1.
スピーカーから溢れ出す、玩具を鳴らすような笑い声。ちらちらと光る画面には、原色のテロップが出ては消える。車の走り去る音が遠くからかぶさるように、聞き逃しそうなほどかすかな欠伸が隣から、時折聞こえてくる。最初から少なかった口数が徐々に減り、その内にゼロになると、この部屋にテレビの音と自分だけが何となく取り残されてしまった。
キャラキャラとまた笑い声。誘発されたように、また、欠伸。
夜のトーク番組は、よく知らない歌手がゲストだ。メインパーソナリティーはインテリ系のコメディアン、アシスタントにファッションモデル出身で女優路線のタレント。話題はゲストの愛犬から、新曲のプロモーションへと移っている。どちらかが、少なくとも自分が好んで観ている番組ではなく、番組名さえあやふやなまま眺めている。テレビを点けっ放しでいたら、時間帯が変わって、欧州サッカーのダイジェストからトーク番組に変わっただけなのだが。
頬杖を突いた乾の、あっさり取り澄ました横顔を盗み見る。はぐらかすように少し目蓋を落とした表情は、彼によく見られるものではある。それでもさっきから連発されている欠伸が、単なるお得意の表情というだけではないのだと、慧斗に教えてくれていた。
金曜の夜。もうすぐ日付も変わる。今夜はシフトに入っていないから、いつまでここでこうしていても構わないんだけど。
――突然立ち上がった慧斗を、大げさな動作で乾が見上げた。
「煙草…」
短く発したその言葉は、相手を深く頷かせるだけの力を持っている。慧斗はガラス戸を開け、灰皿片手に真っ暗なベランダに出た。部屋中に喫煙許可を下ろている自分と違い、換気扇の下かベランダが、乾の部屋の喫煙場所なのだ。自分にとって換気扇の下はあまりに味気なく、選択肢はないに等しかった。二月の初め、冬はまだまだ居座っている。痛いくらい冷たい空気に、白い息が広がった。
ああ、どうりで妙に静かだと思った。
いつの間にか雨音が消え、みぞれ混じりの雪が降っていたらしい。ベランダの向こうに目を凝らすと、大粒の雪が、カーテンの隙間から漏れる光に照らされては沈んでいる。咥え煙草に火を点ける前に、一度ガラス戸を開け、報告だけでもすることにした。
「雪になってる」
「あ、マジ?」
乾は仰け反るように振り返り、暗闇の中から捜し出すように目を眇めた。
「ここんとこ、よく降るよなぁ」
やがて肉眼で確認できたのだろう、元のテレビを眺める姿勢に戻る。それを見届けてから改めてガラス戸を閉め、慧斗は急いで煙草に火を近づけた。大きく吸い込み、禁断症状からゆるやかに解放されていく感覚にしばらく身を任せる。
今日の乾は、あまり喋らない。日頃の会話は、他愛ないものから真剣なものまで彼の饒舌で持っていると自覚はある。彼の饒舌がなくなると自分の口下手――それも会話のきっかけさえ考えあぐねて黙るほどの――だけが残ってしまうのも、じゅうぶん過ぎるほどわかっている。気詰まりというわけではないが、当方力不足につき間を持たすことができません、というのも正直なところ。今この瞬間に口下手が劇的に改善されるなんて奇跡が起きるわけもなく、自己分析と自己反省がループする中、寒さに凍えながら、肺に渦巻くニコチンに容易い慰めを感じているというわけ。
年明け早々から、トラブル対応に追われているらしい。
らしい、なんて伝聞形じゃ、まるで噂に聞いたみたいだけど。簡単に教えてもらっただけだし、どのみち詳しく教わってもイメージが湧かないし、そもそも門外漢に専門用語をくどくど聞かせるようなひとではないから。残業と休日出勤が多くなり、最近特に疲れた様子を隠せなくなってきていて、久しぶりの土曜休みを控えた今夜それもピークに達していそうだ。そんな事実と観察から、ずいぶん大変なんだろうなと想像するのが精一杯だった。
こぼれた灰がニットに落ちたような気がして、胸のあたりを手で払う。短くなった煙草をもみ消し、慧斗は部屋に戻った。
ベッドの脇の大きなかたまりを跨ぐ。荷造り前の、空のスーツケースが広げてあるのだ。月曜から三泊五日の海外出張なのだそう。ぽかんと口を開けたような形でそのままになっているスーツケースは、急な出張のために急遽引っ張り出された慌ただしさを物語るようだった。現時点でそれ以上の仕度を放棄してあるのも、心身の状態を物語っているのかもしれない。荷物を詰め込むのは、今夜でなくても確かに間に合うだろう。
乾が不意にリモコンを掴み、チャンネルを変える。テーブルの上の黒くて薄い機械にその機能が備わっていることを、今思い出したかのような仕草だ。国営放送の天気予報にチャンネルが合うと、そこでザッピングをやめる。来週の日本の週間天気なんて、見てどうしようっていうんだろう。
