィス街を擁する東口に比べれば、西口はシンプルに機能している。ロータリーに沿って徐行し、西口一面を見渡せる位置で車を停めた。時計は、予定時刻の数分前を示している。フロントガラス越しに、周囲より多少背が高くて、颯爽とした大股の、スーツケースを携えた男を捜す。雑多な視覚情報に過敏でいなければならなかったのは、それほど長い時間ではなかったと思う。ただ、見当をつけては外れるという経験を繰り返すには、じゅうぶんな時間だった。
 ――あ。
 頭一つ高い、ダークグレーのコートを着た、いかにも出張帰りのサラリーマン。
 どうアクションして注意を引こうか慧斗が迷う間に、彼は停止した自分の車を発見したよう。石畳をゴロゴロと転がる小ぶりのスーツケースの音が、遠くからでも聞こえてくる気がする。下ろしたウィンドウの向こうから、乾の顔が覗いた。
「よかったよ、無事に着いてくれて」
「お帰りなさい…」
 お互いの第一声が噛み合わなかったのは、上手い冗談を返すことができなかった自分のせいだろう。
「ただいま」
 乾はことさらそれを指摘することなく、語尾を小さく弾ませるように答えて、頷いてくれた。スーツケースと脱いだコートをトランクに入れると、運転席には回り込まずに助手席のドアを開ける。
「よろしく」
 あくまで慧斗をドライバーに専念させる気らしい。ゆっくりと丁寧に車を発進させたつもりだが、乾は及第点を出してくれるだろうか。彼は助手席のシートを後ろへ動かしながら、気の抜けた声を出した
「一週間ぶりなんだよなあ。なんか、損したっつーか得したっつーか」
「うん」
 二度のワープを行った、率直な感想なんだろう。会えない時間が長かったのはこっちのほうだ、なんて恨み節みたいなこと、口に出したりしないけど。慧斗が代わりに吐き出したのは、一週間分の思いを込めた、楽になるための短い呪文だった。
「すいませんでした」
「んっ?」
 少しの勇気を必要とした謝罪を、不思議そうに聞き返さないでほしい。
「こないだ。憶えてないなら、いいけど…」
 言葉尻に、カチ、カチ、ウィンカーの音が重なる。赤信号と乾の返事を待つ間の、カウントダウンの音。
「いや。謝るのは俺のほうでしょう」
 きっぱりしたトーンだった。
「どうにも余裕なくてさ、言い訳にもならんけど。つーか、言い訳できることなんてないよな。正直、帰るって言ったきみを強引に引き止めても、その先の責任を果たせる自信はなかった」
 淡々とした、しかし言い含めるような力強さのある口調が、最後ため息でかすれる。続く言葉が「ごめん」なら、慧斗はそれを遮らなければならない。
「わかるよ。それくらい、俺だって」
 制するように言った自分の横顔は、今、彼に見られているだろうか。その先言うべきことを探しあぐねて、慧斗はじれったい気分でアクセルを踏んだ。二見の理論を借りるなら、そう、天秤。自立した社会人の両天秤が、やるべき仕事に傾いたとしても、悪いことなんか何もない。慧斗に優しくするのは、天秤がこっち側に傾いている時でいい。気持ちの仕組みってそういうものだと思う。それをわかっていても、もやもやを上手く隠せなかったりすることも含めて。乾が責任なんて負う必要ない、もちろん、義務もないのだ。
「仕事は大事だし、大変な時ならそっちに集中したいのが普通ですよ。俺だってわかってたのに、あんな、責めるみたいな言い方になっちゃって。すげえ自己嫌悪で」
 自分の唇がすらすらと動き始めたのをどこか他人事のように感じながら、果たしてこれが核心なんだろうかと迷っている。
「俺のことなんかいいから休んでって、言いたかったはずなんだけど。そう聞こえないような言葉、わざと選んだのかもしれない…です」
 ああ、なんだかやっぱり、責めるみたいな言い方。
 また失敗したかもしれない。重大な予感に心は青ざめているのに、ステアリングからは手を離せないし、前を見てなくちゃいけないし。慧斗のそんな歯痒さを、穏やかな失笑が払う。
「少しくらい責めてくれたほうが、俺も気づくよ」
「…何?」
「きみの横に座ってる人、なにげにいつも、きみに甘えてんだぜ?こないだだって、ほったらかしのわりに、傍にいてもらわないと困るくらいのことは思ってた。今日だってこれから仕事あるのに、迎えに来させたりしてな」
 人は、あまりに思いもよらない話を聞かされた時、自分に関係のある単語にしか反応できないらしい。
「…仕事っつっても、ただのコンビニですよ」
 今度は明るい失笑が弾けた。
「ただのってことはないだろ」
「海外出張ないし」
「弁当をあっためて、日々、誰かを救ってる」
「…偉いのは電子レンジだよ、それ」
「お、抵抗するなあ」
「乾さんが変なこと言うから…」
「変じゃないって、ほんとのこと」
 変、がどの部分に係るのか、ちゃんと通じているだろうか。乾は喉の奥で笑いながら、慧斗の髪を軽く撫でるだけだ。表面を滑った手のひらが、耳をくすぐり、頬を擦る――甘やかされたことはあっても、甘えてもらった憶えなんか、どこにもないのに。
「中村くん、ハンドル戻すのがちょっと遅いんだな」
 告げられたのは、熱くなった頬への揶揄ではなく、運転技術の評価だった。

