Novel >  ウサギノココロ >  悪友の領分2

2.

 閉店は午前二時。
 片付け、掃除、レジ〆など閉店後の業務は多く、帰宅が四時近くになることもある。時間を無視して顔を出す友人達がいればさらに遅くなるが、そうそうあることでもない。身体に染み付いた作業を終え、ジャケットのジッパーを首元まで上げてから店を出る。
 深夜と明け方の間、一日で最も冷え込む時間だ。裏通りにある駐車場までの、歩いて一、二分程度の距離でも凍えそうな気温だった。ボンネットの上に乗っていた一枚の落ち葉を摘み上げて捨て、車に乗り込む。
 私鉄で二駅先の町に引っ越したのは大学三年の時で、以来、同じアパートに住み続けている。ずっと狙っていたレトロな集合住宅を、信広は懐古主義と鼻で笑ったが。
 アパートの駐車場には、建物に寄り添うように、一本の銀杏の大木が生えている。雄株らしく実をつけることはなく、この季節では葉も落ちてしまっているが、慎の住む部屋はちょうど、夏場の日光がほとんどその葉に遮られる位置にあった。
 鍵を挿し込んでドアを開けると、キィ、軋んだ音をたてる。クッションがいかれていて、減速せずにバタンと派手に閉まる。老朽化は否定できない。
 シャワーを浴びて、リビングの旧式ヒーターを稼動させる。水をたっぷりと含んだ髪を、絞るように拭き、ドライヤーで完全に乾かさなければ終わらない。生乾きで放っておくと、二次被害を被った男曰く、牛乳拭いた雑巾が腐った臭いになるからだ。もちろん、自分自身が一番それを思い知ってもいる。
 その後は大抵、酒を飲みながら本を開きながら音楽を聴きながら、散漫に眠気を待つのが常だった。
 何本かのボトルで迷ったが、飲み残しのウィスキーを空けてしまうことにしよう。グラスに買い置きの氷を入れて、注いだだけの、オンザロック。同じく食べ残してあったスモークチーズを皿に載せ、キッチンを出る。
 レコードは、プレーヤーに入れっぱなしのマイルスでいい。ヒップホップのトラックとクロスオーヴァーして、淡々とトランペットが流れる、彼の遺作だ。大音量で聴くのが正統かもしれないが、今は小さめのボリュームが相応しい。
 煙草のケースを掴み、一本を抜き出す。メーカーにこだわりはなく、煙草に関しては雑食だ。選んで使っているのはむしろライターで、手にしっかりと感じる重量、存在感のある大きさ、銀色の光沢、そして鋭く響く反響板、どれも気に入っている。
 キンッ…。甲高い開閉音に続いて大きく立ち上った炎が、煙草の先端を焦がした。

 