さっきまで座っていた場所、小さなテーブルを挟んだ向かい側に戻るのをやめて、乾の隣に腰を下ろす。
「…週間天気なんて見て、どうすんの?」
ちらりと向けられた目と、目が合う。乾は口元を大きくゆるめて破顔した。
「――だよな」
笑いながら伸びをして、ゆっくりと床に寝転がる。ちょうど視界に入ったのだろう慧斗の手を握り、手のひらの中で弄び始めた。
「来週日本にいないっつーの、なあ」
「…もう寝たら?」
落ちそうで落ちない目蓋の隙間から慧斗を見上げるだけで、乾はイエスともノーとも言わない。繋がった手を持ち上げると、離れることなく彼の手までくっついてきて、慧斗の太腿の上に揃って着地した。指と指が絡まる。
少し屈み込んで乾の顔を窺い、そのまま距離を縮めて唇を重ねる。無抵抗の唇を軽く吸って、離す。
「乾さん…」
「ん?」
「今日は帰るよ」
穏やかに脱力していた彼の表情が、わずかに引き締まったかもしれない。
「なに、どうした」
「や、べつに」
予想より反応が真剣だったせいで、しどろもどろな答えになってしまった。
「雪、降って来たから」
「なんで。雪降ったから帰るって…そんな昔話あったっけ?」
慧斗の言葉に何かのメタファーがあると思ったのか、乾はしきりに訝しがる。そうじゃない、と首を振って、繋いだ手を彼の胸の上に導いた。
「つーか…今、俺必要ないし」
ふっと握力が弱まり、慧斗の手が解放される。乾は身軽に半身を起こすと、酷い失敗をしでかしたような声を出した。
「あー…ごめん」
それから、酷い失敗をしでかしたような渋面を、片手で覆う。
「嫌な気分にさせてたな、俺」
「え、ちが…」
失言に気づき、慧斗は焦った。違います、たったそれだけの言い訳も、口の中で半分消えてしまう。
サービストークがなくても、キス一回でも構わない。疲れた乾を非難するつもりなんてなかったし、彼の疲労が理由で今夜が平凡以下に終わることへの失望をアピールするつもりもない。理解しているから。ゆっくり休んでほしいと、言いたかったのはそのことだったはずなのに。
言い方を間違えたんだ。
これじゃあまるで、忙しい恋人を気遣いもせず拗ねている身勝手なやつ、ではないか。
「ごめんな」
黙り込んだ慧斗の顔を、乾が覗き込む。
「そんな…全然」
頭の中の混乱とは裏腹に、乾を謝罪させているのは自分だ。どんなつもりがあってもなくても、彼を謝罪させている、その現実は変わらない。
「もう少し待ってて。出張から帰れば、かなり落ち着くから。な?」
あやすような口調に彼をさせるほど、自分は頑なな顔をしているのだろうか。肩に置かれた手は、ごくさりげない力加減だけど、その一点で全身を支えられているような感覚を慧斗に与える。それが妙に居たたまれなくて、肩を揺すって逃れた。
「帰ります…あの」
「雪降って来たから?」
「うん…」
気を悪くしていないだろうか。寛大な冗談に笑い返そうとして、しかし、交わりそうになる目線を思わず逸らしてしまう。頬にかかる髪をすくように乾の手が添えられ、隙間からキスが届いた。
「――滑らないように気をつけろよ。地元民に言うのもなんだけど」
どうしてもと引き止められることはなく、ほっと、心の中でため息を吐く。彼にだって、自分に今一番必要なのは休養だと、わかっているのだ。
「乾さんも気をつけて、出張」
「の前に電話するよ」
送り出すのはまだ早いと笑う乾に、今度こそ笑い返して、慧斗はテーブルのキーケースを拾い上げた。ダウンを羽織り、ジッパーを一番上まで上げれば、身支度は終わる。
「じゃ…おやすみなさい」
「うん、おやすみ」
軽く片手を挙げた乾に頷き返し、部屋を出た。
凍りついたコンクリートの廊下は、痛々しいほどの冷気を放っている。あたふたと階段を駆け下りる自分が振り切りたいのは、ぼんやりした気まずさだろう。言い訳し損なったのは、それがまるきり誤解ではなかったからか、誤解されてもいいと思ったからか。
駐輪スペースから見上げても、スチールのドアと玄関用のライトが等間隔に並んでいるのが見えるだけ。真っ黒い空から羽根のようにひらひらと舞い落ちてくるのは雪…みぞれは消えて、本格的な雪模様だ。
ヘルメットをかぶり、ゴーグルを下ろし、グローブをはめる。原付バイクを屋根の下から引き出し、慧斗はもう一度ドアを見上げた。
意地を張った。のだろうか?どうして?自分のことなのに疑問符だらけだ。一人であれこれ考えすぎる悪い癖さえ、鈍ってしまっているみたい。キーを挿し込んで捻る。しばらくエンジンを吹かし、シートに跨ると、轍のない路地にゆっくりと滑り出した。