 

 十分足らずの短いドライブが終わった。乾の後姿を下から追いかけるようにして、マンションの階段を上る。ドアの鍵は、慧斗がキーケースから探し出すほうが早い。住人の一週間の不在を、もともとシンプルなワンルームは、平然と耐えていたような雰囲気だった。
 乾がスーツケースに替えて慧斗の手を握り、引っ張る。
「帰るなんて言わないように」
「…うん」
 慧斗はベッドの縁に腰掛けて、背広を脱ぎ、ネクタイを外し、水道の蛇口を捻って手を洗い、その手で水をすくってうがいを済ませるまでの、乾の一連の動作を眺めていた。
「こっち、天気どうだった?」
「ん、ずっとこんな感じ。曇ってて、寒かった」
「はは、向こうもそんなもんだったよ」
 じっと黙っていたヒーターが点火して、灯油のかすかな臭いが鼻をつく。
「あ。お土産あるよ、空港土産」
「うん…あとで」
 振り向いた乾と、目が合う。ずっと見ていたことを、気づかれていたかもしれない。ヒーターの温度表示に視線を逸らすと、室温12℃で、急に肩のあたりが寒くなったような気がした。
 ゆっくりと、隣が沈む。
 肩に腕がまわされる。寒さを気にする必要はなくなり、少し体重を預けながら乾の背中に腕をまわし返せば、キスの体勢になる。唇を触れ合わせる前、どちらともなく躊躇ったのは、どちらともなく深い口付けを予告するためだったのだと後から思った。
 表面が重なる。少し開けば、しっとりと柔らかい感触。もう少し開いて、舌先を出す。きゅっと強く押し付けて、それから吸うと、湿った音が鳴る。染み出す唾液を口の中で遊ばせながら、慎重に、ベッドに倒れ込んだ。
 くちゅ…くちゅ…心が急くほど、リズムは深く遅く、奥まで探るものになる。息が上がるまでそうやって唇を吸い合い、やがて、乾が上半身を浮かせた。漏らす息は切ないくせに、煙に巻くような目つきで悠然と笑っている。
「日本の味だ」
「…なに言って」
「ケート、キスだけでいけそう?」
「キスだけなの?」
「最後までしたら、レジ立てなくなるだろ?」
 笑いながら、痛みを堪える顔。俺だってそう、痛いくらい硬い。乾は眉根を寄せて目を瞑り、開くと、慧斗の首筋に顔を埋めた。
「触っていい?」
「うん」
 ――キスを再開しながら、相手の下着の中に手を入れて、掴み出して。母音だけで構成された原始的な言葉を交わしながら、欲情して膨らんだ性器をぬるぬるするまで擦り合って、最後、連鎖反応みたいに二人で射精して。
 よかった?って訊いたのが慧斗で、よかったって答えたのが乾。じゃあよかった、と言うと、とどめのように濃厚なキスに襲われた。

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