 ゴリ、鈍い金属音が聞こえる。
 鍵が回る、ドアが開く。頭の片隅のまだ冴えた部分が、それを察知する。小さく流した音楽に混じって感じる、他人の気配は次第に近づき、
「ひでぇな…」
 辟易したような呻きが真上から落ちてきた。
 見上げた先に、鋭角な顎のラインと歪んだ唇が見える。左耳のピアスを引っ張りながら、信広が目線だけで慎を見下ろしていた。
「…何がひどいって?」
「全部だよ。暗いし、暑ぃし、煙いし、臭い」
 間接照明一つを除いて、部屋の明かりは点いていない。点けたままのヒーターは、汗ばむほど室温を上昇させている。分厚いダウンを脱いで、鼻先の空気を扇いだ信広は、皿の上で燃える物体に嫌そうな視線を向けた。
「どこだよここは…インドの寺院か」
「いや、意外と当たってるよ」
 非難したつもりだろうが、ほぼ正解。数切れのチーズを片付けたあとの皿で、チャンダン香を焚いているところだ。インド由来の、まさに寺院の香りと表現される銘柄。皿に置いて火を点けただけの簡単な方法だが、小さな三角錐からは耐えることなく煙が立ち上っている。広くもない部屋に、生々しくさえある濃厚な白檀の香りが充満していた。この至近距離で嗅ぐのは異常かもしれないが、習慣というより性癖に近い。それに煙草の匂いがない交ぜになって、不意打ちで嗅がされた男をひるませたらしい。
「だいたい何でマイルスなんだよ…」
 アルバムは二周目に入ったところだ。この状況下で流れているのがマントラでもそれに類するものでもなく、マイルス・デイヴィスとあれば、確かに、信広でなくとも文句を言いたくなるかもしれない。
 慎の向かいに腰掛けて、タンクトップから突き出した腕を曲げ、テーブルに肘をつく。銀髪を指先で捩りながら、きつく切れ上がった目を少し細める。
「呑むの?」
「ん」
 奉仕されることに慣れた男の、短い返事。物好きを自認する慎にとって、その我侭を満足させてやるのは苦痛ではない。キッチンから新しいグラスと氷とを持って戻り、彼の前でオンザロックを作る。
「なあ、シン」
 ボトルを置いた慎の手を、信広の手が押さえた。
「する?」
 垂れたドレッドの房を引っ張られれば、顔が近づく。省かれた目的語はキスを指すのかセックスを指すのか、そのどちらの行為も、二人の間に存在していた時期はある。ほんの一、二ヶ月前までの、過去形で語ることのできる事実だ。
「おいノブヒロ、酔ってんのかよ」
 ふっ、と弾けた失笑に、しかし酒臭さはない。縮まる唇の距離は、慎に相手の真意を問わせるより、あることを思い出させていた。
「こないだミトがさ」
 前触れなく発した人名に、信広の動きが一瞬だが止まる。
「キス下手だって、気にしてたぜ?」
 心当たりあり、のよう。髪を握る手を緩めると、信広は慎の胸を押し返し、椅子に反り返って天井を仰いだ。
「…他は?」
「節操なし、無神経、早漏、クソ野郎…だったなかな」
 答えはない。
 慎は元通り椅子に腰掛け、氷で薄まったグラスの中身にウィスキーを注いだ。
「何したんだよ」
「何にもしてねぇよ…」
「お前がそう思ってるだけじゃねえの?」
「んなこと言ったら、何だってやったことになっちまうだろうが」
 さも正論のようにうそぶいて、グラスをあおる。
「どうせ言い訳立たねえことしたんだろ」
「お前は得意だもんなぁ、言い訳」
 皮肉には皮肉を。信広は深く笑いながら、煙草に火をつけた。キンッ…高く響く蓋の音は、彼のライターのものではない。信広のライターもノンブランドではないはずだが、反響板にはこだわらない男だ。鼻先に吹きかけられた、お決まりのセブンスターの煙を手で払う。
「…俺の話はともかく。巻き込まれてやる気はないからな?」
 にやりと大きく歪んだ唇が、信広の答えだろう。呆れたやつ。慎はため息を吐いて、目の前の男にゆっくりと告げた。
「俺はどっちの味方もしねえよ。特に、お前の味方は」
「静観して、あわよくば、さらおうって?」
 彼の挑発に、にやり笑いを返してやったことが答えだ。眉をしかめるくらいなら、訊かなければいいのに。ギシ、背もたれが軋む音。信広はもう一度背中を反らし、
「…あー、めんどくせー」
 気だるそうに呟いた
「放ったらかしときゃギャンギャンうるせーし、構ってやったらやったで怒り出すし」
 喉仏が大きく上下するたびに紡がれる、率直で容赦のない不満は、まさに決まり文句。これを聞くのは何度目だろう。
「それが嫌なら手放せって、言わなかった?」
 これを言うのが何度目かも、わからない。
 水兎のあの、バカでガキで手に負えないところが、自分は気に入っている。断言できるが、ああいう厄介なタイプが好きだ。
 テーブルのグラスを、信広が再び掴む。円形を描いた結露の跡を手のひらでこすると、
「誰も嫌だとは言ってねえだろ?」
 暴君の口調で言って、またグラスをあおった。矛盾だらけの、子供じみた傲慢さに支配されたせりふ。この男が、この男たる所以だ。
 くくく…。気づけば笑っていた。
 断言できるが。こういう厄介なタイプが、好きだ。
「ま、お前も大変だね」
「大変なんだよ……あーあ、お前とだったら面倒もないのになぁ」
「それが、恋愛と友情の違いってやつだろ?」
 咥え煙草を摘んだままのポーズで、信広が目を見開く。フリーズが解けると、二、三度、目瞬く。
「慎…お前さ」
「ん?」
「それ、何か言ってるようで、何も言ってねぇ…」
 じゅうぶん長い煙草を惜しげもなく押し潰し、信広は天井に煙を噴き上げた。白く直線状に伸びて、広がり、消える。
「――ははっ」
 堪えきれず弾けた失笑は、奇妙に陽気なトーンだった。

END
メカさまよりいただきました、70万打キリ番リクエスト「シンさん中心でウサギノココロ」です。
拙作随一のミステリアスな男の横顔を、少しだけ、ご披露いたしました。より謎が深まる部分もあるかもしれませんが、複雑な(屈折した)心の持ち主かつ、それを自覚し楽しむ、彼もじゅうぶん厄介なタイプかと思います。色々ネタだけはあった慎さんの私生活を、一部ですが書くことができて、とっても楽しかったです。
【補足】作中の季節は、「ウサギノココロ第二章」から続く、一月終盤くらいをイメージしています。
(2007.9.18)
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